序章


ただ漠然と、これが夢でないことを悟った。

夢だったら良いなどと願う必要がなかったからなのかもしれない。
もがこうとする気力もなく、ただ腕を捩じ上げ痛む縄の感触だけが意識の中にある。


目の前で粗末な服に身を纏った男達が声を潜めるように何事かを囁き合った。
そんなことをせずともどうせ内容など分からないのだから好きに話せば良い。

けれどそれを伝えてやる気力も、術もない。
故に彼女はぐらりと揺れる身体をそのまま壁に凭れ掛け、ずるりと全身の力を抜いた。


どれ程の時が過ぎたのか。

彼女が正常な状態であれば、あるいは長く物を入れていない胃の悲鳴からある程度推察できたのかもしれない。
けれどその最低限の感覚すら彼女の身体は感じ取れなくなってしまっていた。

それほどに彼女からは喪われてしまっていた。気力も、体力も、何もかも。
世界を映すことすら億劫になって、彼女は波に揺れる船床に横たわって目を伏せる。



ふと、耳を突くような奇怪な音と轟音が響いた。

目の前の男達は意味の分からない怒号を上げて緊迫した空気が船内に満ちたが、それでもなお彼女は目を開くことをしなかった。
もうどうでもいいのだ。このまま命を失っても、あるいは助かっても、同じこと。


身体が放り出され、宙に浮いた感覚が鈍い思考を襲う。
しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐに全身に纏わりつく冷たく重いそれに変わる。


ゆっくりと身体が沈む。
ある程度沈んだところで激しかった波はなくなり、真に冷たく静かな闇へ辿り着いた。
呼吸を失ったが、もがくこともない身体には苦悶より意識の白濁が先に来た。

腕も脚も自由は利かない。けれど例え縄がなくとも同じことだろう。
訪れる死の足音に、彼女は呆気ないほどに従順に意識を委ねた。

あぁ、愛しい御方。
私もやっと、漸く貴方のお傍に参ります。



― 某年二月末日、誰に知られることもなくひそかに、赤海で一隻の船が深海へと消える。




20150917