人形は踊る 2


反射的に、身体が意思を離れて勝手に動く。耳を塞いで、目を逸らして、蹲ってしまいたかった。

珍しく高揚を見せた利広の言葉は、朔良が今信じているもの全てを揺るがして一転させてしまう。そんな恐怖にも似た、けれど絶対的に異なる何かを感じ取ってしまった。


タイカ。
利広の口にしたその言葉の意味を朔良は知らない。これまで朱嘉も、江達も春玉も、利広ですらその言葉を口にしたことはなかった。

けれど、過去に一度だけ。朔良はその音を耳にしたことがある。


―『待ちわびた新王だってのに胎果、その上台輔も胎果だと。可哀想だが、次の治世も長くはないだろうなぁ…』


ぽつりと、酷く憐れんだような声だった。
酒に酔った末に零れた失言だったのだろう、各国を旅しているといった客は慌てたように気にするなと苦く笑った。

もう随分前の話だったが、その言葉は妙に朔良の脳裏に焼き付いて離れない。
音だけでざわりと肌が粟立つその言葉が何を意味するのか、知ればもう戻れないのだろう。

衝動に身を委ねて、駄々をこねる幼子のように耳を塞いでしまおうとした。けれど、


「朔良」
「っ………」


静かな利広の呼びかけに、辛うじて朔良はその衝動を抑え込んだ。白い掌をきつく握りこんで、艶やかな唇を堪える様に噛む。

…駄目だ。どんなに耳を塞いでしまいたくても、朔良は利広から与えられるものだけは拒絶してはならない。
利広が彼女の道標であり続ける限り、朔良は与えられる全てを受け入れなければならない、疑ってはならないのだ。

動揺を抑え込むように緩慢に腕を下し小さく息を零した後、己を見上げてくる琥珀に利広はゆるりと頬を緩ませた。
あぁ朔良、聡い子だ。君は本当に、どこまでも私を楽しませてくれる。
愛しささえ滲ませたような柔らかい笑みを浮かべ、利広は朔良の言葉を待つ。


最初は気まぐれ、暇潰しのつもりだった。美しい海客が、己の標した道をどう進んでどう生きるのか。ただ眺めて楽しむつもりだったのだ。興が覚めれば姿を眩ますつもりで。

けれど、いつからだったか。利広は既に彼女に対して暇潰しの玩具以上の愛着が芽生えていた。
幼子が歩くのを見守るような庇護欲に似たその感情が、永い生による自身の気質の変化なのか、はたまた朔良にのみ向けられる特異なものなのかは彼自身にも判断がつかない。

どこか穏やかさすら帯びた表情で見守る利広に、朔良は僅かに震えた鈴の音で紡ぐ。

「利広様…私が、問うべきはたった一つです…」
「…聞こう」
「私がタイカであると、そうだとすれば、……」

紡がれる言葉を利広は待つ。彼は朔良の問いを、彼女が知るべき唯一を既に理解していた。

「…私は、仙を目指す意味を喪いましょうか」

無論、その問いの意味を彼は正しく受け取った。
額面通りの問いも含まれている、しかし、彼女が真に問うたのはもう一つの方だ。

利広の答え一つで、朔良は消えるだろう。例え誰が引き留めようと、彼女の心は二度と手の届かない場所へ閉ざされる。
一つゆっくりと息を零して、利広はゆるりと細い肩に手を添える。

「…仙を目指すことはないだろう、例えどちらに転ぼうと。けれど、君が本当に知りたがっている答えを出すには私には駒が足りない」
「駒…?」

彼女は問うた。― もう、生きる必要はないのかと。
唯一彼女に生を強いていた、“小松の民”たる道が喪われるのではないか。ならば、と。

或いは、その答えは是だ。
胎果である彼女はそもそも彼方に存在する筈もない者であり、この十二国何れかに生を受けた民であった筈だ。蓬莱の、小松の民などではあり得はしない。

けれど。

「朔良、一つ取引をしようか」
「………」

唐突に、そう微笑んだ利広に朔良はゆるりと視線で怪訝を示した。
それを意に介した様子もなく、利広は涼しげな目元を細めて薄く口元に弧を描く。

あり得るはずはない、人の理で判断するならば、そんな馬鹿げた話など。
けれど、既にあり得る筈のない偶然を経験してきた彼女ならばあるいは、天の理のもとにそういう運命を与えられても不思議はないのではないだろうか。

無責任で、勝手な推測に過ぎなかった。けれど利広はどこか自信があったのだ。

「君の過去を、君が歩んできた全てを、私に語ってくれないか。そうして私が導き出した答えを聞いても尚、君が生きる意味を見出せないというならば」

彼女が自分の身勝手な期待に応えられない、その時は。

「…他の誰が邪魔をしても、私が君の最後の望みを叶えよう。君が望み続けた死を、与えると約束する」
「………偽りは、御座いませんね」
「無論、私は最後まで君の信頼する道標であり続けたいからね」


複雑に笑んだ利広の表情を靄の掛かった思考でぼんやりと映して、朔良は薄く笑みを描く。
漸く、彼女は先程から全身を覆っていた感情の名を理解した。血の凍りそうな、恐怖にも似た感じたことのない激しい感情の正体は。

あの日から望み続けた死を、直に手に入れることができる。そんな、狂った歓喜だった。



20170409