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なぁ、と。生まれた姿のまま、目の前の男は万華鏡みたいに微笑んだ。長い前髪に半ば隠されている溶けるような漆黒の瞳が、うっそりとした光を宿す。
たくさんの女を殴ってそうなこの男が、意外とマメで優しい男であることや、こうしてデンジを抱いたあと追い出さず、後処理やアフターケアを怠らない甲斐甲斐しい男だって知ってるやつ、どれくらいいるんだろうな。情事のあとのぼんやりしたデンジの内心を知ってか知らずか、男、吉田ヒロフミは彼女の少しくすんだ金色を溶かしてカチリと集めたような長髪を撫でている。あれだけ大きな悪魔相手に引かず寧ろ大きく見えるデンジは、その実至極小さく、そして未成熟だった。それは成長期に充分な栄養を摂ることができなかったことや幼少期の環境などが関係しているのだろうが、とにかくデンジの体は小さくて、それに不釣り合いなほどに扇情的な色香があった。まるで泉の底から男を引き摺り込む水妖のような。グスタフ・クリムトの絵画の世界から出てきた少女のような。
そんな、吉田の腕の中にすっぽり収まってしまうような白く小さな裸体には、たくさんの鬱血痕と指が肢体に絡みついたような跡が残っていた。見ていて顔を歪めそうになる痛々しいほどのそれや、ウサギみたいに赤い目元や、腫れぼったい唇、無防備に投げ出された子鹿のような脚を震わせる姿。これを見れば、よほど鈍くなければデンジと吉田の間に何が起きたのかすぐ察せるだろう。
閑話休題、甘ったるく、そしてなによりもしつこく抱かれて身動きも取れないデンジは、元気そうな吉田に「寝てていいぜ、オレが後はやっておく」なんて艶っぽく笑われて、本当に全部の処理とか風呂とか至れり尽くせり世話をされて。そのまま抱きしめられてうとうと眠りにつこうとしていたところに、吉田の目も覚めるように玲瓏で、砂糖を吐きそうなほどに甘い声に遮られた。ワタシ眠いから明日にしろよ、なんて冷たく言っても、吉田は悪びれもせず笑っている。こうなったこの男に押し勝った試しがない。だから、花弁のように小さくて、血を塗ったように色っぽくて真っ赤な唇を動かす。吉田の節のある片方のゴツゴツした手に髪をすいてもらい、もう片方の手では体を優しく労わるように撫で回されて眠りについてしまいそうなデンジの声は本当に、ミルクを飲む子猫のようだった。
「・・・・・・ぁに」
こんなに優しくしてくれても、激しいのに甘い快楽を教え込まれても、今この瞬間こいつどうせろくなこと言わないんだろうなという気持ちだけは消えない。こういう時に限ってこの妖魔のように雄っぽくて、数学のように整った美しい男は、いつだってデンジの心を悪い方に掻き乱す。
「早川アキ、だっけ。好きだったんだろ」
ほら、やっぱり。お前、こんな世の中でピロートークと言われるような時間に、普通他の男の名前出す?そんなことを脳裏でひとりごちながらも、答えはしなかった。ただ、何も言わないのは癪だったのでその傷跡の残る筋肉のついた体に自分の体をくっつけて、ぐりぐりと肩に頭を押し付けてやったが。いてぇよなんて笑うその姿に、腹が立つ。全くこの師弟は、どうしてワタシが隠したいものを暴いていくんだろう。
「男の傷は男で忘れろ」なんて、そんなことを突然岸部に言われて。何のことかわからなくて目を瞬かせたら「早川アキ」と短く告げられて、心が鋭く、そして軋むように痛んだ。ずきずきずきずきと早鐘を打つ心臓を無意識に抑えると、自覚ねぇのかなんてため息を吐かれたのを、デンジはよく覚えている。
早川アキ。死んだ男。先輩だった男。パワーと一緒の、家族だった男。タバコは吸うし当たりは強いし優しくないし、口うるさいし。
でも、他の男よりも断然、優しかった。
アキはご飯を作ってくれて、そしてワタシの好きなものを覚えていてくれて、わけてくれる。寝れないと起こせば躊躇して、でも何度も頼めば言い訳するみたいに仕方ないからって言って、隣で寝てくれる。パワーとたくさん悪戯して困らせたら、怒りはしても、マキマさんからの命令だったとしても絶対、ワタシたちを見捨てないでいてくれる。アキとパワーのためだからなんて男に言われて体を明け渡そうとしたら迎えに来てくれて、男をはっ倒してくれて、そのまま連れて帰ってくれた。アキはすごく怒っていたけど、呆然とするワタシに言い淀んで、お前が嫌なことはしなくていいなんて言ってくれた。勉強の時に馬鹿だけど、馬鹿なりに頑張って答えをだしたら、生返事をしながらも頭を撫でてくれたことが、すごく嬉しかった。
過ごすようになって時間が経っているわけじゃないのに、アキとの思い出は瞼の裏に焼きついてしまって離れなかった。男なのに。大嫌いな男なのに。それなのに、無防備に肌を晒すデンジに彼が顔を真っ赤にしながら「服を着ろ」と怒鳴るのを、アキならどんなにひどいことされたっていいのになぁなんて思って、しまった。
あ、そっか、ワタシ、アキが好きだったんだ。
これがすきってことなんだ。
デンジはそのとき初めて泣いた。その柘榴のように深く赤い瞳からたくさんの涙をこぼした。いわば、はじめての恋の気づきと失恋と恋慕を向ける相手がもうすでにこの世にいないという全ての要素に打ちのめされたような、そんな喪失だった。家族としての喪失によるものではなく、デンジ個人の、とんでもなく身勝手な理由で、彼女はさめざめと泣いた。
それを見た岸部に「ほっとくと他の男に体を売って刺されそうで面倒だから」とか何とか言われて。それで紹介されたのが吉田ヒロフミという男だった。正直、死んだ家族同然の男への恋慕を自覚した女にすることじゃないと思う。そういうとこだぞ。
そのことは、よかったのかな、とは思う。吉田はその見た目に反して、存外優しい男だ。デンジが少しでも塞ぎ込んだ様子を見せれば気遣ってくれるし、別にいいのに外に連れ出していろんなもの食べさせてくれるし、セックスのときに優しいし気持ちいいことだけを教えてくれるし、なによりもちゃんと避妊してくれる。他にも色々あるけど、ともかく吉田は優しい、と思う。少なくともデンジが体を売ってきたどの男よりもずっと優しい。だから、吉田は嫌いじゃない。アキと一緒。でもアキと違うのはその優しさを向ける理由が、家族としてなのか、自分の女としてなのか。
不毛なことをしているな、というのは馬鹿なデンジでもわかっていた。こんなに恋人みたいに扱われたって、優しくされたって、どうせ心が埋まるわけでもない。なのにどうしたって寂しくて、辛くて、そういう時はポチタやナユタを抱きしめて気を紛らわせて。それでもああダメだってなったとき、この男はタイミングよく現れるのだ。だから頼ってしまう。
ねぇ吉田、何も聞かないでいてくれたのに、どうして今更聞いたの。どうして、そんな憎らしいのに愛しいって目でワタシを見るの。どうして、ワタシに構ってくれるの。
口を開けばそんな子供みたいな言葉が溢れてしまいそうだった。だから口を引き結んでいたのに、この悪夢みたいに綺麗な男は、いつもみたいにからから笑って、どろどろした何かを噛み殺したような上ずったような表情で女の瞳を覗き込むのが、飴細工のように溶けていた。艶かしく赤い唇から放たれる、一番大切な心を打ち明けるように掠れた声が脳髄を揺さぶるほど低くて、囚われてしまうほど甘くてくらくらする。
「なァ、デンジ。そんな男、早く忘れちまえよ」
「よしだ、」
「悪いことは言わねぇから、オレにしておけ。・・・・・・絶対、後悔させねぇから」
「よし、」
「オレを、選べ」
優しい男は、言葉まで優しかった。
そうして吉田はデンジの林檎のような唇を食んだ。やけに甘い感触がした。ふるりとみじろぎしたデンジの小さな白い顔を掴んで吉田が舌を絡めてくる。やめてほしいのに、もう眠いのに、覚え込んでしまった合図にまた、悦楽の渦に巻き込まれてしまう。それでも、心の中はいつまでも晴れないままだった。
(むりだよ、アキを忘れられないよ、よしだ)
全く恋愛なんて、ろくなもんじゃない。
