人形と道標 3


早鐘を打つかのように忙しなかった鼓動がじわりと落ち着き始めた頃、彼女は深く深く息を零す。

また来ると、それだけを残して早々に姿を消した男。けれどそれをさほど残念とは思わなかった。
聞きたいことは山とある、けれど、あまりに多すぎて今は上手く言葉として紡げない。
何より一番重要なことを確認した後では他のことなど些事に等しく、痛い程に脈打つ鼓動を圧してまで口にする気概は湧いてこなかったのだ。


術はある、あの懐かしく残酷な海へ戻る術。例えそれが自分の手に届かない術だとしても、道は示された。それだけで十分だ。

彼女は利広の胸中など露程も察してはいなかったが、それでも自分に示された道が途方もなく困難な夢物語であることは自然理解していた。
或いは仙籍に入った者なら― 利広が示したのはそこまでだ。
彼が頭の良い人物であることは容易に察しがついた、だからこそ決して偽りは口にしない。
つまり、彼が示した範囲以上の事を信じるのは愚かしいことなのだろう。

自分の生を全て尽しても、あの海を見ることは二度と叶わないかもしれない。

けれど…実際を言えば、朔良にとってそれはさほど大きな絶望とは成り得なかった。
彼女が欲しているのは真実“郷里に還る”ことではない、その生が尽きる最後の瞬間まで“小松の民”であることだ。
あの海へ還るということだけを目的とした生を歩むことは自分にも許される。小松の民であり続けることができる。

それはきっと誰にも理解することはできない、朔良だけの理だった。誰に理解されずとも、朔良だけは貫かなくてはならぬ絶対の理だ。
生きることに許しなどいらないと利広は言った。けれど朔良はその限りではない。

小松の全ての民と、唯一無二の主の屍の上に辛うじて繋ぎ止められた命。それが小松を忘れてのうのうと生きることが赦されるはずもない。
― 他の誰でもなく、朔良が朔良を赦すための酷く滑稽な理。


自分にはもう、これしかないのだ。
自嘲気味に零した笑みにつられるように、瞳から滴が流れ落ちる。

利広と出会ったことで、彼女は何かしらの箍が外れたような感覚を覚えていた。
此方へ流されて以来心と共に凍りついたように動かなかった表情が、今は朔良の意志を離れて感情のままに表情を象る。

あぁ、これが安堵だ。久しく触れていない感情だったので定かではないが、彼女はそう判断する。状況は何一つ動いていない、けれどそれでも彼女は確かに安堵したのだ。
行く宛のない暗闇の中で微温湯に徐々に溶かされる恐怖より、星より遠く微かな光を見つめながら歩き続ける苦難の方がずっとましに思えた。


ぽつぽつと袖を濡らす滴をそのままに、彼女はゆるりと懐に手を差し込む。
指先に触れた感触にそのまま引き出せば、現れるのはそこかしこが解れて色褪せた襤褸のような布。

蓬莱にいる頃、彼女の日々はこれを眺めることが大半を占めていた。けれど此方へ流れてからは懐にしまったまま一度として取り出すことはなかった。
もう小松の民でないかもしれない自分が、小松を守る為にその身を犠牲にした主君の追想に縋るなど恐ろしかったのだ。
恐ろしく自分本位で、浅ましく、穢れた行為に思えてならなかった。けれど。

…今なら、再びこれに縋ることが赦されるだろうか。
草臥れた襤褸布が酷く愛おしいものであるかのように、彼女はそっと目を伏せて頬を寄せる。

小松の最期の主、私の唯一の主君。
例え郷里へ戻ることが叶わなくとも、最後まで貴方様の民であり続けることが出来ると知れた今ならば。この泡沫のように儚く優しい追憶に縋って自身を慰めることを…貴方様はお許しくださいますでしょうか。

久々に触れたそれはもう縒りが解けて辛うじて布としての形を保っているようなものだった。嘗ては鮮やかな藍色で、あの精悍な主君に酷く似合っていたのだけれど。
母とはぐれた挙げ句足を挫いて途方に暮れていた私に、まだ真新しく綺麗だった袖を何の躊躇いもなく差し出して力強く頭を撫でてくださった…最初で最後の、あの御方とお言葉を交わした愛おしい記憶。

溢れる滴が止まることはなかったが、彼女は酷く穏やかにくすくすと笑みを零していた。
あの日からずっと私を救ってくれた、精悍で慈悲深い若君。この血に汚れたちっぽけな命でも、果てるその瞬間まで貴方様のものであり続けることが出来るのなら。


「…幸せね、私」


きっと天にいらっしゃるあの御方は私を覚えていないだろうけれど、いつか再びお会いできたその時は。生涯貴方様のものであり続けたことを少しでも褒めて下さるかしら。


酷く幸せそうに、けれど酷く空虚な笑みで、朔良は暫くその布を胸に掻き抱いて動かなかった。



2016.4.30