(前編)
灰谷竜胆は困惑していた。
「六本木をふらついてくる」と数時間前に出て行った兄が、顔を赤くして帰ってきたと思ったら「男に一目惚れした」とかいってきた。それなんてフィクション?これだけで小説が書けそうな端的な状況説明である。
「え、っと、兄ちゃんエイプリルフールはまだ先だ」
「嘘じゃねぇから」
「あ、相手に惚れられたとかそういう?」
「俺が一目惚れしちゃったの♡」
「エッ」
空いた口が塞がらない。そんな竜胆を機に止めることもなく紅潮した顔をゆるゆると緩ませた兄は瞳をこれでもかと優しく細めている。わぁ俺そんな顔初めて見た。そんな思いが頭に浮かんだがそれどころではない。
え?一目惚れ?あの兄が?女を生きたベビードールとしか思ってないあの兄が???
「おいなんか失礼なこと思ったろぉ」という声が聞こえてくるが無視をした。あとで半殺しにされても構わなかった。今竜胆の脳内には宇宙に猫が浮かんでいる。
事実灰谷蘭という男は遊び慣れしていた。事実として、灰谷兄弟はどうしようもなく顔が良かった。女というやつはどうしようもなく危険で魅力のある男に弱いのである。街中でも学校でもキャアキャア甲高い悲鳴の嵐だったし都心に出れば逆ナンをされることだって数え切れないほどある。遊びでもいいからと縋りつかれてセフレや性交渉をしたことのある女性は手と足の指を数えても足りないくらいいるし、だからこそ仁義なきキャットファイトに巻き込まれることもある。竜胆は面倒で何も言わないのだが、蘭は違った。
「は?好きなわけないじゃん♡都合がいいから一緒にいるのに何自惚れてんの?」
「お前はただの暖かい人形だよ」
これである。どんな美人であろうと可愛い子であろうとこんな対応なので兄に惚れた女たちは枕を涙で濡らしていることだろう。このやりとりを見た時は竜胆も人のことは言えないがさすがにクズすぎてドン引きした。
そんな兄が、一目惚れ!しかも男に!
「そ、それ、どんな、どんな男なんだよ」
顔面蒼白で言い募る竜胆に首を傾げながらも蘭は蕩けるような笑みを浮かべた。その瞳に浮かぶどろどろとした甘さに寒気を覚える。
「ききたぁい?」
「あ、やっぱいいや、うん。いいや」
「多分お前も気にいるよ」
「エッ」
どうやら灰谷家の夜は長くなりそうだ。