元治元年水無月



耳に入ってきた情報に名前は自然と眉間に力が入るのがわかった。
今の隊士たちの話題は、専ら池田屋事件後に起きた明保野亭での結末に関してだった。
池田屋の残党の捕縛に成功したとは言え、決して手放しで喜べるものではないというのは誰もが理解している。土佐藩が新選組に怒りを向けるのは至極当然のことだろう。しかし今は内輪揉めをしている場合じゃない。そう理解しているからこそ、両藩は早急にこの始末をつけたかったのだ。最悪な形で引き起こされたある意味不可抗力とも言える事件は、つい先日両藩二人の命という大きな犠牲を払って終幕を迎えた。

「(一番手っ取り早く…かつ、非情なやり方だ)」

士道に背けば切腹。新選組内でも掲げられているこの規律の重さを、名前を含めた隊士は嫌でも実感する事になる。

「…馬鹿みたいだ」

自らの命を掛けてまで、果たしてこの国に忠節を尽くす意味はあるのか。どれだけこの場に留まろうと、それだけは尚もわからないまま。両者とも、立派な武士だった。それは言うまでもなく、嫌という程理解している。故に、今回の幕引きが一番の解決策であったとしても、恐らくこの先理解できる日は来ないのだろう。忠義を尽くす彼らを軽んじるわけではない。しかし、やるせない怒りに身体が震えた。今や自国の敵は、屈強な異人でも思想を違えた人間でも無いのではないか。もっと根本の、彼らに生まれつき備わっている"何か"が、徐々に崩壊を始めているのではないか、と。そう思わずにはいられないのだ。

「(これも、戯言として一蹴されるんだろうな。だが―――彼らは何のために、殺し、殺される?)」

命の犠牲があって初めて成り立つこの時代の在り方が、何よりも恐ろしく感じた。

「(理解と認知は別物、ってことか)」

内側から崩壊を始めているこの国の将来を危ぶんでいるからこそ今の対立がある様に、本能に従った人間が保身のため、名誉のために他の命を奪う現状。それは一体何のために?最終的な目的は?―――命を賭けて、それで結局どうなる?ともすれば幕府批判になりそうな思考を、頭を振って消し去る。名前は仮にも新選組という組織の一員だ。思想が露見してしまえば周囲から咎められるに違いない。

「(―――いくら考えたって、理解できないものは仕方ないか)」
そして結局、それを理由に現実から目を逸らすのだ。

『ああ名前くん、ちょうどいいところに』
「近藤さん」

前から歩いてきた普段通りの朗らかな彼を見て、荒れていた心が少し落ち着く。彼の魅力は、こういうところにあるのだろうかとぼんやり思いながら質問を投げ掛ける。

「何か御用でも?」
『君にちょっと頼みたい事があるんだが…』
「俺に出来る事であれば、なんなりとお申し付けください」
『そう言われると心強いな!よし、それじゃあ―――』





「はーいお昼の時間ですよー」

勢いよく足で障子を開ければ布団の中で身体を起こしていた沖田さんがちらりとこちらを見た。と思えばすぐに目線を逸らされる。一瞬見えた顔は不機嫌そのものだった。

『何で君が来るのさ』
「近藤さんから頼まれたんです。用事があるから代わって欲しいって」
『あっそ』

こちらを見ようともしない強情さに思わず溜息が洩れる。…この人の場合、かえって好都合かもしれないが。兎にも角にも、局長直々の頼みごとを遂行しないという選択肢は無く、てきぱきと用意された粥を小皿に分けた。勿論私が調理を施したわけではない。千鶴ちゃんお手製だ。食べないなんて言ったら即座に口に捻じ込んでやる。

『君、本格的に入隊することになったんだって?』
「情報が早いですね。入隊と言うより助っ人って感じですけど。ま、与えられた仕事は責任持ってこなしますよ」
『…あいつと、対峙したんでしょ』
「あいつ?…ああ、池田屋の』

眩しい金が脳裏に蘇り手元から顔をあげる。横目で見ていた彼に茶碗を差し出すと、案外素直に受け取ってくれた。

「見逃して貰えた、の間違いです。べらぼうに強かったですよ。あと少しでやられてました」
『君を、見逃した?…嘘つくならもっとマシな嘘考えたら?』
「喧嘩売られてます?買いませんからね」

腑に落ちない、と言いたげな沖田さんに肩を竦めて箸を渡した。

「とりあえず、今はゆっくり休んでください。終わった頃千鶴ちゃんが下げに来てくれますから」
『君はどこか行くの?』
「ええ、近藤さんから御使いを頼まれたので」
『一人で?』
「いえ、頼りになる三番組の組長と。まだこの辺りは覚えてませんからね」
『…そう』
「じゃ、そういうことなので」
『ねえ名前』

袖を掴んで不意打ちで呼ばれた名前に、思わず振り返る。視線を下に移せば、いつになく真剣な顔をした沖田さんがこちらを見上げていた。スッと細められた翡翠に思わず身構えると、彼は手元の茶碗を指差す。

『僕―――…葱嫌いなんだけど』
「黙って食え」

むしろ首にでも巻いてくたばれ。そんな意味も込めて満面の笑みを浮かべると、彼は心底嫌そうに顔を歪めた。





池田屋での働きが認められ、三日間の休息を与えられた斎藤が近藤に呼び止められたのは、朝餉を終えてすぐのことだった。

『非番に申し訳ないのだが、少し頼み事をしたくてね』
『それは構いませんが…』

元々仕事人間である彼にとって、むしろ休日というのは何をすればいいのかわからないのだ。そんな中で頼まれ事をするというのは逆に有難い。申し訳ないと手を合わせてくる近藤に用件を聞けば、町の方へ使いに行って欲しいのだと言う。

『それと、名前くんも一緒に連れて行ってくれないか?』
『名字?』

近頃よく耳にする名前に首を傾げれば、近藤は朗らかに笑った。

『ああ。これから巡回等で出歩く機会も増えるだろうし、彼には色々と覚えてもらわんとなぁ。行ってくれるか?』
『承知しました』

近藤と分かれた後、その足で一度部屋に戻り必要な荷物だけを手に持って玄関に出る。辺りを見渡すもそれらしき人影は無く、どうやら同伴者はまだ来ていないようだった。

名字名前と初めて顔を合わせてから今日まで、彼に対する斎藤の評価は「変わった人間」だ。挑発的な態度を取りながら死にたくないと生への執着を見せ、無意味な殺生をしないと言いながら池田屋では大立ち回りを演じた(本人曰く”自己防衛”だそうだ。過剰防衛であると反論していた土方は見事に言いくるめられていたが)。一言で言ってしまえば、名字名前というのは理解不能な人間なのである。
少なくとも、彼がこれまで出会ってきた人間の中にはいなかった。自らの欲求に忠実で、素直で、頭の回転が速い。直感的に危険を感じ取り、変に首を突っ込まない物わかりの良さ(これは現在斎藤たちが保護する少女にも見習ってほしい所である)。しかし、人間というものに対してどこか冷めている。武士としての在り方ではなく、自分らしく生きることの意味を説かれた時、心の何処かで安堵している自分がいる事に彼は気付いていた。名前に、自分を認められた喜びを確かに感じたのだ。近藤や土方達に認められたそれとはまた違う喜びに、戸惑いを覚えるのと同時に安心したのである。
それにあの山吹色は、思わず手を伸ばしそうになる程美しい。しかしそれでいて、触れればすぐに消えそうな脆弱さを伴っていた。何があっても自ら切り抜ける強さと、突けば崩れてしまいそうな脆さが、絶妙な加減を保って共存している。名前はそんな人間だった。

『(―――だが何故、俺はこうも奴のことを考えている?)』

ふと浮かんだ疑問に首を捻るが、答えは出そうにない。沖田の言う『構いたくなる』という言葉も確かに頷けるような気がする。が、それとはまた違う気もする。するとそのとき、一の背後から陽気な声が 聞こえた。

「いやぁ、お待たせしてすまんね」

親父臭い笑みを携えて姿を現した人物に思わず息を吐いてしまうのは、最早仕方の無いことだろうか。顔が良い分、気だるげな態度が浮き彫りになっている。もっとも、千鶴の前ではやたらめったら色男を演じたがるのだが。

「そんじゃ早いとこ行きますか。場所は近藤さんから聞いてるよね?」
『ああ―――、』
その時斎藤は隣に並んだ人物に違和感を覚え、考えるよりも先に口が動いた。

『名前、何かあったのか?』
「!」

顔にこそ出してはいないが、どこか上の空であることは間違いないだろう。いつもの胡散臭い笑みに覇気がないというか―――そう、元気がないのだ。驚いたように目を見開く名前に斎藤は思わず立ち止った。すると次の瞬間、珍しいものを見たとでも言うように一を見ていた名前が口を開く。

「名前、呼んでくれるようになったんだ?」
『不快にさせたか?』
「いや、それは全然いいけど…今日はよく名前を呼ばれる日だな、と思って」
『は?』
「いや、こっちの話」

それじゃ行こうか?と前を歩く名前の一歩前に出ると、不思議そうな顔をされた。歩みを進めながら呆れて言葉を紡ぐ。

『道がわからないのに案内できるのか?』
「…」

ああそうか、と。と言葉に出さずともその顔は雄弁に語っていた。





「結局、二人とも死んだってね」

短い文で、斎藤は名前の言いたいことを瞬時に理解した。先程投げ掛けた質問は流されてしまったが、どうやらその返答であることはまず間違いないようだ。多くの人で賑わう大通りを見つめる表情の中に、冷やかな感情が潜伏しているのが窺える。

『それはあんたが気に病むことではないだろう?』
「気に病むって言うか…寂しい時代だと、思っただけ。あらゆる犠牲の上に成り立ってる曖昧な関係なんて、まるで―――」

口を閉ざした名前を横目で見やると、今にも消えそうなほど儚い顔で笑っていた。思わず伸ばしそうになった左手を、足の横で拳にして握る。咄嗟に出た自分の左手に後から疑問が浮かんでくるが、そんなことは気にならなかった。

『どんな問題を抱えているかは知らぬが、あんたのことなら…どんな些細なことでも知りたいと思う』
「、は」
『すぐに信用しろというのは無理だと思うが、少なくとも俺はお前を救いたいと、思って…』

徐々に大きくなる山吹色と視線が交わる。どこか泣きそうな顔で眉を下げる名前に、今度は斎藤が驚く番だった。

『(俺は、一体何を?)』

慌てて目を逸らせば二人の間に沈黙が流れる。午後の喧騒が、どこか遠くに聞こえた。

「…無意識って、それだけで罪だからな…」

恨めしそうに見上げてきた名前の頬が赤く見えたのは、夕焼けのせいだと思いたい。

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