人形と道標 2



表面上の穏やかな笑みはそのままに、彼は酷く機嫌良く胸の奥が跳ねるのを感じていた。

あの頑迷で美しい女との出会いで向こう暫くは退屈しないであろうことを予感している、例え兄に暫く放浪禁止令を敷かれたところで暇を持て余すことはないだろう。
何より、あの娘の仕草や言葉から感じ取れる聡明さは彼がこれほど心を躍らせるほどには心地良いものだったのだ。

屡、女は国を傾けるという。
この十二国の歴史でも女に溺れた昏君の逸話は掃いて捨てるほど存在する。

そしてその国を揺るがす女が皆目を見張るほどの玲瓏玉のような美女かといえば、そうではないのだ。彼女達が須らく天から与えられたのは、惚れ惚れするような聡明さである。
それが悪であれ善であれ、聡明な女は人を魅了する。
そしてその資質は、あの髪の一筋すら美で創り込まれたかのような娘にも確かに与えられているのだろう。
…恐ろしいことに。

美しいだけの人形ならば興を惹かれることもなかったのだけれど。
利広は苦笑気味に独り笑みを零す。熱を持った蜜蝋の瞳は恐ろしい程惹き込まれる輝きを燈していた、彼ですら一瞬息を呑むほど。

まだ聞きたいことがあると追い縋る彼女の蜜蝋が真っ直ぐに自分を見つめてくるのを、適当な理由を付けてさっさと部屋を出た。
一瞬とはいえ囚われかけてしまったことが可笑しくて、ほんの少し癪で。
どうやら父の言う通り自分もまだまだ青二才らしい。

「…しかし、長生きはするものだな」

終わりのない生など退屈だとぼやいては家族に窘められることも屡の彼だが、今回ばかりはただ零すような感想としてその言葉が滑り出た。
退屈を紛らわせるために各国方々渡り歩いているというのに、よもや故国の、しかも大層近いところで、久しく逢っていない愉快なものと巡り合うことになろうとは。
灯台下暗し、とはよく言ったもので。

堪え切れずくつくつと小さく笑みを零して磨かれた走廊を進んでいると、不意に背後から投げられた声に足を止めることとなる。
振り返れば、大層不機嫌そうに眉を顰めた痩身の男がじとりと利広を睨みつけていた。

あぁ、そういえば忘れるところだった。
暢気にもそう胸中で零して肩を竦めつつ、おくびにも出さず彼はにこりと微笑んでみせる。

「あぁ江達、捜したよ」
「どの口で言ってんだよ大法螺吹きめが」

どうやら男には利広の仮面は通用しないらしい。あっさりと切り捨てられて、彼はまたくすくすと笑みを零す。

「まいった、すっかり筒抜けらしい。すまない、少し道草を食ってしまってね。思いがけず綺麗な花が咲いていたものだから」
「いくらあんたでも、璃桜…朔良に手出したら追い出すぞ」
「分かってるよ江達、だからそんな眉を吊り上げないでくれ。ただでさえ良くない人相が更に恐ろしいことになっているよ」
「喧しい」

そこまで済ますと、江達はぐしゃりと髪をかき乱して大きく溜息を吐いた。
どうやら先ほどまでのやりとりを何処かで見ていたらしい、実の子のように可愛がっている美しい娘に腐れ縁の不届者がちょっかいを出すのを黙って見守った彼の心境は如何ばかりだったのだろう。
そう思うと自然また利広の頬に笑みが零れる。

「随分大事にしているようだね、“奇跡の人形”を」
「その巫山戯た名であの子を呼ぶな、ぶっ飛ばすぞ」
「あぁ、どうやら見当違いも甚だしい謳い名らしい。話して良く分かったよ」
「…お前さんのそういうとこが俺ぁガキの頃から嫌いだよ」

小さく舌打ちをして悪態を吐く江達に、利広は可笑しそうに目を細める。

「懐かしいな、君の祖父も似たようなことを言っていたよ」
「…うちの爺さんとあんたはそう歳は変わらんかったろうが」
「そうだね。彼ほどの悪友は永いこの先でも得られるかどうか。私がこうなってしまってからも態度を変えなかったのは彼くらいのものだ」
「おい、爺の昔話につき合わせる気なら追い出すぞ」
「酷いな、昔愛しの妻を浚うのに手を貸した恩人だというのに」

喧しい。苛立ったように会話を切り捨てた江達は普段の彼には珍しいことに調子を狂わされているようだった。
飄々として気の良い主の珍しい様に、通りすがる使用人たちはその原因である利広を不可思議そうな目で見つめていく。

今でこそ飄々と名門宿の主人を務める偉丈夫たる江達であるが、利広からすれば躍起になって噛みつく子供と大差はない。
まだ自分の腰ほどにも届かない時分から知っている相手で、どんな悪態を吐かれてもそれは幼子の戯れのようなものなのだ。本人はそれが大層気に食わないらしいが。

「…あの子は、帰りたがってるだろ」

先程までの噛みつくような勢いを急に潜めて、江達が零すようにぼつりと呟いた。
利広の言葉は理解できても、先ほど彼女が何を話していたのか江達には理解できない。
ゆるりと首を動かして肯定を返すと、江達は弾かれたように飛びついて利広の襟元を強く締め上げた。
射殺さんばかりの眼光で、江達は絞り出すように利広を責める。

「っなんであんな大法螺を吹き込んだ!例え運良く仙になったって、っ…蓬莱になんか」
「あぁ、そうだろうね」
「あの子の気持ちを踏み躙って、何がしたい。あの子はもう忘れた方が良いんだ、心を病ませるような蓬莱に囚われ続けるより、忘れて此方で生きる方が幸せだろう!」
「…その通り、君が正しいよ江達。彼女がその選択をすることができるなら」
「………」

淡々と述べられた利広の言葉に、江達は急激に覇気を削がれた様にずるりと腕を下ろした。
まるで絶対に不可能であるかのように、不変の真実であるかのような利広の口調に、江達は大きく溜息を零す。

「…あの子は、蓬莱で何があったが話したか」
「いや。ただでさえ危うい均衡で何とか現状を保っている、あまり深くは聞けなかった」
「そうか…」
「ただ、そうだな、…確かに彼女は故国への執念だけで生を繋ぎとめているんだろう。今その道が閉ざされていることを知れば、容易く生を投げ出すくらいに」
「…嘘も方便、って言いたいのか」
「私がもう少しこの顛末を楽しみたいというのが大きなところだけれどね」
「この糞野郎」

目の前の人でなし ―罵倒のつもりだが残念ながら正しい意味で彼は人ではない― は、どうやらあの可愛い娘を次の退屈しのぎに定めたようだった。
如何ともしがたい腹立ちが込み上げつつも、江達はこの男の言葉で彼女が人間らしい反応を取り戻したことだけは認めざるを得ない。

例え偽りであったとしても、希望を示し彼女に生きる意味を与えたのだ。
言葉も知恵を知らぬ自分では決して差し出せなかった救いの手は、確かにこの男から彼女に伸ばされた。

諦めたようにがくりと肩の力を抜きながら、江達は利広をゆるゆると見下ろす。

「…あの子に色々教えてやってくれ、仙を目指すならどの道にしろ読み書きが出来なきゃ話にならん」
「おや、いいのか。私なんかに大切な娘を任せて」
「世界を教えてやってほしい、蓬莱なんか忘れるくらいに。それにゃあんたみたいな風来坊気取りのどら息子が適任だろう」
「努力はしよう。確約はしないけれど」

あの娘に、蓬莱以外の世界のことなど入り込む余地があるだろうか。…そんな明白な問答はお互い無視を決め込んだ。
ほんの少し悲しみに揺れる江達の鋭い瞳を見上げながら、利広は暢気そうな笑みを浮かべて見せる。

「さて、旧友の顔も見たことだし茶を一杯戴いてから懐かしの家族の元へ帰ろうかな」
「お前に出す茶はないぞ」
「そう言うな、美味い花茶を持ってきているんだ。春玉嬢もご一緒にどうかな、彼女の好物だったと記憶しているが」
「……一杯飲んだらすぐ帰れよ」
「相変わらずの愛妻家だな」
「喧しい」


朔良。
その本当の名を、璃桜と名付けた可愛い娘がいつか自分にも教えてくれる日が来るだろうか。
江達はじわりと滲む寂しさと、目の前の男への見当違いな嫉妬を抑え込んでそっと目を伏せた。



20160410