元治元年皐月



天井裏の気配がここ最近慌ただしい。

以前の対象物――此処では私と千鶴ちゃんを指す――を観察するような視線が時々消える。退屈すぎるが故に鬱陶しいと感じていたものまでもが気になってきた。おっとこれは重症だ。しかし現在置かれている状況のせいか世の情勢には然程詳しくない。精々もうすぐ水無月に移り変わる頃だと千鶴ちゃんに聞いた程度だ。

「何か事件でも?」
『深く踏み込むなと忠告したはずだが』

外の気配に質問を投げ掛ければ予想通り、静かな音が返ってきた。咎める鋭い声の主は今日も自主的に監視に勤しんでいるらしい。湿り気に満ちた空気と共に踏み込んできた黒の着流しが、チラリと此方に向く。

「どうも野次馬精神が働くんですよね。それに情勢に疎いというのは、何に置いても不都合ですから」
『それは――"奴ら"の動きは得ておきたいと言うことか?』
「上手い事陥れようとしてるみたいですけど、そもそも裏が無いなら暴かれる事は無いでしょう。そこまで信用ないかなぁー…」

言いながら深いため息が漏れる。相も変わらず寡黙な彼は、何を考えているか理解できない。そして同様に、涼しげな蒼は今日も伏せられている。ふと、以前一度だけ交わったその色が見たくなる。言ってしまえばただの興味。または暇潰し。

「そういえば、斎藤さんは右差しなんですね」

ぴくりと反応した蒼が細められる。

『…あんたもこの在り方を咎めるのか』
「咎める?何でですか?」

あんたも、という事は過去に同様の経験があるのだろう。

「確かに武士と言えば左差しがお決まりの形です。でも生憎俺は武士だ何だとそんな崇高な思考は持ち合わせてないんで、どっちに差してようが構いませんよ。要は斬るか斬られるか、ってことでしょう?体裁ばかり取り繕って左差しだけど実は飾り、なんてよくある話ですよ。それよか斎藤さんの右差しは実用的なんですから、自分が差したい方に差しゃいいじゃないですか。お手本真似ようとして命奪われるなんて、それこそ武士の名が廃りますよ」

驚いたように見開かれた蒼と交わる。

『…そのような事は、初めて言われた』
「仕方ないっちゃ仕方ないとは思いますが、この国の古くからの教えは時々理解し難いものがありますよね。もっと新しい風を吹き込んだ方が成長すると思いますよ。現在の幕府の体制なんかがいい例です」
『あんたは、』
「佐幕でも倒幕でもありません。ああ、考えた事が無いの間違いですね。強いて言うならこの国の"慣習に捕らわれた秩序の破壊"を望んでいます。相手は西欧諸国だという意識が最近弱まってませんかね」
『という割には、外国を推奨しているように聞こえるが』
「新しい風というのが一概に外国勢力だとは言ってませんよ。そうですね、例えば日ノ本内の新しい思想、派閥なんてどうです?それだけでも全然違ったものになるでしょう?俺は派閥制度には反対ですが、今の状況を考えるとそうならざるを得ないですよね。あー面倒くさい世の中だなー」

手入れもままならない髪を掻き毟るとバラバラと束が流れ落ちてくる。この長い髪も、そろそろ切り時かもしれない。

『あんたは変わっているな』

驚いた表情はそのままに、彼はさらりとその言葉を発音した。

「そんな純粋に言われると逆に傷つきますよ」
『いや、褒め言葉のつもりだったが…』
「年を重ねる度に精神が脆くなってるんですから大切に扱ってくださいよ」

どっこらしょ、と胡坐をかけば訝しげに蒼の瞳が揺れた。

『あんたはいつの生まれだ』
「天保13年です」
『…、じゅう、さん』
「…」
『…』
「…え、もしかして」

不敵に笑えば瞬時に逸らされる目。疑念が確信に変わった瞬間、私は自然と上がる口角もそのままに彼を覗き込んだ。

「へー…?」
『…』

動揺を悟られないようにと背筋を伸ばす彼だが、微かに視線を泳がせ戸惑う姿にしてやったりと笑う。

「いやいや、まさか年下だとは…じゃあ、平助と同じ歳なんですか?」
『…ああ、そういう事になる』

これから身に降りかかる災難を知ってか知らずか、彼は諦めたように頷いた。

「ってことは、平助と同じ扱いじゃなきゃ平等じゃないですよね?」

言いながらじりじりとにじり寄る。反対に身の危険を察知した彼は器用に座したまま後退した。

『っあんたは一体何を』
「生憎俺は平等を掲げているので。ねえ、はじめ君?」

首を傾げて覗き込めば顔が薄らと赤く染まった。

『っな、何を…!』
「可愛い響きじゃないですか?」
『か、かわっ…!?』
「ねえ、名前で呼んじゃ駄目…?」

身を寄せてそっと頬に手を滑らせると、彼は今度こそ石のように固まってしまった。正座したまま真っ赤な顔で視線を泳がせる彼にやり過ぎたかと苦笑が漏れる。初な所も可愛い、なんて言ったら今度こそ抜刀されるだろう。体を離して尚、顔の赤みが引かない彼に背を向ける。

「仕方ありませんね、諦めま『っ、好きに』

どこか覚悟を決めた様な声に振り向く。

『…呼べばいいだろう』

襟巻に顔を埋めながら小さく呟く彼の顔はやはり赤いままで。

「…そ?じゃあ、はじめ君で」

満面の笑みを浮かべた私に斎藤さん――もといはじめ君は、まるで照れ隠しのように背を向けた。こんなに可愛い生き物が存在するなんて、世の中捨てたもんじゃないと思う。

「はじめ君」
『!』
「ううん、何でもない」

名を呼べばまるで犬のように顔を上げる彼に母性本能を擽られたというのは秘密にしておこう。





『最近やけにはじめ君に執着しているようだけど』

背後から聞こえた声に、思わず漏れそうになるため息を飲み込んだ。この人は気配を消して近づく天才なのかと思ってしまう。聞けば剣術の腕ははじめくんに並ぶそうだから、強ち間違いでもないと解釈できるが。

「何でそう思うんです?」
『呼び方がいつの間にか変わってる。はじめ君にそこまで気を許されるなんて、君って一体何者?』
「何者、と言われましてもただの人間ですが」

納得いかない、と訝しげな表情を浮かべる彼はなかなかに面倒くさいと思う。

「知り合いに、まだ年端もいかない男の子がいたんですよ。大人しいのに、構うとすぐに反応してくれて。ほんと可愛かったなぁ。彼は何処となく似ているから、ついからかっちゃうんですよね。年下ですし」
『年下?』
「天保13年の生まれですから」

呆気にとられたように見開かれた翡翠。

『もっと年下だと思ってた。男だって割には背も小さいし、なんか偉そうだし』
「背丈と性格は関係ないでしょう?それを言ったら平助はどうなるんですか」

言いながら顔を上げると、彼は冷やかな翡翠で此方を見下していた。

『君は、はじめ君の何がお気に召したわけ?』

柱を巧みに使用して行く手を塞ぐ辺り本当に性格の悪さが滲み出ていると思う。

「強いて言うなら、どこぞの馬の骨の素性が気になっていながら踏み込んで来ない辺りですかね。貴方もどっかの誰かさんも、ただの庶民に興味持ちすぎなんですって」
『ただの庶民だって信じてないからじゃないの?』
「そう言われちゃ返す言葉もありませんが、俺の言葉を信じてくれる方も此処には沢山いるので」

まあ、一部例外はいるものの基本はみんな"良い人"なのだ。

『ふうん?まあどうでもいいけど、必要以上に近づかないでね』

遠ざかる背中をぽかんと間の抜けた面で見送る。我に返ったのはその背中が廊下の奥に消えた瞬間だった。

「まさかとは思ってたけど、沖田さんに男色の気があったとは…」

以前問うた時は否定していたはずだが。まあ、あんなに可愛いはじめ君なら仕方ないか。もしかしたらお互い合意の上かもしれないし…。いや、だがもしそうだとしたらはじめ君の趣味を疑ってしまう。

「…ま、両人が幸せならいいか」

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