小屋

▼あまりにも
熱くなれるものがなくて昔のものに逃げる症候群

とりあえずここに投げ込む

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あ、駄目だこれ死んだ。



寒い。どころの騒ぎじゃない。

普通に歩いたって鼻も耳も痛いくらいの極寒の夜、そこで全身ずぶ濡れという惨憺たる有様とくれば、もう死は目の前と言えるだろう。


足元に触れる感触で鞄が沈んでいることを知る。
脚が届くのは幸いだが、そんなちっぽけな幸運じゃ誤魔化しきれない。


防水を謳った携帯も完全水没では恐らく駄目だろう。そもそも携帯が生きていたところでこの窮地を打開してくれるとは思えなかった。
どちらだろうが同じことだ。



周囲は闇、星明かりらしきものはあるが視界を確保してくれるほどのものではない。

普通に考えればこの凍っていないのが不思議なくらいの凶悪な冷たさの水から這い出て、服を脱ぎ捨てて身体に纏わりつく水分を拭くべきなのだろう。

勿論できるならそうしている。
けれど残念ながら服を乾かす術も身体を拭くタオルもない状態で実行してもただ全裸の凍死体が出来上がるだけだ。

僅かな空気の流れでなけなしの体温すら奪われて最早身体の感覚が消えていた。


冗談ではなく、割と深刻な危機だ。
現状私に残された選択肢は精々溺死か凍死かの二択というところ。

溺死体は汚いと聞いたことがある、出来れば後者が良いのだけれど、この胸ほどの高さの果てが見えない水溜まりを歩く体力も気力もない。


…二択ですらなかった、溺死一択。


自分でも制御出来ない身体の震えで水面が揺れる音を聞きながら、ぶよぶよに膨れ上がった自分の死体が脳裏を過る。


あぁ、寒い上に苦しくて、その上死体は汚いなんてとんだ三重苦。



「――!」


…?


何かが聞こえた気がした。

意味のある言葉としては聞き取れなかったが、動物の鳴き声の類ではない。


人間、だ。



「っ……」


助けて。と、叫べば良かった。そうしたかった。

けれど実際は歯がガチガチと鳴り続けるだけで唇を動かすことも出来ない。


ぼんやりと赤い灯が揺らめくのが見えたが、もうあまり思考がはっきりしない。



寒い、さむい、もうだめ、


だめ。  死、   ぬ   



― ばしゃん、と音がした。


覚えているのはそこまで。





*     *     *




「……ん、」



手を動かすと、なにか柔らかいものが触れる。あったかい、柔らかい。

本能のままにそれに潜り込みかけたところで、急速に意識が覚醒した。


「― っ!!!」



― ベッド、枕、見覚えのない服。

状況判断が付かなかった。
もう少し情報が欲しくて何とか重い身体を起こすと、映ったのはいつかTVで見た高級ホテルスイートルームよりも更に豪華な西洋風の部屋の景色。

…駄目、もう理解を超えた。
自分の思考能力のキャパシティの狭さを嘆きたい。


「…生きて、る、のか」


バクバクと逸る心臓の辺りを抑えながら、何とか最低限の現状認識に辿り着く。

天国ということはないのだろう。
そもそも自分が天国に行ける人間だとは思っていない。
とはいえ地獄にしてはもっと妙だから、多分きっとまだ私は生きているらしい。

とりあえず両手を広げて見下ろした。
…感覚はある、動くし見た目もいつも通りだ。
凍傷くらいは覚悟していたが、特に痛みもなかった。

漸く実感が湧いてきて、安堵からつい独り言が漏れる。

「……絶っ対死んだ、と思った」

今はもうない筈の寒気が全身を巡って、思わず自分の肩を抱き込む。

死んだと思った、死ぬ筈だった。
きっと運良くあの時見えた灯の持ち主が私に気付いたのだろう。

手厚く介抱してくれただろうその人には感謝しても足りない。


「うん、実際危なかったよ。体温が危険ラインから戻るまで二時間はかかったからね」
「っ、」


― ふと、背後から響く溜息交じりの声。

独り言に予想外の返事が返ってきて、驚きで反射的に肩が揺れる。

「……あ、なたは」
「はじめまして。安心したよ、目が覚めたみたいで」

恐る恐る首を動かすと、扉の辺りでへらりと気の抜ける笑顔を浮かべた青年と目が合った。

手に何か器のようなものを持って近づいてくる彼に、不躾とは思いつつ訝し気な視線を隠せない。
…若い。どう見ても年下、下手をすれば未成年じゃないだろうか。

サイドテーブルにかたりと手のものを置いて、彼はからりと笑う。

「いやごめんね、目が覚めてるって知ってれば声くらいかけたんだけど。女性の寝室に勝手に入るのはマナー違反だけど、まぁ容体を見にきたってことで勘弁してほしいな」
「…貴方が、助けて下さったんですか?」
「ん?いや僕じゃない。傍にはいたけどね。君を見つけたのは僕の友人だし、実際に湖から引き揚げたのは友人の部下。処置をしたのはまた別の部下だし、…まぁ容体のチェックは交代でしてたけどね」
「部下…?」
「友人のね」

…違和感しかない。

どう見ても大学生そこそこの彼に部下を持つ友人がいるとはどうにも考えづらい。
彼の友人とやらが一回り以上年上だというのなら話は別だが。

ますます彼に向ける視線に不審が滲んでしまって、彼はそれを見透かしたようにまたからりと笑った。

緩い。けど、なんとなく油断できない。


「まぁ詳しい話は後からにしよう。君のことを心配してる奴が山ほどいるから、とりあえず報告してくるよ。あと一応メディカルチェックも、もう大丈夫だとは思うけど」
「………ありがとう、ございます」
「うん。じゃ、そこの置いとくから身体を拭きたければ使って。あとお姉さんの服は一番上の棚に入れてある筈だから」
「…重ね重ねありがとうございます」
「いえいえ」


ひらり。手を振って扉の外へ消えていく彼を見送って、ベッドサイドテーブルに目を移す。

柔く湯気の上がるお湯と、質のよさそうな布。
…私が目を覚ましてなかったら彼が身体を拭くつもりだったのだろうか。余り考えたくはない。

特に悪い人間という感じは受けなかったが、妙に疲れる。


「……着替えよ」


なんかこう、とりあえず、今は考えるのを止めておこう。

どうせ考えても処理し切れないし、きっと先程の彼の話を聞いてからじゃないと情報が絶望的に足りないのだから。


今はただ、暖かいベッドと命ある喜びを感謝するだけにしておこう。と、言い聞かせた。



20180125

2018/01/29

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