人形は踊る 1


「毎度どうも、御主人達にもよろしくね」
「はい、ありがとうございました」


からりと笑って手を振る恰幅の良い魚屋の女主人にふわりと柔らかな微笑みを返す。
毎度のことながら注文より一つ二つおまけがつくお陰で荷は少しばかり重かったが、億尾にも出さずに完璧な微笑みのまま頭を下げて踵を返したところで漸く、彼女は内心で深く溜息を零す。

頼まれたものは全て揃った筈だ、どの店に行っても余分に何かをくれるものだから荷は既に彼女の両腕と背の籠で何とか支えられる程度にまで膨れていた。
賑やかな市を進みながら、自然足早に人波を掻き分ける。

朔良が利広の命を実行するようになって以来、市への買い出しはもっぱら彼女一人に任されることとなっていた。
正確にはついていくと主張する朱嘉の申し出をやんわりと断っている、一人の時間だけは笑みを張り付けることをしなくてよい唯一の時だ。


そう、一人の時は。けれど、


「お、璃桜帰りかい?うちにも寄ってってくれよ」
「あら璃桜じゃないかい、今日は寄ってかないのかい。あんたならまけとくよ」
「…ありがとうございます、でも必要なものは揃えてしまったから」


左右からほぼ同時に飛んできた声に、努めて柔らかい笑顔を浮かべながら答える。
また捕まった、というのも、既に今日だけで数えるのも億劫な程にこのやり取りを繰り返している。

漸く自然な笑みを装えるようになったとはいえ、朔良のそれはあくまで仮面だ。ただ仙となるため、ひいては小松の民として生きる為の義務でしかない。

けれどその仮面を見て、周囲はこぞって彼女へ話しかけるようになってしまった。
奇跡の人形が魂を持った、そんな勝手な噂が飛んでいるのは朔良本人も知っている。

その所為か、特に市にいる間は左右そこかしこから声がかかり、とてもではないが気の休まるどころではなかった。
これならまだ朱嘉相手に笑顔を繕う方が気疲れも少ない程だ。

早く市から離れたい。そう思うのに、人の波に押されて思うように進めない。


流石に辟易として頭を抱えたくなった時、彼女はふと自身の視界に影が割り込んだことに気付く。
彼女と人の波との間を遮ったそれに瞳を瞬かせながら見上げれば、見知った笑みと視線が絡む。

にこりと、それは人好きのしそうな笑みを浮かべた男が彼女の顔を覗き込むように膝を緩く折った。
それに不覚にも安堵を覚えたのは、少なからず彼女がその男を信頼している証だ。


「人気者だね、これでは帰りも遅くなるはずだ」
「利広、様」


僅かにざわついた周囲には目もくれず、現れた男はにこりと微笑んで朔良の手から荷物を受け取る。


「何故このような処に…」
「君の主人から荷物持ちを仰せつかってね。さぁ行こう」
「…まぁ、態々有難う御座います」


そのままさりげなく肩を抱いて歩き出す利広に、一瞬遅れて朔良も忘れた仮面をつけ直す。柔らかく微笑み返して導かれるままに未だ唖然としている周囲をすり抜けていった。

声をかけていた者達が呼び掛けて上げた手をそのままに固まっているのを横目に、利広に手を引かれるままに歩く。
そうして普段ならば入らない細い路地へ滑り込んで、誰にも呼び止められぬままに市を抜ける。

漸く周囲の視線を然程気にせずに振る舞える空間に小さく安堵の息を溢した彼女を見て、利広は堪えかねたようにくつくつと笑い出した。


「見事だ、もう言い付けは完璧のようだね“璃桜”」
「…見張りにいらしたのですか?」
「いや、江達からの言い付けは嘘じゃない。けれど来てよかった、想像以上に効果が出てしまっているようだからね」
「………」


愉快でたまらないと言うように上機嫌な利広を見つめつつ、朔良は緩く息を零す。

初めて会った時に言った、勝手に楽しむという彼の言葉は嘘ではないらしかった。
自分で命じた癖に、朔良がそれを実行するとこうして笑い出すのだから。
何がそんなに愉快なのか彼女にはさっぱり理解できなかったが、確かなのはやはり自分はこの青年の暇つぶしの玩具らしいということだった。


自分がこの青年に掌で転がされていることは重々承知していた、けれど朔良にとってそれは些末事に過ぎない。
小松の民としての朔良に示された唯一の光がこの男であり、彼女は利広のことを何一つ知らなかったがその賢さだけは信頼していた。

賢い者は嘘は言わない、ただ受け取り方さえ誤らなければ何より心強い道標なのだ。
この男が自分にとって道標として振る舞い続ける限りは、朔良も彼にとっての態の良い玩具に甘んじるつもりだった。


暫くじっと待っていると、漸く気が済んだらしい利広が止めていた歩みを再開したのでそれに従う。
市を抜けてしまえばあとはさほど人目を気にすることはない、利広の傍であれば然程笑顔を繕う必要もないので気が楽だ。

暫く貼り付け続けていた笑みを解けば相変わらず人形のように表情の抜け落ちた顔に戻る朔良を見て利広がまた可笑しそうに笑った。


「人間とは単純なものだね、君の心情は何一つ変わらないというのに、笑顔一つ貼り付けるだけで遠巻きにしていた者達があの有様だ」
「それこそ、貴方の教えではないのですか」
「それはそうだが、あまりにも思い通りで少し拍子抜けといったところかな。勿論、君のその玲瓏たる美貌があってこそなのだろうけれど」
「………」


揶揄のようにそう口にしたが、朔良は適当な相槌も呆れた視線も返しはしなかった。
ただ困惑したように眉を顰めて顔を伏せた彼女を横目に見て、利広は内心小さく溜息を零す。

彼女はしばしばこのような反応を見せることがあった。
冷えた空虚な目でも、繕った笑顔でもない複雑な表情。決まって、彼女の容姿に触れた時だ。

どうしたものか、利広は僅かに歩みを緩めつつ思考を巡らせる。この表情の理由を利広は未だに測りかねていた。
朔良が自身の容姿を好んでいないことは既に彼も察している、けれど、それだけであるならもう少し違った反応が返りそうなものなのだが。


幼子の歩みのようなのんびりとした歩みを続けながら、彼は朔良に視線を落とす。


「君は、容姿を褒めるとまるで他人事のような顔をする」
「………」
「と、私には映るのだけれど。隠し立てするにも今更だろう、聞かせてくれないか」


肩を竦めてそう言うと、朔良はゆるゆると顔を上げる。
その顔はやはり、利広すらあまり見たことの無い卑屈と困惑の混じったような複雑な表情だった。


「…… 他人事、なのです。少なくとも、私にとっては」
「…どういう意味かな」
「私はもっと、凡庸で見るに堪えない娘なのです。こんな人形は知らない、きっと神が私を嘲って与えたの偽りの器でしょう」
「………」


朔良の言葉は利広ですら意を解するのに一瞬の時間を要した。一体何を、と言いかけて、ふと一つの可能性を思い出す。

…まさか、あり得るだろうか。海客ですら珍しい世界でそんな稀有なことが。
前例が皆無という訳ではない。けれど彼が耳にした話はいずれも、王や麒麟として意図的に連れ帰ってこられた者達ばかりなのだ。


― 王でも麒麟でもない只人が、何の意図も働かない偶然のみで二度も蓬莱と此方を行き来するなど。
そんな奇跡が起こる可能性は一体どれほどなのだろう。


じわりと湧き起こる興奮に、利広は思わず身体を震わせた。

海客は珍しい、しかも人を惑わすほどの美姫となればその行く末はきっと自分の退屈を紛らわせるくらいはしてくれる筈。そう考えて始めたことだった。
けれど、これほどのことは予想していない。退屈凌ぎどころか、久しく感じなかった未知への歓喜を覚えるほどの。


昂揚する気持ちを抑え込みながら、利広は朔良の両肩を強く掴む。


「っ…利広様?」


怪訝そうに細められた琥珀に、利広は自然口角を上げて口を開く。


「…君は本当に、私の予想など遥かに超えていくね」
「…? 何を仰って、」
「容姿が変わった、蓬莱と此方で。蓬莱では凡庸な娘だったにも関わらず、此方へ来てその貌に変わってしまったと?」
「……はい」


朔良は利広の態度が理解できない様子で怪訝を顕わにそう答える。
それに気付きながらも、まだ自身の中でもこの事実を消化しきれていない彼はそのまま続けるしかできなかった。

それほどに、彼ですら耳にしたことがない程に彼女は稀有な存在だったのだ。

海客などではない、朔良は、



「朔良、君は…胎果だったのか」
「…タイカ?」



瞬いた琥珀が、不安げに揺れる。



20160824