半ば自棄です


「おや、来たんですか」


何処か熱に浮かされたように蕩けた瞳で抜け抜けとそう言い放った彼女を見下ろしながら、彼は部屋でしか掛ける事のない眼鏡がずり落ちるのを直す気力もなく溜息を溢した。


どうしてやろうかこの阿呆女。

言うべき事と言いたい事が溢れてそのまま口を開きかけたが、見下ろす彼女を一通り眺めた彼はそれを一度堪える。
大層不機嫌に眉間に皺を刻みつつ彼女の肩を押して扉を閉めると、彼はそのまま上機嫌にへらりと笑う彼女を摘み上げるように持ち上げてその片手に抱え込んだ。

その体格差から子供でも抱え上げたかのように軽々と片腕で支え、靴を脱いで無言のまま部屋へと進む。
無断で自室へと上がり込む彼の行動に異を唱えるでもなく、抱え込まれたまま楽しそうに自分の髪を弄っている彼女には最早呆れるしかなかった。


短いソファへの旅路を終え、彼は些か低い声色で囁く。

「…おい、降りろ」
「自分で抱えた癖に勝手ですね」
「いいから降りろ。平日っから酒たぁ良いご身分だな酔っ払い」
「ゼミのOBさんからワイン頂いたんですもん。すっごく美味しかったですよー、飲みたかったですか?残念ですがもう無いんですよねぇ」
「…おぅ酔っ払い、水持ってきてやっからそこ退け」

ソファに到着しても尚彼の膝から動かない彼女に、彼は軽い頭痛を覚える。

この状況は宜しくない。具体的に何がと言えば、まぁ推して知るべしと言うところだ。
止めろそこを退け擦り寄るな。と、言ったところで上機嫌な酔っ払いには無駄なのだろうが。

「ビールと酎ハイならありますよ、飲みます?」
「飲まねぇよ阿呆。いいから退け。…いい加減犯すぞ」
「それだけ意味のない脅しも中々無いですねぇ」

このクソ女。ひくりと彼の頬が引き攣る。


しかしからからと笑う彼女の言葉通り、情けない事だが自分はこの上無い据え膳である現状にも行動を起こす事は出来ないだろう。
それは酒に頼って行為に及びたくはないという聞こえの良い理由も無くは無かったが、それ以前に、素面であろうが今までただの一度もそういう行為に出たことがないというもっと基本的な問題であった。

欲がない訳ではない、けれどどこか怖くて踏み出せない。
それが俗にいうヘタレというものであることは自身で承知しているが、当の昔に居直った彼にはそんな罵り文句何処吹く風なのである。

付き合って五年以上。未だにキス止まり。あぁそうだヘタレだそれの何が悪い轢き殺すぞクソが。
…と、友人か後輩がいたのなら八つ当たりしていたかもしれない。


そんなお粗末な脅し文句が予想通り功を奏さなかったことに舌打ちし、彼は機嫌良く鼻唄を溢す膝の上の生き物を見下ろして思考を巡らせた。

普段気丈で飄々としている彼女が、酒に酔うと多少スキンシップが過剰になるのはお決まりのこと。
大して強くもない癖に飲みたがり、そしてその度何故か自分が面倒を見ることになるのだから迷惑甚だしい。だからといって、他の男に任せる気など更々ないのだが。

いつもならその内酔いが醒めるか、飽きてソファに転がる筈だ。さて、今回はどのくらい耐えなければならないのか。
そう嘆きにも似た思考に溜息を溢していると、膝の上の彼女がもぞもぞと動き、そして自分の腕を掴んで何やら始めている。

「…おい」
「はーい」
「何してんだ人の腕で」
「安定を求めてるんです」
「シートベルト代わりにすんじゃねぇよ轢くぞ」

彼の腕を掴み自分の前でクロスさせて、態々自分の身体を締め付ける形で固定し始める彼女。
まぁ体制だけ見れば彼が抱きしめている形になるのだが、彼自身は全く腕に力を込めていない為彼女の手がそれを支えている不可思議な図である。

「ちゃんと支えて下さいよ」
「うるせぇよ退けっつってんのに何で支えにゃなんねーんだよ」
「はーやーくー」
「ぶっ殺すぞ酔っ払い」

と、言いつつ彼女がごねるように身体を震わせると結局従ってしまう辺り力関係は明白で。
渋々細い腹部の辺りで固定すれば、運動もそこそこに甘いものを食べ歩いている人間とは思えないほど華奢な身体は容易に彼の腕に収まった。

…まさかこの状態で酔いが醒めるまでこいつの戯言に付き合わなきゃならんのか。
流石の彼もじりじりと理性の紐が摩耗してゆくのを肌で感じているだけに、この状況は酷い仕打ちであった。


もう少ししたら有無を言わず退かそう。

そう決意して、目線を落とした矢先だった。

「……………よぉし、てめぇ絶対後で轢いて刺すかんなクソ女…!」

彼より二回りでは利かない程に小さな彼女に、すっぽりと自身を包み込む程よい発熱体はさぞかし心地良かったのであろう。
完全に身体を預けた状態で小さく寝息を溢す酔っ払いに、彼はがしがしと頭を掻きむしって言い様のない感情を何とか騒音なく抑え込むことに成功した。

「っ………」

静かな空間、二人きり、一応恋人、酔っ払いで寝こけた女と長い間セルフお預け状態にある男。

駄目だ。無理だ。流石の俺もこれは無理。

そう怒りとも嘆きとも感情に思わず涙を滲ませながら、彼は次に取るべき行動を即座に決定してポケットに突っ込んだままの最終兵器に手を伸ばした。

コールが三回と半分で、機械越しに響くのは喧しくも腹立たしい後輩の声。
向こうの言葉を待たずに、彼はコールが切れた瞬間に齧り付く様に早口で吐き捨てる。

― 「今すぐ緑間と酒とつまみ買い込んでクソ女の部屋来い五分で来ないと轢き殺す」







さてさて、それから暫く経った彼の状態はと言えば。


「みwwwやじさwwwwwあんな電話寄越すから何事かと思えばwwwww」
「うるせぇさっさと酒寄越せ当然お前らも付き合うよなぁ?あ"??」
「…何故この状態で俺達を呼ぶのか理解出来んのだよ」
「なー、どう考えても据え膳なのに」
「据え膳だからに決まってんだろクソが殺すぞ」
「俺らが監視してないと暴走しちゃいそうだし酒でも飲まないとやってらんねーってことですよねー。分かってますって!」
「……その真摯さは感心しますが、流石に、…」
「うるせぇよ皆まで言うなお前に言われると色々複雑だから」


どうやらすっかり人間椅子がお気に召してしまったらしいおねむの酔っ払いを膝に抱えたまま、後輩を巻き込んでのヤケ酒は深夜まで続いた。


20140504