幸せになって下さい

 ガラスのローテーブルの上に置かれた可愛らしいウサギが表紙の手帳を前に、私はただただ茫然としていた。

 これはただのスケジュール帳でも何でもない。恐らく世の中の女性が一度は憧れるだろう物。

「にんしんにかげつ…」

 そう、手帳は手帳でも、それはW母子手帳Wと呼ばれる物だった。









 こうなったのも昨日、月のものが遅れ過ぎている事に気付いて、慌てて市販で売られている妊娠検査薬を買って試した所から始まる。検査薬片手にトイレに篭もり待つこと数分。見事くっきりはっきりと線が現れて「あれれー?おかしいぞー?」となったのは記憶に新しい。

 ちなみにこの時、私は電撃を受けたかのような衝撃を身体全体に受けていた。

 妊娠に関してでは無い。

 この時、私は前世の記憶と言うものを唐突に思い出したのだ。

 何言ってんのコイツ?と思われる事待ったなしだとは思うが取り敢えず最後まで聞いてくれ。これはマジもんなのだ。私は前世、どこにでも居る普通のOLでどこにでもいそうなフツメンの旦那と結婚し、たまに喧嘩しながらも平穏な日々を過ごしていた。そんなある日、具合が悪く病院に行ったところ何とまあ悪性のガンが発覚し、余命三ヶ月と宣告され30代半ばで旦那に看取られ天に召されたのが前の人生である。

 心残りがない…と言えば嘘になる。前世は不妊治療の甲斐も無く、結局子どもを身篭る事が出来ずに旦那を一人残して亡くなってしまったのだから…。フツメンで平凡な旦那ではあったが、それでも優しく時に頼もしい彼が好きだった。一人残してしまって本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。意外と泣き虫な彼だから、たくさん泣いてくれたかもしれない。…まあ、今になっては確認する術もないのだが。ただただ彼の幸せを願うばかりである。

 そしてそんな私が前に生きていた世界にはひとつの有名な漫画があった。テレビアニメ化も勿論、映画化実写化と大人気な国民的漫画だ。

 ───真実はいつもひとつ!で有名な、身体は子ども頭脳は大人なその名も名探偵コナン。

 ここまで言えばもう分かるだろう?

 今世はどうやら名探偵コナンの世界に転生してしまったようです。

「妊娠…」

 話が脱線してしまったので元に戻すが、そんな世界で私は妊娠してしまったようなのである。

「妊娠…ここに…?」

 前世であんなにも渇望した命が、ここに宿っているなんて信じられない。お腹をさすっても何の変哲もないいつものお腹。でも実際に今日病院に行ってエコーで確認したのだ。まだまだ小さなただの丸。胎嚢と呼ばれるそれを見て、そこで漸く確かな命がここにあるのだと初めて実感した。

「…赤ちゃん、がいる…」

 再び茫然と母子手帳とエコー写真を眺める。

 ちなみに今の私は裕福な家庭に生まれ何の不自由も無く自由に生きてきた我儘な世間知らずの23歳の小娘。それが今の私である。なんてこった。

 しかも更に信じられないのが、このお腹の子の父親が、前世で世の中の女性を虜にしてやまなかったあの男…安室透こと降谷零だと言うことだ。

「なんてこった…!」

 例の如く降谷零に惚れた小娘こと私が、警察関係者の知り合いがいる父親のコネを盛大に使って恋人の地位を獲得した上に、更に確実に降谷さんを自分のものにすべくコンドームに穴を開けるという最低な行為を働き見事妊娠したというのだから何とまあ恐ろしい。

「ひえっ私はなんて事を…」

 きっと今の私は今にも死にそうな顔をしているだろう。記憶を取り戻す前なら嬉々としてこのエコー写真を降谷さんに見せ付けた上で結婚を迫っていたに違いないが、今の私は違う。

 ───こんなの…この国が恋人だというトリプルフェイス様の仕事の妨害ではないか…っ!!

 確かに降谷さんからは何も知らされていないが、今もきっと汗水流しながらこの日の本の為に働いているのだろう。それなのに私は本当になんて事を…!お仕事の邪魔どころか完全なる重荷!!死んで詫びなければならないレベルの所業を犯してしまった。

「ど、どうする?どうすれば…」

 降谷零の私に対する愛は欠片もないのは間違いない。私だってこんな我儘な世間知らずの小娘、金を積まれたってお断りする。それなのに私は上の立場の人間を使って、あの手この手で何とか降谷さんを手に入れたと言うのだから末恐ろしい…。

 まあだったらやはりここは別れを早急に切り出せば良いのでは?という考えが頭をよぎった。

 まず第一に子どもを堕ろすなんて選択肢は存在しない。どんなに降谷さんの愛は無いと分かっていても、前世でもあれだけ苦労した子をやっとこの手に抱けるかもしれないのだ。クソみたいな私がしでかした最低な行いでも、これから生まれてくる赤ちゃんには何の罪もない。

「しかし…一人で育てられるのかな…?」

 正直不安はたくさんある。子育てなんてしたことないし、この事を相談出来るような親しい友人もいない(何せ私は稀に見る自分本位の我儘な世間知らずの小娘だった)。友人の男を寝取ってみたり誑かしてみたりすればそりゃみんな嫌悪して離れて行くわ。本当に頭が沸いてるとしか思えない(何度も言うが私の事である)。

 口癖はパパに言い付けてやる!の頭悪い系女子です。えへっ。

 まあ何がともあれ、そんな馬鹿女があれ程の男に結婚を迫って良いわけがないのである。寧ろお金を払って謝罪すべきなのでは…?いや、彼はきっとそんなお金受け取らないだろうけど。

「…うん、降谷さんにはこんな馬鹿女にふられるなんて不名誉を与えてしまって大変申し訳ないないけれど、やっぱりバレる前に適当な理由付けて別れよう…」

 もしあの顔で堕ろせなんて言われたら、どんなに私のせいであっても流石に心折れる。逆に責任取ると言われても申し訳なさで死ぬ。つまるところ、子どもの事は隠し通したまま別れるのがベストなのだ。

「さて…どうしたものか…」

 お腹を擦りながら、これからすべき作戦を頭の中で練るのであった…。










 ───降谷零の考察───

「…これは」

 久々に帰ってきた我が家…もとい、安室透のセーフハウスのテーブルに、一枚の置き手紙が置かれていた。

 自分より遥かに上の立場の上司から紹介された名字財閥の娘を渋々恋人に据え置かれて半年。一緒に住みたいと喚かれ仕方なく安室透名義のセーフハウスに女を住まわせていたが、あんなにも毎日毎日くだらない自分本位の内容の連絡を送ったり、返事を早くしろと強請っていた女からパタリと連絡が途絶えて早3日。流石に変だと気付き家に帰ってきたが、やけに静かな我が家に降谷が顔を顰めたのは無理もないだろう。

「…………」

 いつもは迷惑なくらい部屋中に振り撒かれた香水の香りや、近所迷惑では?と頭を悩ませるレベルの爆音を奏でる洋楽に辟易していたがそれもない。リビングに続く扉をそっと開けて中を確認するが、人の気配がまるでしなかった。

 降谷は首を傾げながらリビングに足を踏み入れ辺りをざっと見渡す。そしてテーブルの上に置かれた一通の手紙の存在に気付くのにはそう時間はかからなかった。

「……なんだ?」

 悪趣味では?と思えるほどのどぎついピンク色のヒョウ柄模様の封筒。中から一枚の紙を取り出すと、降谷はそれにサッと目を通し始めた。





「…───あんの馬鹿女


 手紙を読んだ第一の感想はそれだった。ざっくり説明をすると、新しい男ができたから貴方は用済み!さようなら〜。という感じだろう。一応彼女の方から父親には説明してあるから心配しないで、とは書かれているがどこまで信用していいものか…。

「っとに、どこまで自分本位なんだ…!」

 怒りで思わず手紙を握り締めてしまったが仕方ないだろう。降谷は鈍い痛みを訴える頭を抑えながら、心を落ち着かせるために深く息を吐き出した。

 取り敢えず、馬鹿女の手から逃れられるのは本当に有難い話だ。どうやって別れを切り出そうか頭を悩ませ続けていたが、これはこれで結果オーライ。どこの誰が次の生贄になったかは知らないが、心の底から感謝申し上げたいと降谷は思った。

 彼女の名前は名字名前と言い、名字家の一人娘で、早くに奥方を亡くされた名字当主がどこまでも甘やかしてきたのだろう。生まれてこの方怒られたことなんてないのか、我儘な言動や行動は当たり前。自分の思い通りにならなければヒステリーを起こすような女だった。

 写真でしか見た事ないが見た目は奥方に似たようで、とても可愛らしい愛嬌のある顔をしている。中身は悪魔のような女だが、容姿だけで見れば引く手数多だろう。

 ただ降谷からしてみれば、折角の綺麗な黒髪をキャラメルブラウンだかハニーブラウンだかよく分からん色に染めた上にくるくるにコテで巻いて、これでもかってくらいまつ毛をマスカラでバサバサに塗り固めた上でカールして持ち上げ、唇には真っ赤はルージュをひいた全体的に厚塗り化粧の彼女を一度も可愛いと思った事はない。寧ろスッピンの方がさっぱりしてて好きだと思ったくらいである。

「はあ、取り敢えずアイツの居場所だけは確認しとくか…」

 よりを戻すつもりは塵ほどもないが、今どんな状況で降谷と別れると言い出したのかだけは把握しておきたい。また面倒な事が起きる前に手を打っておきたいのだ。完全に手を切って関係を清算しなければ、いつまたあの癇癪持ちが暴れ出すか気が気じゃないのである。

 降谷は面倒な事になったなと遠い目をしながら、これからすべき事を思い浮かべていた…。








「えっ、降谷さん、ついにあの女性と別れられたんですか?」

 手に持っていたコーヒーの缶を危うく落としそうになりながら、風見裕也は目の前に腰掛ける上司に驚いたような声を掛けた。

「そう。あっちから別れようって。帰ったらテーブルの上に置き手紙があった」

 降谷は手に持っていたコーヒーを飲みながら、淡々とまるでいつもの業務連絡の如く昨日のことを風見に打ち明けていた。

「なんでも新しい男が出来たんだと」

 さらりと告げられる非道な言葉。

「あー…はあ、成程」

 風見は思わず顰めっ面になりながらも、一度だけ会った事のある名前の姿を思い浮かべて一人納得する。あの我儘な娘なら飽きたら捨てる…という行為を心を痛めることなく呼吸の如く当たり前のようにするのだろう。罪悪感など決して抱かないに違いない。

「ま、俺としては解放されて清々してるくらいなんだけど、これでまた変に話が拗れたら嫌だからお前アイツの様子を見に行ってくれないか?」

 その言葉に風見は顔色をサッと悪くした。

「えっ私がですか?…いや、流石に一度きりとは言え、前に会った事のある私が接触すれば勘づかれるのでは…?」

「…あの馬鹿女に関して覚えてないとは思うが…」

 降谷の暴言にひくりと口元を引き攣らせながら返答を待っていると、たまたま近くを通りかかった別の部下に降谷は声を掛けた。

「おい、佐古」

「は、はい?なんでしょうか?」

 急に話し掛けられた佐古という20代半ばの男は、何かしでかししまったのかと顔色を悪くしながら降谷の前に立つ。

 降谷はジロジロと上から下まで佐古を観察すると、ふっと目を細め口角を釣り上げた。

「よし、お前に特別任務だ」

 にんまり悪い笑みを浮かべる降谷に、佐古の表情が更に死んでいくのが窺え、風見は心の中で合掌をした。







 ───名前side───

 あれから早5ヶ月。お金を持ってる系女子はすげえや。としみじみ思いながら、私はただ今お世話になっている築40年の決して綺麗とは言えない二階建てアパートの一階の縁側でぼんやりと空を見上げていた。

 あの日、大きな決意と共に別れを思い立って即行動に移した私は、まずはこれから住む家を探す事にした。そこで見つけたのがここ…さくら荘。80代のおばあちゃんが大家さんで、1階に3部屋、2階に3部屋で計6部屋しかないこじんまりとしたアパートである。ボロ屋と言われても過言ではないが、大家さんであるおばあちゃんはとても人当たりが良く、今すぐ住みたいと言った所、理由も聞かずに良いよと言ってくれた本当に本当に心優しい良い人なのである。

 金にものを言わせその日のうちに電化製品や家具を揃えアパートに持ち運び、ある程度の生活水準を整えた時は「私もやれば出来るじゃん」と思ったのも無理はない。

 取り敢えず、私名義の通帳に目玉が飛び出るくらいのお金が入っていたことが行動の原動力になったのは間違いない。毎月お金を振り込んでくれていたパパありがとう!大好き!助かりました!(ちなみに私は今現在無職なので、これは自分で稼いだお金ではない)

 ともあれ、いつ何時何があるか分かったものでは無いので(何せここは日本のヨハネスブルグ)、これからは無駄遣いはしないようにせねばならないだろう。大丈夫、前世で培った節約術を覚えている私に死角はないのだ!ふははははは!!

 いやいや本当に。不妊治療って本当にお金かかるんですよね…。前世はそこで苦労しながらも夫婦二人三脚でお金をやり繰りしたものである。豆腐やもやしにいつも助けられてました…。だから大抵の事は苦ではない。

 取り敢えずこんなボロアパートに、前までセレブ生活していた私が住んでるとはあの降谷さんでも思いもよらないだろう。まさか5ヶ月経った今でも私を探したりとかするとは思わないが、念には念を。これからは決して迷惑おかけしませんので!人様に迷惑かけず細々と暮らしていく所存であります。

 あれから5ヶ月という事は、お腹の子はすでに7ヶ月を迎えていた。7ヶ月ともなれば随分とお腹も大きくなる。お腹をゆるりと撫でれば、返事だとばかりにどこどことお腹を蹴っ飛ばされた。

「ふう、今日もお腹の子は元気だなぁ」

「あらあら、今日も元気なのかい?」

 毎回お腹を容赦なく蹴っ飛ばしてくるベイビーに思わず独り言を呟くと、おばあちゃんが飲み物をお盆に乗せて現れた。ちなみにおばあちゃんとは引越ししてきて以来、大家さん件お話相手としてとても良くして頂いております。

「うん、とっても元気。そう言えばこの間検診行った時性別が分かったんだけど、本当におばあちゃんが言った通りお腹の子は男の子だったよ」

 この間漸く性別が判明したのだが、再三おばあちゃんからは絶対男の子だと言われて来た通り男の子でした。流石年の功。勘が鋭い。

「ほっほっほ。やっぱりねぇ」

 嬉しそうに微笑みながらお茶を啜るおばあちゃん。ちなみにカフェインを控えている私には冷たい麦茶を出してくれた。

「ねえねえ、どうして男の子だと分かったの?」

「ふふふ。それはねぇ名前ちゃんがしょっぱい物を食べたいって言ってたり、お腹の出方が尖ってるように見えたからだよ」

「へえ!そんな事で分かるんだ」

「まあ当たるも八卦当たらぬも八卦とも言うがねぇ…」

 成程。当たるかもしれないし当たらないかもしれない。つまるところ、ただの迷信ってやつなのだろう。それでも今回は当たっていたのだから、やっぱりおばあちゃんは凄いと思ってしまう。

「じゃあ甘いものが食べたくなったり、お腹が丸かったりすると女の子ってわけかぁ」

「そうだねぇ。昔からそう聞くねぇ」

 お茶を飲みながらしみじみと頷くおばあちゃん。昔の人はそうやって男の子が生まれるのか女の子が生まれるのか楽しみにしてたんだなとほっこりした。

「あっそうだ。これからスーパーに買い物に行くけど、おばあちゃん何か欲しいものある?」

「これこれ、妊婦さんに重たいものは厳禁なんだよ?婆ちゃんのことは良いから買いすぎないようにね」

「ええー?大丈夫なのに…。でも、分かったよ。無理しないようにするね」

 そう言ってまたするりとお腹を撫でれば、ここに赤ちゃんがいるんだという実感が湧いてくる。

「大切な命だもんね…。大事にしなきゃ」

 なんだかんだであの降谷さんの遺伝子を引き継いだ赤ちゃんなのだ。こっそり産むにしても元気に生まれて欲しいと願うのが母親って言うもの。

「…どんな子が生まれるのかな」

 私に似るのか、はたまた降谷さんに似るのか…。まだ分からないが生まれてくるのが楽しみである。









「えーと、今日は卵とほうれん草とー…」

 徒歩10分程度の距離にあるスーパーに買い物に来た私は、頭の中で今日買う物のリストを展開させながらカートを押して歩いていた。

 前世のおかげか、いくら口座にお金が入っていても、無駄なものを買わないようにしてしまう貧乏人脳をしている。…まあ、馬鹿みたいに無駄遣いするよりはマシであろう。

 あんまり買うと重くなってしまうので毎回少しずつ買いに来ているおかげか、大体のものはどこにあるか把握している。なので買い物自体はとてもスムーズに進んだ…はずたったのだが。

「っあ、すみません!」

 脇見をしていたせいか、男の人とぶつかってしまった。

「ああ…いえ、こちらこそすみません」

 やんわりした雰囲気の男性だ。まだ20代位だろう。ぺこりと頭を下げて去っていく姿を確認しつつ、私はお腹をぶつけなくて良かったとこっそり息を吐き出した。





 ───佐古side───

 佐古は、降谷に言われて降谷の元カノ…名前を探っていた。しかしどういう理由か、あんなに派手好きな女性なのに、まるで風のように忽然と消えてしまった名前を見つけるのに中々手こずってしまった。

 5ヶ月かけて漸く見つけたと思ったら、今までの派手な生活とは雲泥の差とても言っても過言では無いくらいボロアパートに身を寄せ、更にはあんなにも毎月ネイルだの美容室だのショッピングだのと金遣いの荒かった姿は形を潜め、とても質素な生活をしていた。

 しかも何より驚いたのが、男の気配がないどころかどうやら妊婦らしい、ということだった。妊婦健診に行く姿を何度か捉えたが、隣に男が並び立つことは一度だって無かった。

 それがどうしてなのかはまだ調査中であるが、あの質素なアパートから男の気配がまるでない事から、今は完全なフリーなのだろう。誰の子なのか、今現在どんな状況なのか知るためには、名前にさり気なく直接聞き込むしかないと考えた佐古は、接触する機会を今か今かと待ち侘びていた。

 そんなある日、縁側で名前と大家のお婆さんの会話を盗聴(事前に設置済み)していた時に、名前がいつものスーパーで買い物をすると言う話を聞き今日が漸くそのチャンスだと佐古は意気込んだ。

 買い物カゴを引っさげて適当なものをカゴに入れつつ、さり気なく名前の様子を伺う。ゆっくりカートを押しながら、たまにお腹をゆるりと撫でては一人ひっそり微笑む姿を見て、佐古はイメージとの相違に脳内で苦しんだ。

 この任務を任されるにあたって上司から聞いていた名前のイメージはもっと派手好きな我儘な女性というものだった。しかし、今現在目の前にいる女性はそんな言葉とはかけ離れている。質素な生活もそうだが、身に付けている物もおおよそお金持ちとは思えないくらいものばかりだった。

 これから母親になるという自覚から性格が変わってしまったのかもしれないが、それにしたって激変過ぎる。正直、今の名前であればなんの問題も無さそうに感じるのも無理は無いだろう。

 佐古にも嫁がいて、しかも今月で8ヶ月になる妊婦であるのだが、やはりお腹に子どもを宿すと性格が変わる…と言うか、守らなければと思うのか、やはり母親としての自覚と共にとても強く逞しくなった様な気がする。名前もそういった母性本能で性格が変わったのかもしれないが、その事をただ報告するだけでは降谷は納得してくれず、しまいには自分で確かめたいから名前の携帯電話に盗聴アプリ仕込んでこいと言う始末。果たしてただの民間人にそんな事をしても良いのだろうか…と思いながらも上司命令なので、接触する機会を窺いつつこっそりと付けていた。

「───っあ、すみません!」

 わざとこちらからぶつかる様に仕向けたのにも関わらず、素直に謝罪の言葉を述べる名前に苦いものを感じつつ、さり気なくポケットから携帯電話を抜き取る。

「ああ…いえ、こちらこそすみません」

 ぺこりと軽く頭を下げて立ち去り気付かれないように様子を窺うと、背後でホッと息つく名前がいて…。

「………」

 佐古はやはりどう見ても悪い人では無いだろうなと思いながらも、盗聴アプリを仕込むべく監視カメラの死角に入り操作を始めた。そして今度は入れ替わりにならないようにスーパーの出口へと足早に向かう。

 ───これからが、勝負だ。








 ───名前side───

「すみません!」

 お会計が終わり、商品の袋詰めを手早く済ませて帰ろうとした時、不意に誰かから声をかけられ私は声が聞こえてきた方へ首を向けた。

「あの、すみません。先程ぶつかってしまった方…ですよね?」

「え…?」

 急に声を掛けられて振り返れば、そこには先程誤ってぶつかってしまった男性が困った様な笑みを浮かべてこちらを見詰めていた。

「え、と…どうかされましたか?」

 何かしでかしてしまったのだろうか、と若干顔色を悪くしながら男性の言葉を待っていると、男性は唐突に手に持っていた何かをこちらに差し出す。

「え…?」

「これ、貴女の携帯電話では無いですか?」

 そう言われてよくよく見てみると、確かにいつも使っている自分の携帯電話にそっくりだ。

「あれ??」

 慌ててポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出そうとするが、そこにあるべきはずの携帯電話が無い。漸くそこで自分が携帯電話を落としてしまっていて、それを男性が拾ってくれていた事に気が付いた。

「わ、すみません!それ私のですね」

「ああ、良かった。やっぱりそうだと思ってここで待ってたんです」

「すみません、わざわざありがとうございます」

 知らないうちに落としてしまっていたのだろう。男性はそれに気付いてどうやら私がスーパーから出てくるのを待っていてくれたようだった。

 携帯電話を受け取りホッと息を吐くと、男性は何やら考え込みながらじっとこちらを見詰めている事に気が付いた。

「えっと…?」

「───ああ、すみません。もしかして、なんですけど…妊婦さんですか?」

 えっ、と驚いて瞬きを繰り返す。まさか見ず知らずの男性にそんな事を聞かれるとは思ってもいなくて、思わず言葉を失い茫然と男性を見上げていると、男性は慌てたようにはにかんだ笑みをこちらに向けてきた。

「あっ急にすみません。僕の妻も今妊娠8ヶ月で。もしかしたら貴女もそうなのかなと思って…」

「あ、ああ…そうなんですね」

 ちらりと左手薬指を見れば、プラチナの指輪がはめられていて既婚者だと言う事が知れた。どうやら彼はこれからパパになるようだ。

 そう思ったら自然と笑みが零れ落ち、私は優しくお腹を擦りながら目を細めた。

「ええ、私は7ヶ月目に入った所なんです」

 先週で丁度7ヶ月。安定期も半ばでお腹も随分と目立ってきた。時折感じる胎動を嬉しく思いながらそう言えば、目の前の男の人はとても優しそうな笑みを浮かべながらゆるりと口を開いた。

「7ヶ月でしたか。結構お腹も大きくなってきて動くのも辛くなってくる時期なんじゃないですか?」

「そうですね…。でも、この子の為と思えば全然苦では無いんですよ」

 男の人の言葉に賛同しつつも、やはり我が子の成長は嬉しいものばかりで。日に日に大きくなるお腹や胎動を感じればやはり母親としても自覚も持てる。生命の神秘とはよく言ったものだ。このお腹に新しい命があると思うだけでとても神秘的で嬉しいものと思えるのだから。

「早くこの手に抱きたいとさえ思ってます」

 きっととても可愛らしい男の子だろう。私に似ても、彼に似ても。何せどちらも顔は抜群に良いのだから(こればっかりは間違いない。自分で言うのもあれだが、美男美女から生まれるのだから顔が悪いわけがない)。…ああ、でも頭は私ではなく彼に似て賢くなってくれれば良いななんてふと思った。

「…貴女はとても良い母親になれそうですね」

 ふ、とどこか哀愁漂う顔でそう言われて小首を傾げていると、男性は何事も無かったかのように先程の表情を消し去り笑顔を浮かべる。

「そう言えば今日はお一人で買い物ですか?」

 どうやら旦那さんの姿が見えないようですが。と言われて、私は思わず口を噤んでしまった。

「…あ、と。すみません…不躾な質問でしたね」

 この異様な空気をすぐさま感じ取ったのだろう。男性は困ったように眉を下げた。

「…いえ、大丈夫です。気にしないでください」

 寧ろ気を遣わせてしまってすみませんと頭を下げると、男性は慌てたように首を振りながらパッと視界に入った買い物袋を指差してこう口を開いた。

「あのっ、迷惑じゃなければ僕がその荷物お持ちします!」

「え?」

 茫然と男性を見詰める。一体どう言う意味だろうと目を瞬かせていると、男性はグッと拳を握り締めながら私に詰め寄る。

「妊婦さんが重たいものを持つなんて絶対駄目ですよ。いつなん時何があるか分からないんですから」

「え、いや、でも…」

「ここで僕が見て見ぬ振りして立ち去ったとなれば妻に叱られてしまいます。…だから、僕に荷物持ちをさせてはくれませんか?」

 強引な言葉とは裏腹に、その表情は本当にこちらを心配するかのような目をしていた。…だから私はついつい見ず知らずの男性に荷物を明け渡してしまった。

「では…ご迷惑お掛けしますがよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げれば、男性はホッと息を吐き出した後、ふんわりと柔らかい笑みを浮かべた。

「はい。お任せ下さい」









 スーパーの帰り道。私は男性…名前は佐古さんと言うらしい…と他愛のない会話をしながらゆっくりと帰路に着いていた。

「名字さんは…一人で不安になったりしないんですか?」

 どうやらさっきの事で私には旦那がいないと悟られてしまったようで、佐古さんはしきりにその辺を心配してくれていた。

「不安はやっぱりありますよ」

 何せ初産だ。前世でも産んだ事ないし、これが正真正銘の初めての出産。

「全て分からない事だらけですし、毎回妊婦健診で先生に質問責めばかりです」

「なら何故…」

「でも、それでも…私は彼に迷惑を掛けたく無かったんです」

 日本のために毎日頑張っている人なのだ。重荷になんてなりたくないし、こんな私にさえ優しくしてくれていた彼の幸せを心から願っている。次こそは本当に好きな人と結ばれて欲しい。

「私の存在が彼に迷惑掛けてるんだって…分かってたんです。妊娠したとバレたら、彼はどんなに私を心から愛していなくても絶対に責任を取ろうとする。でも重荷にはなりたくなかったんです。彼は心から愛した人と結ばれて幸せになるべき人なんです。本当ならばこの子を産むべきでは無いのかもしれません。でも…それでも、私はこの子を産みたかった」

 念願の子どもだったから。この手で抱くことが夢だったのだ。

「これから生まれてくる子どもに罪はありません。私は私のために…この子を産みたかったんです。」

 きっと生まれてきたこの子はいつか父親の存在を気にするだろう。それでも…。

「例え周りに何と言われようとも、私はこの子だけは絶対に守ると決めたんです」

 絶対に幸せにするのだ。誰よりも愛情を注いで。片親だと笑われても、それを払拭するくらい愛してあげると決めていた。

「シングルマザーが生きづらいのも理解しているつもりです。きっと、この子が大きくなったら父親の存在を気にするでしょう。周りから片親だと笑われたって、私は他の誰よりもこの子を愛してあげるんです。誰よりも深く愛して幸せにするんです」

 ママの子で良かったと、そう思って貰えるように無限の愛をこの子に注ぐと、産むと決意した時に自分に誓ったのだ。

「……旦那さんは、子どもの事を知らないんですね」

 佐古さんの静かな声に、私も静かに頷いた。

「……言うつもりは無いんですか?」

「無いです」

「…男は馬鹿だから、言ってくなきゃ分からないですよ?」

「知ってもらおうなんて思ってませんから」

 だからいいんです。と微笑めば、佐古さんはどこか辛そうに唇を噛み締めていた。

「…旦那さんの事、嫌いになったんですか?」

「まさか」

 あんな素敵な人、早々お目にかかれない。

「とっても素敵な人ですよ。働き過ぎててこっちが心配になるくらい毎日、日本のために働いてます」

 日本のために、この国を守るために毎日遅くまで働いているのだ。だからこそ。

「だから彼には本当に心から愛した人と結ばれて欲しいんです。家に帰ってきたら大好きな人が待ってる……そんな家庭を築いて欲しいんです」

 私みたいに卑怯な手を使って手に入れようとする人間ではなく、彼の為を思って彼を支えられるような人と…。

「それは…名字さんでは駄目だったんですか?」

「私は駄目ですよ」

 いっつもいっつも我儘ばっかり。疲れてるだろう降谷さんに迷惑ばかり掛けてた。下手に権力を使ったせいで、降谷さんは私のお願いを断る事が出来ずに毎回振り回されていた。本当に申し訳無いことをしていたと今更謝っても遅い。

「いつかきっと、素敵な女性が彼の前に現れると信じてるので」

 じゃないと彼は何のために身を粉にしてこの国の為に働いているのか分からなくなる。彼こそ誰よりも幸せになるべき人なのだから。

 彼は色んな人を亡くしすぎている。悲しい過去も辛い過去も全部背負って辛いはずなのに、弱音なんか一切吐かない人だから…。だから誰よりも幸せになって欲しい。他の誰よりも、絶対に。

「…そう、ですか」

「心配してくれてありがとうございます。でも、私は本当に大丈夫ですよ」

 今はおばあちゃんが居てその娘さんの琴美さんが居て、部屋のお隣の多田さんや近所の幸恵さんとか色んな人が手助けをしてくれている。

「私の周りは優しい人がいっぱいいますから」

 一人じゃないよと、手を差し伸べてくれる。

「それに佐古さんも」

「…僕、ですか?」

「ここまで荷物を持って頂いた上にお話まで聞いて貰っちゃって…ありがとうございます」

 いつの間にかアパートの前まで辿り着いていた。

「佐古さんは、きっと良いお父さんになれますよ」

 こんなにも心優しい人だから。にっこり笑ってそう言えば、佐古さんはどこか辛そうな表情で…でも必死に笑顔を作ってこちらを見詰めていた。

「名字さんも…良いお母さんになると思います」

「…ありがとうございます」

 佐古さんから買い物袋を受け取りながらお礼を言えば、佐古さんは一瞬何か迷ったように目を泳がせてから、それでもその何かを口にすること無く小さくかぶりを振ってから小さな笑みを浮かべた。

「…また、会えるといいですね」

「ええ。またどこかで」

 小さな社交辞令だ。きっともう会うことは無いだろう。

「それでは。身体に気を付けて」

「はい、佐古さんも奥様を大事になさってください」

 頭を下げて立ち去っていった佐古さんの後ろ姿を暫く眺めてから、私はひと息ついてアパートの敷地に足を踏み入れた。















 ───佐古side───

 ポケットに入れていたボイスレコーダーを止めて、佐古は深い溜め息を吐き出した。

 やはり佐古にはどう考えても彼女…名前が悪い人には思えなかった。そればかりか、他人を想いやる気遣いを持った素晴らしい人だとさえ思った。しかもそれは演技とかではなく、心から言っていると分かるからこそ謎は深まるばかりであった。

「…どうして降谷さんは彼女の事をあんな風に言うのだろうか」

 考えてもキリがないのは分かっている。それでも佐古には彼女が蔑ろにされる理由が本当に理解出来なかった。

 取り敢えず佐古は盗聴アプリの任務を達成出来たことと、帰り道で聞けた話を録音出来たことを上司に報告すべく己の職場へと歩き出した。










「───で、これがそのボイスレコーダーか?」

 降谷の手には佐古が手渡した黒いボイスレコーダーが握られていた。

「はい。一通りの事は会話で引き出せたかと思います。後はアプリも仕掛けましたのでそちらで実際確認して頂ければと…」

「そうか」

 そう言う降谷の目には何の興味もない無機質な色を宿していて…。佐古はつい無駄だと分かりつつも口を開いてしまった。

「……あの、本当に彼女は降谷さんにご迷惑ばかり掛けていたんですか?」

「なに…?」

 部下の何気ない質問に降谷の眉は釣り上がる。

「いえ、あの……当初聞いていた話と、実際会った彼女の印象がまるで違って見えたので………あの、すみません。何でもないです」

 ふるふると力なく頭を振る佐古。それを見た降谷は嘲笑うかのように口角を釣り上げた。

「なんだ?お前、ああいう我儘な女性が好みなのか?」

 その言葉に表情を曇らせたのは佐古だった。

「我儘……なんでしょうか?」

「はぁ?お前何言って…」

 言っている意味が分からないとばかりに表情を歪める降谷に、佐古は真っ直ぐな瞳を彼に向ける。

「自分にはそういう風には見えなかったので。寧ろ謙虚で、他人を想いやるような方だと…」

「………佐古、お前疲れてるだろう」

 佐古の言葉に心配する降谷。

「いえ、疲れてなんか…!」

「少し休んだ方がいい」

 肩をポンと叩かれ、去り際にご苦労だったと労われてしまっては佐古も何も言い返せない。忙しい上司はこれからまた別の仕事があるのか、ボイスレコーダーをすぐには確認せずにポケットに無造作に突っ込むとエレベーターに乗り込んでしまった。

「……報われない、なあ…」

 名前の切ない笑みを思い浮かべて、佐古は遣る瀬無さに溜め息を吐いて自分のデスクへと向かうのであった…。














 ───降谷side───

 降谷零、安室透、バーボン。3つの顔を使い分けているとたまにどれが本当の自分なのか分からなくなりそうになる。

 俺は自宅の玄関の鍵を開けて乱雑に上着を脱ぎ捨ててソファーの背もたれに投げ掛けると、コップ一杯の水を一気に飲み干した。

「はあ…」

 シンクに使ったばかりのコップを置き、なだれ込むようにソファーへ身を沈めた。

 座り心地を重視したソファー。このソファーを買う時、散々悩みに悩み抜いて決めたのだ。自分好みの自分だけのソファー。

「あーやばい、寝そう」

 寝るならベッドへ。頭ではそう思っていても身体は休息を求めてここから一歩も動けそうに無かった。

 うつ伏せになっていた体勢から横向きになると、ふとテーブルに乱雑に置かれたひとつのボイスレコーダーの存在に気が付いた。

「あー…これ佐古の」

 先週、佐古に命じて元カノの今を調査してもらった時のボイスレコーダーだ。何やら色んな話を聞き出したとは言っていたが、正直今の今まで忙しすぎて全く聞いていなかった。

 流石にそろそろ聞くか、とボイスレコーダーに手を伸ばし再生ボタンを押し目を瞑る。

 ボイスレコーダーの始まりはスーパーからだった。


















 暫く目を瞑りながら、俺は今のは何だったのだろうと働かない頭で考えていた。

 彼女の妊娠についてもそうだが、何より驚いたのが俺が知っている彼女とは思えないやり取りの数々に思考が纏まらなかったのだ。

「…なんだ?どういう…事だ?」

 ざわつく胸に気付かないふりをしながら、何度も何度もボイスレコーダーを再生する。

 声は彼女のものだ。でも、こんな常識的な人間では無かったはずだ。他人よりも自分。何よりも自分を優先させないと気が済まないお嬢様気質。我儘な言動は当たり前で、いつも不遜な態度をとっていた。

 それがどういう訳か、ボイスレコーダーから聞こえる声は他人を配慮するようなものばかり。それに…妊娠。

「彼女が妊娠7ヶ月…?その時期って俺とまだ付き合ってる、よな…?」

 そう。どう考えてもその時期はまだ彼女と付き合っていたはずだ。彼女は男好きではあったが、流石に何股を掛けたりするようなタイプではない。要らなくなったら捨てて新たな男の元へ行くタイプだ。それに、彼女は俺に夢中だったはず。そこは自信がある。何せどんなにこっちが疲れてて寝たくても、抱いてくれとヒステリーを起こすような人間だったから。だから…間違いなく、お腹の子は俺の子だと思うのだが…。

「あの女が妊娠しといて俺に結婚を迫らないとか…どういう事だ?」

 常日頃から結婚したいだの何だとのしつこかった彼女。子どもが出来ればそれを理由に婚約を迫ってもおかしくはない…のに。

『彼には幸せになって欲しいんです』

 ボイスレコーダーから流れるその言葉に、思わず言葉が詰まる。

「何故だ?なんで…」

 自分本位ではない、俺を想いやるような言葉に戸惑う。

「これは、本当にあの女なのか…?」

 分からない。考えても考えても全然分からない。こうなれば…。

 佐古にはもうひとつやって貰っていた事があった。それは…盗聴アプリ。

「普段の生活を聞けば…分かるのか?」

 この不明瞭な事も全て解明出来るのか。

 俺は耳にイヤホンを差し込むと盗聴アプリのダイヤルを合わせた……。




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