10年前のアラクネー2

太陽が昇り、街が目を覚ますころ。酒の匂いを漂わせながら帰宅したプロシュートはリビングのソファに寝かされた少女を見て眉を顰めた。
満足に食べ物も与えられていないのか手足は酷く痩せ細り、可愛らしい顔立ちではあるもののそれ以上に顔色の悪さに目が行く。深い傷を負っているのか両足に巻かれた包帯には鮮血が滲んでいる。おまけに全身びしょぬれ。見るからにワケありの子どもだが一体いつからここは孤児院になったのか。

「…おいリゾット、こいつは何だ」

嫌な予感を覚えながら向かいのソファに腰掛けて書類に目を通すリゾットを見れば、彼はちらりとプロシュートを見上げた。

「モスキーノさんの命令でチームに入ることになった」

無表情のままそう告げると再び視線を戻す。

「…寝惚けてんのか?」
「お前ほどじゃない」
「チームに入るって…まさかだろ?正気かよ」
「文句があるならモスキーノさんに直接言え。これはあの人の決定だ」
「……ハァ」

取り付く島もないリゾットにプロシュートからは深い溜息が漏れた。ぶっ飛んだ情報に言葉すら出ないらしい。むしろツッコミどころが多すぎて一体何から文句をつけていいのかわからないといった様子だ。

「随分騒がしいと思ったら、プロシュートが帰ってたのか」

部屋に入ってきたモスキーノは立ち尽くすプロシュートの隣を通るとリゾットの隣に腰掛けて机の上に置いてあった新聞を手に取った。その様子があまりにも普段通りなので一瞬反応が遅れたが、厄介事を引き入れたことを思い出したプロシュートはテーブルに手をつくと厳しい表情で詰め寄った。

「おいモスキーノさん、こいつは一体どういうことだ」
「そのお嬢ちゃんなら昨日の夜うちに来たばかりだ」
「俺が聞いてんのはそういうことじゃあねぇんだよ。そもそもこいつはどこのガキだ」
「カッジャーノにうちの情報流してた男がいただろ。アイツの子どもだ。まあ血は繋がっちゃいないらしいがな」
「それじゃ何だ、つまり裏切り者の子どもを慈悲で助けたってことか」
「そういうことになるな」
「…随分とらしくねぇことしやがる。アンタそんな人間じゃあねぇだろ」
「まあそこは気まぐれってやつだ。俺にだってそういう気分の時もあるんだよ」
「だいたいな、アンタ自分の職業わかってんのか?気まぐれで犬猫みてェにホイホイ人間拾ってきてどうすんだよ。俺はアンタのこと尊敬してるが、今回の勝手を黙って見過ごすわけにはいかねェな」
「プロシュートお前、最近マカーリオに似てきたな。口やかましいところがそっくりだ」
「…ハァ」

全く取り合おうとしないモスキーノから呆れたように視線を外すとソファで眠っていた―正確には気絶していた―少女が僅かに身じろいだ。緩慢な動作で起き上がるとぼんやりとした表情のまま辺りを見渡す。

「目が覚めたか、お嬢ちゃん」
「…っ!」

モスキーノの顔を見て意識を失う直前の緊迫した状況を思い出したのか名前は勢いよくソファから起き上がると床に足を付けた。しかし怪我をしている両足の痛みが先行したのか立ち上がった瞬間に顔を歪めて再びソファに腰を落とす。綺麗に巻かれた包帯に気付くと困惑と怯えが混ざったような表情で辺りを見渡したが、リゾットと目が合った瞬間明らかに顔を強張らせて視線を外した。

「ここはパッショーネの暗殺チーム、つまり俺たちのアジトだ」
「暗殺チーム…」
「お嬢ちゃんの父親は俺たちと同じ組織に属しボスに忠誠を誓いながら別の組織に情報を流していた。だから俺達が殺した。母親は…まあ、あんな男と一緒になったのが運の尽きってわけだ」
「…そう、ですか」
「ああ」
「そっか…」

名前がそう言ったきり部屋には沈黙が訪れた。その様子を見ていたプロシュートはきっとこの少女は泣くのだろうと思った。そうじゃなければ家に帰してほしいと懇願するか、あるいは親を殺したギャングを恨むか。そんなことをされた瞬間あまりの鬱陶しさに蹴り飛ばしてしまうだろうとすら思ったが、名前の行動はそのどれでもなかった。

「わたし、生きてるんですね」

それは酷く絶望した声だった。少女から発されたとは思えない重みを孕んだ言葉に思わず眉を顰める。

「残念ながらここは天国じゃあねェよ」

あまりにもショッキングな内容を告げられたはずなのに、名前はそんなことよりも自分が生きているという事実だけを嚙み締めているように見えた。絶望しているようにも見えるが、どこか嬉しそうにも見える。この場にいる誰一人、その鬱蒼とした顔からは正しい感情が読み取れなかった。

「…あの人は、大丈夫ですか」
「ああ、マカーリオなら心配ねェよ。今はちょっとばかし席を外してるが、もうじき帰ってくるだろう。もっともお嬢ちゃんのおかげでギャングとしてのプライドはズタボロだろうがな」
「…」
「冗談だ。こればっかりは仕方ねェことさ」

モスキーノはそう言って朗らかに笑うと胸ポケットから煙草を取り出した。ジジッと音を立てて紙の焼ける臭いと、ゆっくり吐き出された白い煙を見つめる。

「おいガキ」

突然頭上から降ってきた声に顔を上げた名前は高圧的な態度で自分を見降ろしてくるプロシュートに気付きごくりと息を飲んだ。

「親が殺されたのも帰る家を無くしたってのも心底同情するが、ここはお前みたいなガキが居ていい場所じゃあねェ。わかったらさっさと出て行ってもらおうか」
「あ…」
「まあ待てプロシュート」

見るからにワケありな少女が仕事場にいるのだ。それに対する拒絶は当然の反応だろう。名前が申し訳なさそうに俯く前でモスキーノが顔を上げる。

「モスキーノさん、アンタが個人的にどこのガキを保護しようがそれは構わねェ。だがな、ここに置くってんなら話は別なんだよ。つーかリゾット、お前はどう思ってるんだ」

リゾットから視線を向けられた名前は居心地が悪そうに視線を泳がせた。握られた手は小さく震えている。

「俺はリーダーの決定に従うまでだ」
「お前…」
「というわけでプロシュート、これは決定事項だ。それにお嬢ちゃんのことはお前に任せるつもりでいるからな」
「…何だと?」

ぎょっとしたのはプロシュートだけではない。当事者である名前も初めて聞く話に驚いた様子でモスキーノを見れば、二人からの視線を受けて笑みを深めた。

「何だ、不満か?」
「不満も何も…逆に聞くがこんな厄介事押し付けられて喜ぶ奴がいると思ってんのか?そもそも何で今回の件に無関係の俺が見ず知らずのガキの面倒なんざ見なきゃあならねェんだ」
「原石を磨くのもまた一興じゃねェか。可愛いだろ?」
「おい、マジに言ってんならアンタの美的センスを疑うぜ俺は」
「まあそれはともかく、だ。こいつはただのガキじゃあない。先天性のスタンド使いなんて希少なもんだろう」
「…スタンド使いだと?こんなガキが?」
「使い方こそまだ分かってねェが、鍛えりゃそれなりに使えそうな能力だ。マカーリオが死にかけてやがった」
「ハッ、殺し損ねた上に自分が殺られそうになってりゃ世話ねェな」

そう言って鼻で笑うと厳しい表情のまま名前を見下ろす。びくびく怯えるばかりで、こんな弱そうなガキに人殺しなんてできるわけがないと言わんばかりの表情だ。

「だったらその瀕死の野郎が面倒見るのが筋ってもんだろ」
「残念ながらアイツは明日からしばらくローマの方に出張だ」
「あぁ?ならリゾットは」
「マカーリオに同行する。俺も何かと忙しいからな。そんなわけで手が空いてるのはお前しかいねェんだよ」
「チッ」
「いいかプロシュート、これは命令だ」

リーダーの命令とあっては逆らえない。この世界に生きる人間であれば誰もがわかっていることだ。これ以上の説得は無駄だと諦めたのか、プロシュートはがしがしと頭を掻くと苛立った様子で舌打ちをした。

「…外を連れて動くのは任務の時だけでいいんだな」
「ああ」

アンバーの瞳が不安そうに揺れ動くのを見てもう一度念を押す。

「おいガキ。チームリーダーの命令だからお前の教育係は引き受けてやるが、それ以外で用が無ければ俺には近づくなよ。それからこれだけは忠告しておく…俺はお前がどこで死のうが殺されようが関係ねェ。みっともなく助けなんざ求めやがったらすぐにその場で殺してやるからな」

名前はプロシュートの言葉を聞いてぎゅっと手を握りしめた。12歳の少女に対してはあまりにも厳しすぎる物言いだが、それは全て事実なのだ。この世界で自分を守れるのは自分だけ。それができない弱者に待つのは死のみだ。それを理解したのか、名前が小さく頷いたのを確認したプロシュートは今度こそ諦めたように溜息をつくと部屋を出ていった。荒々しく扉が閉められ、部屋には再び静寂が訪れる。

「そういやまだお嬢ちゃんの名前を聞いてなかったな」
「…名前です。名前・名字」
「そうか、名前か。名乗るのが遅れたが俺はモスキーノだ。そこにいるのがリゾットでさっきの奴がプロシュート。で、お嬢ちゃんが昨日殺しかけたのがマカーリオだ」
「…」
「あんな態度でビビっただろうが、プロシュートの言うことも一理ある。いつ誰に殺されるか分からないこの世界で生きていくためには何より自分が強くなるしかねェからな」
「生きる…」
「ああ、そうだ」
「…どうして私を、殺さなかったんですか」

ついに名前は目が覚めてからずっと疑問に思っていたことを口にした。冷静さを取り戻した頭はあの時ほど死を渇望してはいなかったが、それでも生き延びたことへの後悔と疑問はまだ色濃く名前の中に残っていた。あの時殺せばこんな面倒な事にもならなかったはずなのに、どうしてこの人は自分を殺さなかったのだろうか。一体何の意味があって自分は生かされているのだろうか。あの時殺されていればきっと楽になれたのに、と。しかし名前の問いかけにモスキーノは何も答えなかった。ただ穏やかに笑って、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。

「リゾット、そろそろ出るぞ」
「分かりました」
「じゃあな名前」

モスキーノはそう言って立ち上がると、まだしっとりと濡れている名前の頭を優しく撫でた。それきり彼らは何も言わず部屋を後にしたが、この時名前には一つだけはっきりと分かったことがあった。それは、もう決して元の世界に戻ることはできないということだ。一度この世界に足を踏み入れたからには後戻りはできないし、恐らくこの先も抜け出すことはできない。この先に待つ未来はたった一つだ。たった一つのシンプルな道しかないのだ。だからその時が訪れるまで、名前は生きるしかないのだろう。冷酷さと優しさが渦巻く、この世界を。

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