線引き
あれは高校一年生の頃だった。その時には一つ二つ年上でしかないのに先輩が大人っぽく見えるのは誰でも通ってきた道だと思う。
突如入部してきたヤンキー荒北が更生しつつあったときに彼女を目にした。
屋上から吹く風が薄い栗色の毛を靡かせた。それは映画のワンシーンのように計算し尽くされた芸術のように東堂には思えた。
「荒北くんを探してるの?」
彼女が発した声でやっと現実に引き戻された。先ほどまで校庭を見下ろしていた彼女が見つめているのは俺だった。気怠げな瞳がアンニュイな雰囲気を更に纏わせている。
そうだ。部活をサボっているのかもしれないからと、荒北を探すよう頼まれてしまった俺は彼を探しにここまできていた。それを見抜いていたのか俺がここにきても驚く素振りも見られない。
普段なら饒舌に話せる自分のトーク力が此処では全く役に立たない。彼女と目があってから言葉が上手く出てこない。瞳から目が離せない。
「荒北くんは…もう此処にはこないんじゃないかな。君たちが連れてっちゃったから」
座り込んでいたのに態々立ち上がり、ゆっくりゆっくりとこちらに近寄っていく。肉付きのないスラリ伸びた足が一歩、もう一歩と着実に距離を縮めていった。
「こんな所、もう来ちゃダメよ。荒北くんも、貴方も」
人差し指でトン、と鎖骨の下辺りを突かれた。更に驚いた顔をしたのだろうか、彼女は俺を見て少し口角を上げ微笑んだ。
それが脳内のフィルムに焼き付いて離れなかった。
あれは現実で起きた出来事だったのだろうか。あれは1年生が終わる頃の出来事だった。2年になりたての時、また屋上に上がってみたけれど彼女の姿を目にすることは二度となかった。
「屋上の女だァ?何でお前が知ってんだヨ」
3年になった時、唯一彼女の事を知っている荒北に聞いた事があった。それまでは何となく聞くのを避けていた自分がいたが、高校生活最後の為、このモヤモヤは解決しておきたかった。
「懐かしいヤツ思い出させんじゃナァイ。俺らの2個上のセンパイだよセンパイ」
だからか。と合点がついた。2年生になった際に会えなかったのは彼女は卒業してしまったから。だとしたらもう会えることはないのだろうか。
「彼女に荒北も俺ももう此処には来るなと言われた。その心を知るまでは卒業するのも気が引けてな」
「いっつも自分で線引いて、こっから先は来るなって言って1人寂しそうにしてるようなそんな女だァ」
それが野球を奪われて世界から独り見放されたように感じていた荒北と重なり、彼等は何となく屋上でで会う事があったと言う。互いに相容れない空間は2人にとって関係が心地よかったのだ。
荒北は自転車に出会った。
だが、彼女は独りのまま。
「線を超えて自分の元へ引き込めば良かったと思った」
荒北の話を聞き、そう思った。拳を握る手に力が入る。
結局のところ、名前も素性も荒北は知らないのだと言う。連絡先でも知っているのではないかと少なからず期待してしまった自分がいた。
彼女のことが頭から離れないまま大学生を迎えた。
大学の門を潜ると新学期のためか様々なサークルから勧誘のチラシを渡される。俺が入りたいサークルなど今、此処にはない。まだ。
そんな賑やかな場所から少し離れてしまった。校舎も広い為、道の端にベンチが所々設置されている。桜舞い散る中、桜の木下で独りサンドイッチを口にしている女性を見て息を呑んだ。
薄い栗毛の髪は染められることなく綺麗な姿のままだ。ロングだった髪はミディアムになっていた。気怠げでアンニュイな瞳は変わらないが化粧をし、ワンピースを着た彼女は女性としての魅力を更に重ねていた。
またしても目を逸すことができない。
その視線に違和感を感じたのか、少し距離のある俺に気がついた。特に顔の表情を変えることはしなかったが、食べていたサンドイッチを容器に戻し、手を拭くと、あの時のように一歩一歩ゆっくりとこちらに近付いた。
「覚えてるんだ、私のこと」
それは喜びよりは、好奇心に似た感情を向けられていることが東堂には分かった。ごくり、と唾を飲み込むのも一苦労だ。
「入学おめでとう、だね。学部も多いしキャンパスも広い、もう会うことないかも」
出会った瞬間そんな事を言って、また白いチョークで地面に線を引いたのだ。じゃあね、と俺に背を向けようとするものだから、その細い腕を掴んでしまった。
「…ない」
「?聞こえなかった。それと離して」
気怠げだった表情を顰めることに成功して、こんなことでさえ嬉しく感じてしまう。
「今度は逃がさない。俺と一緒に自転車部を始めてもらおうか名前さん!」
「!名前、なんで…」
人と距離を取るために、名前を教えなかったのだろう?荒北にでさえ。俺は先輩から卒業アルバムを借りて彼女を探したのだ。俺をここまでさせたのはとある感情のせいだと最近になって分かった。
「愛の力だ!ケータイを出してくれないか!連絡先を…」
あまりの距離の詰め具合に名前は引いている。だがそれでいいんだ。彼女の引いた線など自分には関係ない。進んで、引き寄せて俺のものにしてしまえばいい。