02


及川に初めての彼女が出来たのは、中学1年生の夏休み直前。隣のクラスのテニス部の子だった。
誰々ちゃんが誰々くんを好き。というだけで盛り上がり、特に進展をしないまま湧きだって終わる小学生時代と違い、交際をする≠ニいう明確な関係性の形をつくることになる中学生。及川とその子は学年で三番目に出来たカップルだった。

「なんか、部活やってる姿見て好きになってくれたんだって!俺もあの子のテニスしてるの見て凄いなーって思ってたし…告白されて嬉しかったからこれが好き≠チてことなんだって思ってさ」

翌日には学年中に広まっていた噂に、本人である及川はいつもより二割り増しぐらい高いテンションでそれらを肯定している。…スキップをして今にも鼻歌を歌い出しそうな感じは完全に「俺、浮かれています!」というようにフワフワしていて、真っ直ぐ歩かない為に隣を歩いているはじめちゃんに何度も肩がぶつかっていた。

「…ってーな!ちゃんと真っ直ぐ歩け!」
「えーっ。今はちょっと無理かな〜〜、俺幸せでフワフワしてる〜〜」
「フワフワっつーかフラフラしてて迷惑なんだよ!!このクソ川!!」
「なーにー岩ちゃん。俺に彼女が出来て自分はモテないからイライラしてんの?」
「……テメェのその言葉にイライラしてるわボゲェ!」
「ふっふっふっーん!!…あ、じゃあ俺はここで!!また明日から部活でねー!」

三人で並んで下駄箱を出たところで、少し先にある校門の方で知った姿を見つけた及川が片手を上げながら足早に走り出す。
もちろんそこにいるのは、及川の彼女≠ニなったあの子だ。
…今日は体育館が点検作業の為に使えず、珍しくバレー部の活動がない日。そして終業式で活動する部活があっても一度それぞれ自宅に帰り昼ご飯を食べてからまた集合する部活が多い日でもある。だから今日は運動部同士のカップルがこぞって一緒に帰る約束をする日でもあった。
先程から及川達カップルの他に、同級生同士のカップルも、そして先輩同士のカップルもちらほらと待ち合わせをしている姿を目撃している。

「あのクソ及川め…明日の部活でもあんな態度だったらぶっ飛ばしてやる」
「よろしくはじめちゃん。なんなら協力するから何でも言って」
「サンキュー名前。…あとさ、今日このままウチ来ねーか?パス練付き合って欲しい」
「え、私でいいの?投げることしか出来ないけど」
「いい。一人でやるよか捗る」
「ん。なら行く。おばさんのご飯有りでしょ?」
「ああ。んじゃ行くか」

はじめちゃんに習って一緒に踏み出した道は、及川達が歩いている方向とは逆だ。不意に思い立って後ろを振り返ると、視線の先に及川と彼女が何か楽しそうに笑い合いながら、でも女の子の方がどこか気恥ずかしそうに頬を染めて話して歩いている姿があった。
及川も、普段バレーをしている時よりも緩み切った顔で彼女に笑いかけている。

「………」

モヤっと、胸の内側に何かが走る感覚。及川達の笑顔とは真逆に、私の表情はどんどん固まっていく。

「…名前?何してんだ、置いてくぞ」
「あ、うん……今行く」

はじめちゃんの言葉に連れ戻されるまで、私の意識は自分の意思とは逆に及川達に注がれていた。その間に大きくなった、胸のズキズキとした痛み…この時の私は、まだこの感情の名前を知らなかった。

結局、及川がこの彼女さんと続いたのは夏休みを含めた二カ月の間だけ。しかも彼が浮かれていたのは付き合い始めた最初の一週間ぐらいだけで、その後の彼は彼女ができる前と変わらない態度に戻っていた。
しかも当時から及川は超≠ェ付くほどのバレー馬鹿だったし、食事や寝る以外の時間はバレーのことしか頭に無いと言っても過言ではなかった。
唯一部活が休みになった夏休み最終日は、はじめちゃんの家で三人で課題に追われて終わったのをよく覚えている。
その時にはすでに及川の口から惚気とか、彼女さんについての話は一言も聞くことが無くなっていた。

「…そういえば、及川さ」
「何?……俺いま英文法と必死に戦ってるんだけど」
「最近彼女さんの話聞かないけど…どうなの?」

数学の課題を前にうたた寝しているはじめちゃんの隙をついて、及川に問いかける。ピタリと動きを止めてしまった及川がそのまま数秒間黙り込んでしまうから、部屋には時計の音が大きく響いている。

「……なんで、そんなこと聞くの?」
「なんとなく?…そういえば最初の頃よりも惚気聞かなくなったなーって思って」
「ああ…そう、かな」
「部活時間が被ってる時は一緒に帰ってたりしたのに、最近じゃはじめちゃんと自主練ばっかしてるし」
「………」
「…あ、ごめん。言いたくないならいいから。私が勝手に気になっただけだからさ」

再び黙り込んでしまった及川に、さすがに踏み込み過ぎたと慌てて言葉を紡ぐ。教科書をじっと見つめていた及川の視線はどこかぼんやりと宙を浮いて、それから一瞬だけ私に移り…そしてそのまま、深い溜息と共に頭を抱え込んでしまうのだった。

「はぁぁぁぁあ……名前ちゃん鋭すぎるでしょー」
「は?…え、…え?」
「俺、たぶんもう彼女のこと好きじゃ無い」

机に顔が向いているせいで少しくぐもった及川の声に、一瞬思考が追い付かなかった。その言葉を私が理解するより先に、及川は態勢を変えないまま続けた。

「正直、付き合う≠アとが初めてだし、一緒に帰ったりとか、メールとか電話とか毎日するのもよく分かんないし…最近はあの子といるよりも部活やってた方が楽しいって思ってるんだ」
「………」
「むしろあの子に時間を取られるなら、ボールにもっと触りたいって思ってる」

そこまで言った及川は腕の隙間から黙ったままの私を見て顔をあげる。
そしてどこか困ったような、片眉を下げた情けない笑顔を浮かべてこう言った。

「俺、最低だとは思うけど…あの子よりバレーの方が好きなんだよね」

…及川のその表情を見たとき、私の心臓は既に囚われていたんだ思う。
結局このときはあんまり気遣った言葉を掛けることが出来ず、はじめちゃんが起きたことでその話は終わった。
そして夏休みが明け、及川と彼女≠ェ一緒にいる姿を見かけることが無くなり、三年生が引退した後レギュラー入りすることを監督から告げられた及川は益々バレーにのめり込んだ毎日を送る様になる。
…それから約一ヶ月後、及川の彼女≠セった子は男子テニス部の先輩と付き合いだしたという噂を聞いた。
瞬く間に広がったその噂に驚いたはじめちゃんが及川に話を聞き出すと、この三日前に既に「別れた」といつもと変わらぬ飄々とした笑顔で及川は言いのけた。

「確かに最近一緒に居ないとは思ってたけどよ…良かったのか?」
「まあね。…俺、あんまりあの子の事好きじゃなくなってたし…それに、向こうから『別れたい』って言われたら頷くしかないじゃん?」
「……うんこ野郎だな、お前」
「えっ、酷くないそれ?!俺一応フラれた側だよ?!」
「うるせぇクソ川。…名前、こんなうんこ野郎おいて部活行くぞ」
「うん…」
「ちょっと!名前ちゃんまで…!てか置いてかないでよ!俺も行く!!」

足早に教室を出ていく私達の後ろをバタバタと音を立てながら付いてくる及川。同じように部活に行く同級生達の喧騒に紛れてその音はあまり目立たず、すぐに彼は私達に追いついた。
ちょうど隣のクラスの前を通るとき、そこに一つ上の学年カラーの上履きを履いた男の先輩を見つけた。そしてその前には、及川の彼女≠セった子が笑顔を浮かべている姿がある。少し前に見た気がする、どこか気恥ずかしそうな表情。幸せが溢れているような笑顔の彼女は私達には全く気付いていない様子だった。

「おい離れろクソ川。歩きづれぇ」
「岩ちゃんなら大丈夫!パワーゴリラなんだから俺くらい軽々運べるでしょ??」
「…テメェも似たようなもんだろ?いいから自分で歩け」
「ええー」

及川も、そんな彼女には気付かずにはじめちゃんの肩に腕を回してじゃれ付きながら廊下を進んでいる。
どこまでも楽しそうに、無邪気に笑う及川。
彼の目にはもう、バレーボールのことしか写っていないのだと思った瞬間だった。

「………名字。おーい、起きろー」
「………??」
「おっ、やっと起きた」

頭のてっぺんを撫でられてるような感覚と、聞き慣れた声に意識が浮上する。ぼんやりとする頭のまま顔を上げると、英文の書かれた黒板を背景に、部活仲間でクラスメイトの花巻がニヤニヤと私の旋毛を押して立っていた。…グリグリされて結構痛いんだけども。

「花巻、旋毛痛い…てか、私寝てた??」
「授業の後半爆睡。おかげで隣の席の俺にとばっちりが来ました。これはその仕返しです〜」
「は?…って、本当に痛いんだけど!ギブギブ!!」
「しょーがねぇ。コンビニのシュークリームで許してやろう」
「意味わかんない理不尽!!」

四時間目の英語の授業。前半はなんとなく記憶があるけど後半部分は全く覚えてない。現在進行形で日直に消されている黒板の英文も見覚えが無いのは寝ていたせいだ。…あとでノート借りよう。
やっと離れた花巻の手を涙目で見つめながら、体を起こすと前方の教室の扉側から「名前ちゃーん!」と私を呼ぶ声が聞こえた。

「あ、忘れてた。我らが主将様がマネージャー様のことをお呼びです」

半分くらいふざけた様に言った花巻は、さっきまで私の旋毛を押さえつけていた手で扉を指差す。その先にはいつもと変わらない笑顔でヒラヒラと手を振る及川の姿があった。…右手には見慣れな無い松葉杖を抱えて。
少し足早に及川の元に駆け寄ると「おはよ〜」とこちらの気が抜ける様な声を掛けられた。

「よく寝てたね〜、前髪に寝癖ついてる。それにぐしゃぐしゃ」
「ぐしゃぐしゃなのは花巻のせいだし…ていうか、病院行ってきたんだよね?松葉杖?」
「ああ、うん。ちゃんと行ってきたよ」

「どこかのマネージャー様が怒るからね」と語尾に星マークをつける勢いで言った及川に若干イラっとしたけど、それよりもまずは松葉杖の真相が知りたい。昨日私が見た限りでは腫れていただけで骨にまで異常があるようには見えなかったのに…そこまで重傷だった場合は、昨日の応急処置が不十分だったのではないか、と背筋が凍る。
…そんなことを考えた私に気付いたのか、及川は言葉を続けた。

「あ、松葉杖は念の為ってことだから!そんなに重傷じゃないよ?!名前ちゃんが昨日言った通り少し捻ったやつだって!」
「…ほんと…?」
「ほんとほんと!これはお母ちゃんが無理矢理持たせたやつだし。…そうでもしなきゃ怪我人らしくしないでしょ、って言うんだよ?酷くない??」

これ、と松葉杖を掲げて声音を変えながら(たぶん、お母さんの声マネらしい)及川は言った。このようなバレーに関することで及川が嘘を吐くとは思わないし、私を安心させる為だけに言うとは思えない。

「…どれくらいで治るって?」
「とりあえず三日間は安静にすること。一週間後にまた診察に行ってそこで最終判断。それまで通常練習は禁止だってさ」
「いや当たり前じゃん。それは私が全力で止めるから」
「だよね〜」

また笑いながら、いつもと変わらないように言葉を紡ぐ及川にホッと息を吐く。自分の判断が間違ってなかったことと、何よりも及川の怪我が早く治る程度のものでよかったことに心底安心したのだ。
私の表情が和らいだのがわかったのか、及川もほんの少し口角を緩めて笑いそのまま私の頭に手を伸ばす。ポン、と乗せられた頭頂部が及川の温もりを認識するのに一瞬の間が生まれ、二度、三度と撫でられるのを為すがままで受け入れていた。

「キャーーー、オイカワさんセクハラー」
「…マッキー、言うならもうちょっと気合い入れてよ。それにこれはセクハラじゃなくてスキンシップ!!!」
「大抵のセクハラ親父はそう言うよな。スキンシップ」
「親父…?!」

ヒョコッと、私と及川の間に突然現れた花巻が裏声を使ってやる気のない叫びをあげる。セクハラ親父呼ばわりされた及川は言葉を失い、もう一回私の頭の上に置こうとしていた手は花巻によって振り払われていた。ポイッて軽い音が聞こえた気がする。

「…きゃー、おいかわさんのせくはらおやじぃー」
「名前ちゃんまで!!しかもマッキーよりもやる気ない!!」
「ヤベッ、名字最高」

ギャハハと声をあげて笑う花巻に半泣き状態の及川。はじめちゃんと松川がいないけど、ほとんどいつも通りの光景に戻った気がして私の中にある感情がこれ以上膨らんでいくのを阻止できたと思う。
その後、一通り笑った花巻が落ち着くのを待ってから及川は自分の教室に戻ると言って松葉杖を使って歩きだした。…送ろうかと声を掛けると、少しでも身体を自分で動かしたいからと断られてしまった。
ゆっくりと歩き出す及川の背中はいつもより少し猫背気味で小さく見える。普段はコートの中で誰よりも逞しくて、頼りになる姿を見ているのに…口では大したことなかったと言っていても、やっぱり精神的にショックは受けているんだろう。

(そういうのもちゃんと…マネージャー≠ニしてフォローしなきゃ)

やっと自身の教室に辿りついた及川の姿が消えると同時に、心の中で決意を込めていると斜め上から突き刺さるような視線を感じる。

「………なに?どうかしたの、花巻」
「いや……、」
「……言いたい事があるなら睨んでないで言ってほしいんだけど…」
「………あー…うん……」

もちろんそれはさっきから隣にいた花巻からのもので。…私が指摘するとその視線は外れたものの、何かを言いたそうに言葉の歯切れが悪くなっている。
花巻とは普段から教室でも、部活の中でも仲が良いと思っている。彼と一緒になって及川をいじったり、はじめちゃんと腕相撲をしている花巻を応援したり、クラスでも隣の席だから結構なんでも話したりしてるのに…突然起こった花巻のどこか余所余所しい態度に頭の中には疑問符しか浮かばない。

「ねえ、どうしたの花巻。なんか気持ち悪いんだけど…」
「気持ち悪いはヒデェな……いや、まあ…前から思ってたことを突然確信したっていうか。納得したっていうか…」
「いや、だからどうしたの??」
「………言っていいのか?」
「いや聞いてるの私だし」
「…怒らねぇ?」
「内容による」
「……だよな…」
「でもハッキリしないのは気持ち悪いから言え」
「脅迫かよ!!」

もごもごと、ずっと言葉を濁し続ける花巻に段々イライラが募ってくる。脅迫めいた言葉を言ってもなおしばらくはその確信したということを言ってくれなかった花巻にもう一度私から言葉を掛けようとしたとき、耳を疑う言葉が聞こえた。


「お前、及川のこと好きだろ」


喉の奥で吐き出そうとした言葉が音にならずに消える。同時に回りの昼休みの喧騒が嘘のように音が消えて、私はただ、花巻から注がれる真っ直ぐな視線から目が逸らせなくなってしまった。

「…及川のこと、好きなんだろ?」

再び繰り返されたその言葉に、私は、ただただ花巻の事を見つめ返すことしかできなかった。





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