今牛彗華は現在、非常に悩んでいた。
「神の落とし子」「現代の楊貴妃」とまで呼ばれた風貌のせいで他の人々より苦労が多く、なるべく外では気を抜かないようにしている彗華が唯一手放しで肩の力を抜ける家の中。彼は自室である殺風景な部屋のベッドの上に寝転びながら頭を悩ませていた。
その小さく雪のような手の中にあるのは自分が持つには不相応なシルクのハンカチ。あまり服飾関連に明るくない彗華でも知っている有名ブランドのものだ。感嘆するほど鮮やかな色味と蕩けるような手触り。本当にイイものは触った瞬間にわかると同年代の唯一の友人が言っていたのを思い出す。こういったものに触れる機会がなくても納得してしまう気品あるそれに、興奮するでもなく重々しい溜息を吐いた。
(ちゃんとあの人に返さないとな)
そっと瞼を閉じる彗華の脳裏には、あの綺麗な目をした三つ編みの男の姿が浮かんでいた。
時間は、今日の夕方にまで遡る。
「俺、灰谷蘭っていうの。名前教えて?」
六本木の駅前に少し高めの文房具店がある。そこに行こうと誘われて、唯一の友達とただ買い物に来ただけのはずなのに、どうして私はこの人に名前を聞かれているのだろう。
呆然とそのオッドアイを見開き、眼前の男の紫の瞳を見つめる。はく、と空気を呑んだ彗華の動揺を見て取った灰谷蘭と名乗った色男はそっと距離をとった。そのことに戸惑い、顔をあげて男の顔を見てまた白く端麗な顔を彩る感情を怯えから困惑に変えた。
こういったことは今までにも何度もあった。神話の女神も素足で逃げ出すだろうと言わしめる美貌を持つ彗華は、本人は何もしていないのに勝手に惚れられては追い縋られ愛を乞われてきた。酷いときなんかは痴情の縺れの殺傷事件に巻き込まれそうになっている。幼いころから恋愛沙汰に振り回され好意を理由に身勝手な性欲や理不尽な所有欲を向けられてきた彗華は時折周りが驚嘆するほど冷艶な表情で自分に好意を見せる人間を切り捨てることがあった。自分に常に汚く歪な下心と明け透けで下劣な興味を抱く相手に心を許せるはずもない。それは幼い傷跡に苛まれている心をこれ以上傷つけないための、一種の防衛反応だった。
けれど、己に純粋で朗らかな好意を抱く人物や真剣に向き合い続ける人間はまた別だった。今の家族であれ、友人であれ、良くしてくれる義兄の友人たちであれ。逃げ出すこと、突き放すことを躊躇ったのはそれだ。名前を知りたいと願う目の前の三つ編みをした男、蘭の目がどうしようもなく真摯だったから。それならばきちんと答えなければ、失礼なのではないか。
距離を取りながらもこちらから目線を逸らさない蘭の前から動くこともできない。しっかりしろ。脳内に理性の声が鳴り響いてハッとした。いけない、こんなに普通に助けてくれる人は久々で少し嬉しくなってしまったのだ。けれど名前はダメだ。何が起こるかわかりもしないのに。助けてくれたお礼を言って、ハンカチを返して立ち去ればいい。そもそも、今の状態が本当かどうかなんて、わからないじゃないか。折角拭いて止めたばかりなのに、薄桜色の唇からとろとろ血が流れていく。
きゅうと自らのか細い体躯を掻き抱く彗華の呼吸が浅くなっていくことに気が付いたのか、蘭は華やかで、かつ危険な雰囲気を漂わせる表情を崩した。ああ、そんな顔をしないでくれ。怖がらせたかったわけではないのだ。目線を合わせるように腰を折りながら弟にすら聞かせたことのないような甘露のように優しい声を出す。
「ごめんなぁ、びっくりしたなぁ」
「っ」
「普通初対面の相手にいいたくねぇよな。蘭ちゃんが悪かったから、ちゃんと息しろぉ?」
気を抜けばすぐにでも倒れそうな顔色をした彗華には不健康な妖艶さがあった。白痴美、というべきか。近くで見れば見るほど鼻白むほど可憐な顔と、陰鬱な艶やかさが滲み出る仕草。普通であれば魅了されて狂うだろうそれにも、蘭は不思議と動じていなかった。可哀想なほど震える姿に、むしろ気遣うようなそぶりをみせる。戻そうとしているのだろうが未だ呼吸の早い彗華の目を見て、数を数えだした。
「いーち、にーぃ、さーん」
蘭の声が耳に届くたび、ゆっくりと、ゆっくりとだが呼吸が元に戻っていく。硝子玉のようになってしまった瞳に少しずつ光が宿り、それを見て蘭の瞳も柔らかい光をともらせる。ほうと息をこぼした彗華を抱きしめたい衝動がないかと聞かれれば嘘になる。しかし敢えてその選択を破り捨てた蘭は、この頼りない繊細な少年を怖がらせないように努めて人懐こい笑みを浮かべた。つられたように張り詰めた空気を少しだけ弛ませる魔性の美人に、これからどうするかを蘭は決めた。
突如、ハスキーな声が彗華を呼ぶ。
友人の声だ。トイレに行っていたのが戻ったのだろう。つかつかこちらに寄ってくるその姿に知らず安堵の息を漏らす。どうすればいいのかわからなくて、見知った顔がいるというのは心強さすらあった。
「それ、今返さなくていいから」
「え?」
「来週この時間に待ってるから、ハンカチは気が向いたら返しに来て」
後ろから聞こえた声に思わず振り向くが、まるで蜃気楼のように灰谷蘭の姿は消えていた。
心配性な友人からは、捨ててしまえといわれた。意外と強かなところのある義母からは、洗濯して貰ってしまったら?と笑われた。けれどそのどちらもできずにいるのは人のものを勝手に処遇を決めることへの後ろめたさからもあったが、胸の中に感謝の念があるからだった。本音はどうあれ、他人にあんなにただ親切にされるだけというのは久々だった。大抵、彗華に善意を向けてくる人間は「じゃあ対価が欲しいな」と厭らしい視線で鼻息を荒くする。それを向けずに過呼吸を起こしそうになっていた彗華を助けてくれた。それなら、感謝を伝えるために会いに行ってもいいのではないか、と思う自分もいる。それは一種の願望に近かった。淡くて脆すぎる期待、と言ってもいいかも知れない。
馬鹿だなぁ。自嘲しながら鼻で笑う。そうやって期待して、何回裏切られたのか。何回傷つけられてきたのか。百を超えてから数えることをやめてしまった心無い言葉は今でも彗華の心を蝕む。それでも、家族や友人たちのように笑いあえる人になれるんじゃないかという、幼い頃の願いは燻っている。そうやって近づいてきて、豹変した人たちを知っている。そのたびに「あぁやっぱり」と思うことも。糸の切れそうなほどか細い期待ともう消せないほど染みついた諦観。一見矛盾したそれらは複雑に絡みあい、縺れ合って彗華の心に居を構えている。
それでも、人として受けた親切を返さないままでいるのはあまりに失礼に思えた。
「明日、ドミに相談しよう」
ぽつりとこぼした言葉は、意外と大きく部屋に響いた。