それはつまり、恋ということ
オレ、センパイの心臓が食べたいな。
まるで睦言を囁くように、隣に腰掛ける男はつぶやいた。うっそりとしたその微笑みは、篝火のように揺らいだ色気を漂わせている。柔らかい金色のひだまりが差し込む寂れた理科室の中じゃ、どうしようもなく浮いて見えるような薄暗い笑みだった。
「また、唐突なことだね」
ふっと投げかけられた告白に、唯一絞り出せたのがその言葉だった。この男のそばにいる時、私は息をすることすら躊躇われる。その掴めないペースに呑まれて自らの指針を見失ってしまいそうな、そんな漠然とした恐怖に駆られるのだ。言葉をかけるなんてものは、なおさらだった。それは目の前にある男が同年代と思えないほど、紫煙のような笑みに隠れる成熟した冷たさを持っているからなのだろう。浅い息をこぼすと、アルコールの匂いがツンと鼻を刺した。アルコールランプの匂いだった。
オレンジの空から覗く豪奢で深い憂愁を秘めた色と光が男の旋毛を照らす。なめらかで柔らかそうなそれは、まるで綺麗な黒絹のようだった。私の容量を得ない言葉に彼は頭を揺らして、首を小さく傾けた。髪がさらさらと流れて、皮膚の大半をピアスが占める耳朶を無防備に晒す。薄ら笑いの目線がさらに細まり、小鳥でも呼ぶように指を長机に滑らせる。それはまるで、私の動揺を見透かしているかのようだった。
「そう?そんなことはないぜ」
「嘘をつくのがうまいね」
「そんなことないって」
「・・・・・・吉田の言うことは信用してない」
「あはは、信用ないんだ?傷つくなぁ」
そんなことを宣いつつ男、吉田ヒロフミは全く堪えた様子もなくわらった。端麗で、非の打ち所がないアルカイックスマイル。美しいまでの口角の上がりは、彼の本心すら隠してしまって辟易する。小さくため息を吐けば、彼は今度こそ笑ってみせた。あ、笑った。そう思って小さく目線を向ける。吉田の浮かべる笑みはいつも似たり寄ったりで、しかし本当に面白いものを見つけた時、喉骨が上がって下がる。そうしてくつくつという、独特な音を出して笑むのだ。今回もそうだった。そんな小さなことに気がつくほど、私と吉田は同じ時を共にしている。
「センパイはオレの事嫌い?」
「いや、どっちかていうと苦手」
「いいねぇ、ショージキだ。そんな嫌そうな顔しながらも、オレの事部活に入れてくれるんだもんな」
このみんな一緒を旗に掲げるオリエンタルの典型のような学校には、部活や同好会に入らないと内申に響くという古典的なルールがある。正直野暮ったくて仕方ない校則だ。しかし、その校則がなければ私と吉田は出会うことすらなかったのだろう。
私と吉田の関係は、謂わばその校則によって作られた関係だった。「入部したいんですけど」とその仄かな色気が滲み出る声で話しかけてきたあの日から続くいている付き合い。羨ましい、などとさまざまな温度を込めた声をかけられることも多いが何を期待しているのか。高校生でありながらデビルハンターだとかいう職業に就いている多忙な彼が部活になど打ち込めるはずもない。彼がこの部活ともいえない同好会じみたものに席を置いている理由は、教師や生徒からの追求を逃れるための隠れ蓑なのだ。
しかし、それだけでは終わらないのがこの吉田ヒロフミという男だった。この幽鬼の顔を持った年齢不相応の笑みを絶やさない男は、何故だかよくこの理科室へと現れた。仕事もあるだろうから気にしなくていいと言っても、野良猫のようにふらりと現れて、またふらりと消えていく。話しかけられられてぽつぽつと話をすることもあるが大抵は、何をするでもなく微笑んで、当たり前のように隣に座った。それは次第に部活内だけでの交流ではなくなり、例えば廊下ですれ違うときや昼休みになんの前触れもなくふっ、と現れて言葉を交わすようになっていた。女避け、気まぐれ、なんとなく。それでなければ納得できないほど、吉田は私に構っている。
おかげで私の女子からの評判はガタ落ちで、無視されることも多くなった。「女殴ってそう」「パトロンがいそう」「年上の女飼ってそう」などの浮ついた噂が渦巻く彼は、それでも危険な男に惹かれる思春期の女子には絶大な人気を誇っていて。だがしかし取り囲む女子の群れを決まったような笑みを浮かべて応対する彼が瞼を閉じればすぐ浮かんでくるような存在を作ったことがないのは、目を見るよりも明らかなことだった。泣かせた女は数知れず。そんな男が、たった一人のなんの変哲もない女に親しげに声をかけるということは、あまりにも彼を思って身を焦がす人々からしたら気に食わないものなのだろうけど。
それでも、今日も夕暮れに照らされた彼は私の隣で笑っている。何もなかったかのように。何も、起こっていないかのように。そして突拍子もないことを言っては、また私を困らせる。息をしにくくする。
だから私は、この男が苦手だ。
「・・・・・・ねぇ、」
「ん?」
「心臓が食べたいって、なに」
空気が薄くなっていく気がして、声帯が溺れていく。鼻で笑ってしまうくらい掠れた声が出た。パンドラの箱を開けてしまうようで恐ろしかったけれど、聞かずにはいられなかったのだ。それを聞いたらもう戻れなくなることを、なんとなく理解していながら。それでも愚かな私は口を開いてしまった。もう、取り消すことはできない。
吉田は長い睫毛をゆっくり瞬かせ、夢を見るように微笑んだ。形のいい唇が深く弧を描いて、かちりと引き締められた白い首が顕になる。男らしい喉が嚥下する瞬間に、触れてみたいなどと思ったりした。時折、この美しいひとでなしが男という自分とは対岸に立つ存在であることを確かめたくなる。惹かれたくなどないというのに。
「センパイ知ってる?蛸の心臓は三つあるって話」
「有名な奴?」
「そ。2つの心臓が血液をエラへ送り、3つ目の心臓が臓器へと送るんだ。すげえよな。あの体に心臓が三つ入ってるんだ。ちょっとわくわくしねぇ?」
「しない」
「残念」
「それに、なんの関係があるの」
眉を寄せた私の様子を見て高らかに笑った吉田が、漆黒の瞳を溶かすように細めた。その微笑みに首を傾げる。吉田は自分の前ではよく笑うけれど、今日は随分と穏やかに笑う。そういう気分らしかった。おかしなものを見る細い眉が、どこか悦を含んで歪むのが美しい。まるで狂気の国で正気を保っている狂人めいた美しさだった。
「センパイ」
「、なに」
「センパイの心臓、オレにくれよ。三つ目の心臓」
きめ細やかで、それなのに荒く節くれだった男らしい手が泳ぐようにこちらに向かう。あ、と気づいた時には緩やかに首に手をかけられていた。
「丁寧に、美味しく、残さず。食べてやるから。な?」
だから、オレと恋愛しようぜ。最期に許すくらいにさ、溺れてくれよ。センパイ。
そんなこといわれても、今更。
私は吉田から逃げられやしないのに。
底辺からのラブコール