新入部員のキセキ君


噂と言うのは宛にならない。全く信用に値しない、とまでは言わないが、精々話半分に聞いておく程度が相応しいものである。
少なくとも彼女はそう考えていたし、特に尾ひれのつきやすい話題に関しては殊更まともに取り合うことはしなかった。

けれど今回、高校生活二度目の春における出会いに関しては、どうやら例外を認めざるを得ないらしい。


少なくとも彼女の想像しうる範囲を遥かに超えた、名実ともに“天才”と呼ぶに相応しい人間が現れてしまったのだから。


「うそ、だろ…」

呟いたのは一体誰だったろうか。けれどその零れた言葉に反応できる余裕を持つ者は残念ながらこの場には存在しない。
目の醒めるような鮮やかな翡翠を揺らして、呼吸すら止めるような美しい放物線を描いたシュートを放つその人に、噂に違わぬ天才に見惚れる以外の行動を取れなかったのだ。

事もなげに踵を返して、ボールの行く末を見守ることなく自陣へ戻る大きな背中をコート外で見つめながら、彼女は内心で早々に白旗を上げる。

噂通り、いや寧ろどんな壮大な噂話を持ってしても表現しきれない程の、見る者に畏怖すら抱かせる存在がこの世にはあるらしい。
その圧倒的な強さに誰もが言葉を失う中で、彼女は手元のスコアシートを見下ろして苦笑する。

「えげつないなぁ、これは…」

この時期恒例の、新入生の実力試し。様々な形式で身体能力の計測を繰り返し、最後に組まれる新入生同士のミニゲーム。
そのスコアと個々人の備考を記録する任にあった彼女は、自身が付けた筈なのに明らかに間違っているのではと疑いたくなるスコアに思わず小さくぼやきをもらした。


これは、暫く荒れるだろうなぁ。

少し離れた場所で盛大に眉を顰めてゲームを見守る上級生の姿を横目に、彼女は小さく肩を竦めて息を溢した。









「どう思う?」
「っ…?」

やけに緊迫した、決して居心地の良くない新入部員加入第一日目が終わり。
お決まりの挨拶や顔合わせと片付けを済ませ、大半の部員が帰路につく中で一人ノートを見下ろしていた茉莉はふいに背後から掛けられた声に僅かに肩を震わせた。

振り返ればそこにはいつも通り読めない表情をした監督が此方を見下ろしていて、彼女は驚きから僅かに早まった鼓動を鎮めつつ首を傾げる。

「お疲れ様です監督。…ええと、どういう意味でしょう」
「新入部員。今年は結構粒揃いだと思うけど、やっぱりあいつが目立ちすぎて他が委縮しちゃってたねぇ」
「…はぁ、そうですね。でもまぁ、初日は仕方ないんじゃないですかね。今後も続くようなら考え物ですが」
「ま、キセキの世代のプレーを間近に見せられれば仕方ないか。上級生も緑間に対しては神経質になってるみたいだったし」
「そうですねぇ…」

顎に手を添えながら淡々と続ける中谷を見上げながら、茉莉の心境は疑問符で溢れていた。
何故、この人は自分にこんな話を振ってくるのだろう。勿論マネージャーではあるが、それは自分だけではないし三年にも少ないながら有能なマネージャーがいるというのに。

そんな疑問を見透かしたのか、中谷はうーんと唸りつつ彼女から少し離れた場所に腰を下ろして言う。

「で、藤宮はどう思う?緑間」
「ピンポイントですね。私、監督に意見申立て出来る程に突出したマネジメント能力は持ち合わせてないんですが」
「いいのいいの、藤宮の意見が聞きたくてね。別にプレーに関してのことじゃなくていいから」
「…と仰いますと、彼の人柄と周囲への影響に関してってことでしょうかね」
「こういうのはお前に聞くのが一番参考になりそうだから。今回は大坪すら冷静さを欠いてるから特にね」
「はは、選手同士では難しいでしょうね。外野だから客観視できるだけの話ですよ。…直感でお応えして宜しいんですよね?」

じっと見つめてくる中谷の沈黙を肯定と受け取って、茉莉は思案するように視線を虚空へ漂わせる。


本日をもってこの部のメンバーとなった緑間真太郎、十年に一人と呼ばれる天才シューターであり“キセキの世代”と冠される彼はあらゆる意味で常人を越えていた。

その実力は言うまでもないことだが、朝番組の占いコーナーを盲信しているだとか、とんでもなく我の強い性格だとか、まぁ所謂一般の感覚を持つ人間には理解しがたい行動が多いのだ。
たった数時間の部活一日目だけでそれがありありと窺えたのだから、それを受け入れがたいと感じる人間は今後を思うとさぞかし眩暈がしたことだろう。


だが、先程中谷に言った通り自分は外野の人間である。
そのため私情によって適切な観察眼を失う事態は避けられていて、そしてその上で彼を評価するならば。

「…酷く分かりにくいですが、根は誰よりも真摯な性格ですよきっと。天才というのは間違いないんでしょうが、それ以上に努力の上に築かれた才能であることはその内皆も分かる筈です」
「とすると、ある程度楽観視していいって考えてるのかな」
「まぁ…でも皆が理解する前にチームの不和で負けたら意味無いですからね。早々に仲介役というか、手綱を握れる人間が出てくればいいんですが、」

まぁ相当難しいでしょうね。という続きは口にはしなかった。
直感とはいえ無責任が過ぎる発言だという自覚があったし、何より言葉にせずとも中谷には伝わっているだろうと判断した。


緑間の傍若無人は一見ただの我儘だ。だが、まぁ一部は本当にその通りなのだが、多くは他人にも自己にも一切妥協を許さないという信念の元に出てくる要望なのだ。
恐らく今日一日でそれを察知出来たのは茉莉だけであろう。そう判断したからこそ中谷は意見を彼女に求めた。

そうして返った答えは自身の結論とほぼ一致したものであり、彼は再び思案するように顎に手を添えて息を溢す。

「んー…藤宮が選手だったらねぇ。適任だったのになぁ」
「マネージャーが必要以上にしゃしゃり出ると碌な事にはならないですからねぇ、残念ながら」
「お前ぐらい寛大で観察力があって緑間を扱えそうな奴ねぇ…」
「少なくとも二年以上には該当者無しですね、大坪先輩で駄目なんですから。あとは新入部員の中にそんな有望株が隠れていることを願うのみですが」
「…リスクの高い買い物だったかな」

会話しながら、茉莉の言う有望株の存在を絶望的だと判断したのか中谷は僅かに眉間を寄せて深く溜息を吐いた。

監督として緑間獲得の判断を下したのは彼だ。上級生の不満を承知の上で、それでもなお勝つためにと緑間を中心としたチーム構成に舵を切った。
けれど、その断行故に、この問題を最も気に掛けているのは中谷自身なのだろう。

普段決して見せない迷いを滲ませた中谷の心境を察して、茉莉は僅かに笑みを描いて明るい声色で返す。

「何言ってるんですか、あの才能で驕らず怠けず努力も惜しまず。それだけで奇跡的ですよ、あれで性格まで素直だったら完璧すぎて逆に危ういじゃないですか。私としては最高のエースを獲得したと思いますよ」
「そう大きく構えてくれるのは助かるね。皆がお前くらい懐が深いと監督としては非常に有難いんだけど」
「はは、恐縮です」

からからと笑いつつそう返した彼女を見下ろしながら、中谷は僅かに口の端を上げて笑みを溢す。

感情を御し、常に大局的な見地を失わないこの少女の冷静さと寛大さを中谷は買っていた。
マネージャーとしての仕事も申し分ないが、何事にも賢明で的確な答えを返し悠然と構える彼女の存在はもっと根本的な部分でチームを支えている。
類を見ないその性格は、彼女の持つ天性の才と呼んでも差し支えないだろう。

その点において、今後暫く続くであろう不穏な部内の雰囲気も彼女がいるということだけで少々気を楽に構えていられる。それが中谷には有難かった。

そんな監督の胸中を知る由もなく、茉莉は手にしていた新入生のデータを記録したノートを閉じて苦く笑う。

「…まぁなんにせよ、当面の間は両者の不満を上手くバランスが取れるような措置を取る必要がありますね」
「そうだなぁ、上級生ばかりに我慢させるわけにもいかないし」
「かといって緑間君も皆と同じ枠に収めようとしても従ってくれる器ではなさそうですし、あの超越した才能に見合う程度には自由にさせてあげても良いとは思うんですけどね」
「…ある程度許容しつつ制限を設ける、か。なるほどね」

反芻するようにぽつりと呟いて、暫しの沈黙の後中谷は立ち上がる。
そして一瞬だけ茉莉の頭に手を添えて、もう終わりだというようにノートを彼女から掬い取る。

「さ、もう十分だ。付き合せて悪かったね、もう下校時刻は過ぎてるから早く帰んなさい」
「はぁ、すみません適当なお答えしか出来ず」
「いや、参考になったよ。まぁ藤宮の言う有望株とやらが出てくるのを期待するしかないね」
「出ればいいですけどねぇ。…で、監督ノート」
「駄目、持ち帰りは許可しないよ。お前どうせ明日までに全員のデータ整理して強化ポイントまとめてくるつもりなんでしょ、私の仕事を横取りしない」
「楽になるんですからやらせておけばいいのに…」
「お前に頼り過ぎたら監督として立つ瀬がないでしょ」


ホント、この子くらいの有望株が潜んでないものかねぇ。

そう胸中で呟いた中谷は、そう遠くない内に茉莉に勝るとも劣らない“有望株”が新入部員の中に紛れていることを知ることとなるのだが、今はただ願う他なかった。


20140415


ただの監督夢じゃねぇか