最果てはここじゃない






その日は雪が、降っていた。

「何してんだ、イザナ」

呆れたような声に目を開ける。傘をさした長身の女が地面に寝転がるイザナを見ていた。
美しい女だった。西洋人のような長身に揃えられたパーツはどれも美しく、無駄がない。サングラスの下のその目が少し歪むだけで、張り詰めたような緊張感を感じさせる美人。引き算の究極を求めたような雪の女王、そんな印象が浮かんだ。身動ぎするだけで、彼女が愛煙している煙草の甘い香りがふわりと鼻腔を刺激する。
「別に、なんもねぇよ」
「なんかあったからそういうんだろ」
「・・・・・・どうしてここが」
「白銀がお前を見かけたと連絡してくれたんだ。この時間の新宿には来んなって言っただろ」
白銀。この女、薬王寺黎に忠誠を誓い狂信的に慕っている伊達男。派手好きで高飛車なところはあるが、その実誰よりも思慮深く思考が早い男。一度会ったことがあるが、黎以外への態度は狂犬じみたものがあった。最も、あまり興味はなかったが。
あいつ、余計なことしやがってと小さく毒づくと、黎は怪訝そうにその麗しい顔を傾けて、小さく溜息をついた。
「まあいいや。ほら、早く帰るぞ。真一郎から連絡が来たんだよ」
「帰んねぇ」
「はぁ?お前、ここがどこかわかってんの?新宿だぞ、特にこの時間は裏社会の人間が彷徨いてる時間だ。力を過信してんのか知らないが、一人でいたら間違いなく」
「ウルセェな!関係ないだろ!お前には!」
声を荒あげれば、黎はその濡れた唇を引き結んで押し黙る。御伽噺の高貴な魔女を思わせるその威厳を気にすることもなく声を震わせた。
「もともとお前は気に食わなかった。真一郎の彼女ってだけだろ、俺の家族でもないくせに指図すんな!それに、っお前だって憐れんでるんだろ!心の中で!血の繋がりがないのに家族だって偽る真一郎に騙されてる俺のこと!」
ぎゃあぎゃあとカラスのように声をあげて掴みかかる。ぼかぼかと体を拳で叩き続けるが、黎は身動きもしない。そのことにまたイラついて、歯を食いしばって睨みつけた。
「こいつ、俺の彼女」そう言って真一郎が連れてきたのがこの女だった。冷たそうな女だと思った。一印象はそれだけ。けれど真一郎がコイツに向ける目が、チョコレートを溶かしたように甘くて。自分の知らない真一郎を見たくなくて、それを引き出すコイツが恐ろしくて。イザナは黎に強く当たった。それでも黎は無表情だった。不機嫌でも冷酷なわけでもない。ただ笑っていないだけ。ただ傷ついていないだけ。そのことにまた苛立ちを覚えて、の繰り返し。
そんな女が今更何のようなんだと、手負の獣のような表情でイザナは見つめる。それを黎はサングラスをそっと外し、見返してきた。その視線の強さに怯む。
「なんだよ、なんか言えよ」
「血が繋がってないから家族じゃねぇの?」
「っそうだろ、だってそうじゃなきゃ」
「ま、そういう考え方もあるわな。でも、」
無機質な星を散りばめたような目が真っ直ぐにこちらを貫く。ひんやり冷たい印象のある唇からまろびでた言葉は、雨のようだった。
「真一郎とは話したの?」
「話すことねぇ」
「それじゃ、もう一生話し合えないままだな。真一郎とももう二度と会えない」
「っそれが、なんだよ」
「別に?それで後悔しないなら止めない。ただ、人生は何が起こるかわからない。昨日喧嘩した人が、明日帰って来なくなるなんてよくある話だ。それでもいいのかって、話したい時に話せなくなってもいいのかって聞いてんの」
イザナが黎のことを苦手だったのはこの声もあった。決して華々しいわけではない、けれどしとしとと地面に落ちる雨のような心に響く声。反発を思わせる間も無く心を穿つその声がこちらに問いかけてくるたび、何も言えなくなる。
「別に、そんなの」
それを良いとはいえなかった。言わなかった。そう言おうとして、真一郎との数々の思い出が蘇ったのだ。たくさん話をしてくれた、たくさんのものをくれた、たくさんの人に会わせてくれた。自分は真一郎だけでよかったから、なんでそんなことをするのかよくわからなかったけど。けれど、今思えば真一郎は、イザナのことを一人にしないようにと思っていたのかもしれなかった。それは、ただの優しさで、太陽みたいな感情だけ。献身でも、義務でも、贖罪でもない、ただただ家族は向ける情だった。そしてその場にはコイツもいて、どれだけ邪険にしてもいつだってまっすぐこちらを見ていた。その目に宿っていたのは、ただの慈しみだったと、今更気がつく。
黙り込んだイザナに、黎は言葉を重ねる。
「質問を変えるぞ。真一郎は哀れみなんかで人に優しくするような男か?」
違う、と首を振る。頭に乗せられた青白い手はその外見に似ず優しくて、暖かった。
「それがわかってるなら大丈夫だ。一緒に会いに行こうぜ、お前が心配すぎてきっとあいつ肝冷やしてんぞ」
戯けたように椿の色をした唇が笑みを作る。黎はイザナの褐色の手を取って、体温が混ざり合うように手と手が絡められた。たまらなかった。何故だか泣き出したくなった。
「なあ、黎も」
「ん?」
「黎も、俺のこと家族だって思ってんの。血も繋がってないのに。たくさん、酷いことしたのに。だから迎えにきてくれたの」
そんなことが口を次いで出ていた。いつもなら聞かないだろうその言葉がぽろりと出たのは、いつもの自分を思えば不自然ではあったけど、どうしても今聞きたかった。これで否定されたら、きっと立ち直れない自信があった。半ば縋るような心地で見つめれば、深海のプルシャンブルーのポニーテールを揺らして、黎は弾けるように笑った。女王のような美貌が、子供を見守る慈愛に満ちた母親のようになった。

「そうに決まってんだろ。まあ、家族とはちょっと違うがな。たしかにお前はとんでもなく生意気だし可愛げはないけど。でも、真一郎がお前を大事にしてるように。私だってお前が大事なんだよ。大事な大事な子供だよ。それは本当」
だから、帰るぞ。イザナ。

蕩けるような微笑みは、視界がぼやけてちゃんとは見えなかった。別に、彼女は自分の思想を肯定したわけでも否定したわけでもない。それでも、その雨のような声一つで、存在全てを肯定されたように思えて。
イザナは初めて、黎の前で泣き喚いた。

雪が、しんしんと降っていた日だった。

まだここじゃない、終わりじゃないから


この日。
終わるはずだった歯車は、また回り出した。

あのあと真一郎は、泣き腫らした顔で黎に手を引かれてやってきたイザナを見て怒りながら泣いて、抱きしめられた。
二人で色々と話して、怒って、泣いて、笑った。
黎はそれを、薄い金糸雀色の瞳を優しさ一つだけでいっぱいにして見ていた。
「なぁ、真一郎」
「ん?どしたよ」
「早く黎と家族になってくれよ。俺、真一郎と黎のガキが抱きたい」
「っは⁉︎」
「・・・・・・ん?」
まだ俺たちはそんな歳じゃと慌てる真一郎と戸惑ったような顔をする黎に、イザナは声を出して笑った。