人形と道標 4



何で私なのかしら。
むすりとその柔らかな白い頬を不機嫌に膨らませながら、少女は些か足取り重く廊下を進んでいた。

すれ違った年配の厩係の男が揶揄うように手を振ったのを、思い切り舌を出して見送る。
そして数歩も歩かぬうちに背後からは厨場の女衆の揶揄交じりの声援が飛んで少女の背中にぶつかった。

もう、皆他人事だからって楽しんで!
すっかり膨れ面で足音荒く進み続けると、すぐに目的の戸の前に辿り着いてしまう。
その戸の前で立ち止まるが、すぐに手を掛けることはせず少女は深く呼吸を繰り返して心を落ち着かせようと努めた

数回目の呼吸を終えると、彼女はゆっくりと口を開いて少し大きく声を出す。

「失礼致します、朱嘉です。お茶をお持ち致しました」
「あぁ、どうぞ」

返ったのは低く聞き心地の良い男の声。それがまた少女を僅かに苛立たせる。
膨れ面が戻りそうなのをなんとか抑えながら戸を開いて身を滑り込ませると、椅子に腰かけた男が柔和な笑みで彼女を労う。

「有難う、そこへ置いてくれるかい。もう少しで切りの良いところまで行きそうだから」
「………はい」

男の言葉に緩慢に答えつつ、少女の瞳は男ではなくその肩越しに見える瑠璃の絹糸に注がれていた。
熱心に何事かを書いているその女性は彼女が姉と慕う人であり、少し前までその玲瓏たる美しさと感情を落としたかのように動かない表情から奇跡の人形という名で隆洽中を賑わわせた女であるのだが。

「有難う朱嘉、もう終わるから」
「ゆっくりでいいよ、璃桜姉さん」

朱嘉に柔らかな鈴の音を返して頬を緩めた彼女は、もはや人形などではありはしなかった。

筆を二、三躍らせると、璃桜は筆をおいて小さく息を吐く。そして隣の青年がくすくすと笑みを零してお疲れ様と璃桜の頭を軽く撫でたのを見て、朱嘉はますます機嫌を降下させることとなる。

利広。主人である江達の旧友、とだけ聞いていたが朱嘉はこの男の事をそれ以上の事を知らなかった。
爽やかで物腰の柔らかい美男子であることは承知していたがそれは朱嘉にとってさほど興を惹かれるものではなかったし、それ以上に朱嘉にとって彼は気に入らない面の方が大きかったのだ。

茶器から湯呑に茶を注ぎながら視線を上げると、男と璃桜が他愛のない会話を交わしている。
璃桜の表情は感情豊かとはとても言えなかったが、それでも控えめながら感情を乗せることが多くなっていた。

利広の言葉に璃桜が小さく笑みを零したのを見て、遂に隠し切れなくなった膨れ面のまま二人の前に茶を差し出す。利広の湯呑だけ些か水面が大きく揺れてしまったのは致し方ない。

「…お勉強の方はどう?璃桜姉さん」

誤魔化すように璃桜に話を振ると、彼女は小さく目を細めてゆるく首を振る。

「まだまだ、覚えることが山のようにあって果てが見えないの」
「覚えが良い方だよ、もう市井のことは粗方覚えたし簡単な文くらいならしたためることが出来るようになっただろう?」
「…師が優秀な御方だからでしょう」
「そう言って貰えると有難いけどね」

あ、また。朱嘉は内心で苛立ったように呟いた。
この人が来るようになってからだ。璃桜姉さんがこうして柔らかい表情を見せるようになったのは。

この利広という男がどういう手を使ったのかは知る由もなかったが、それでもこの男に会った日以来璃桜は僅かだが目の奥に光を取り戻した。
脆く危うい雰囲気が緩んで、生きることを疎まなくなった。文字を習って、言葉を覚えて、もう殆どこの宿で働くのに不自由はない。使用人や客と他愛のない会話に応じる姿も度々見かけるようになった。
それを江達や春玉は酷く喜んだが、朱嘉は手放しで喜ぶことが出来なかった。

勿論璃桜が会話をしてくれるのは嬉しい。触れれば壊れてしまいそうだった彼女が徐々にでも生きる気力を取り戻したことは喜ばしかったし、朱嘉だってその点は春玉達に負けない程涙を流して喜んだのだ。
けれど。

私達ではどうしようも出来なかった璃桜姉さんの枷を、この人は容易く外してしまえるんだ。璃桜姉さんを支える私の役目を、いとも容易く奪っていく。
生きる道を示したのも、言葉を教えたのも、表情を取り戻したのも。

その感情が正しく嫉妬という理不尽なものであることは朱嘉自身理解していた。
この男に感謝こそすれ、恨みに思うなど筋違いも甚だしいのだ。知っている、けれど、そう嚥下して消化してしまえるほど朱嘉は永くを生きてはいない。

穏やかな空気の流れる二人のやり取りにむすりと頬を膨らませながら、彼女はゆるりと頭を下げて戸へと向かう。
いつの間にか自分がこの勉強会の茶汲み担当になっていたが、いつまでもこんな悔しい思いをさせられる空間に留まる気はない。

「それじゃ私仕事に戻るね、璃桜姉さんはあまり根を詰め過ぎないように」
「有難う朱嘉」
「…利広様、失礼致します」
「あぁ、有難う」

にこりと人の好い笑みに僅かに揶揄を織り交ぜたそれで手を振った男に、深々と頭を下げつつ朱嘉は茶器を抱えて静かに戸を閉じる。
あぁ悔しい、絶対にあの人私の気持ちわかってるんだわ。そっちがその気なら私だって改めないんだから!
半ば意地になりながら憤然とそう決意して、朱嘉は厨場まで少々荒い足音を立てながら消えていった。





……

………


少女が去った室内では、利広が未だにくすくすと小さく笑みを零し続けていた。
それに僅かに呆れたような色を混ぜた視線を向けながら、朔良は最後の一口を飲み干す。花の香が口腔を満たす心地良さに視線を落とすと、利広が漸く笑みを収めて可笑しそうに口を開いた。

「本当に優秀な教え子のようだね、きちんと言い付けを守っているらしい」
「…貴方の、指示ですから」
「そうだね。もう少し戸惑いなく笑みを浮かべることが出来れば尚良いんだが」
「精進致します」

まずは宿に馴染むこと。言葉を交わし、笑みを浮かべて、この世界の人間であるかのように振る舞えるようになること。
それが一番初めに利広が彼女に教えたことだった。仙となるためには官になるのが一番の近道だ、だが右も左も分からない海客ではその道は閉ざされている。

…自嘲を含まない笑みなど久しく作っていないから忘れてしまった。ともすれば笑みを模る前に強張ってしまう自身の頬に手を当てながらそう返すと、利広は緩く苦笑する。

「自身の心の内を覆い隠して他を惑わす仮面に慣れておくことだ、君ほどの女人に微笑まれればどんなに優れた武人や官でも多少の隙を生む。折角そんな麗しい身体を天から与えられたんだ、活用しない手はないだろう?」
「それが仙を志すのに必要だと仰るのならば」
「生きる上で、だよ。その容姿は君の剣にも枷にもなる、扱いを覚えることが大前提だ」
「…はい、利広様」
「良い子だ、朔良」

まさかこんな薄気味悪い作り物のような容姿を武器にしようと思う日が来るなんて。
ふいに視線の端に映った鏡の中で、不格好な笑みを模った人形と目があった。相も変わらず不気味なほど美しく輝いた人形に、自然目を逸らして溜息を零す。
何度見ても自分でない何かが映り込んでいるようで背筋が凍る気分だ。

「さぁそれでは残りを片付けてしまおうか、あまり遅くなると江達が怒鳴り込んでくるからね」
「はい」

…もし瀬戸内の海へ戻れたら、容姿も私のものに戻るのかしら。
そんなことを胸中で零しながら、朔良は再び筆をとって利広の声と書物に意識を傾けた。



20160508