人形は踊る 3



淡々と、薄い笑みを浮かべてるようにさえ見える穏やかさで、朔良は橘花楼への路を静かに利広に従った。
宿に戻り、訝しんだ江達に人払いを頼んで、朔良の部屋へ入るそのどの一瞬ですら。ただ穏やかで、ある種の奇怪さを感じさせる落ち着きを湛えた彼女は黙り込んだままじっと視線を下に落としている。

ここまで帰路の間、些か判断に迷ったものの彼は胎果が如何なる存在かを彼女に語って聞かせた。
本来彼方にある筈のない存在であること、蓬莱での容姿は仮初の胎殻であり本来の姿は現在のものであること。
何を語っても、朔良は何一つ反応することなく穏やかに笑んでいた。

もう利広の言葉では彼女の意識を引き戻すのは困難らしい。
先ほど問うた言葉通り、彼女が求めていることは唯一つなのだ。死を与えられるか、否か。
既にその答えを得たと判断した彼女の思考には、最早万象が取るにならぬ些末事に過ぎない。

僅かにため息を零しつつ、利広は先ほど朔良の見せた歪な表情が脳裏から離れずにいた。
初めて出会った時の危うさを思わせたが、今回のそれはそんなものではない。
…いうなれば、狂気だ。

利広は朔良が感じた異常な歓喜を感じ取っていたが、気づかぬふりをして春玉が運んでくれた茶に口をつける。


恐らく、これが最後だ。自分が彼女の道標として導いてやれるのは。
それが再び生に向き合う苦難の道か、甘美な死へ墜ちる死出の道か。そればかりは利広にも分からない。恐らく朔良にさえ分かりはしないだろう、知りえるのは天のみだ。

だがどこか、利広の中には既にこの賭けの結末を見通しているような不可思議な感覚があった。
何の意図を以ってのことかは想像も及ばない、けれど確かに、この娘は天帝に特別な運命を与えられた存在であるのだろう。

ならば、と。



「朔良」

ゆるりと、利広が名を呼んだのを合図に、朔良は緩慢に視線を上げる。
琥珀には確かに利広が映り込んだが、ただ本当に文字通り映すだけで朔良の意識は欠片も利広を映してはいないようだった。

促すように目を細めると、彼女はまるで物語を語る語り部のような口振りでゆっくりと口を開く。

二度と戻らない喪われた平穏と、死を望むほどの凄惨な地獄の記憶を、彼女は語り出した。



*   *      *




存外、地獄を語るより平穏な日々を語る方が堪えるものだ。
ゆるゆると語り続ける間、朔良はそんなことをぼんやりと考えていた。


母と二人、父は幼いころに海へ出てそれっきり帰ってこなかった。
火事で妻と子を亡くした叔父が父親代わりによく様子を見に来て、隣に住む五つ離れた娘を姉と慕い、村の者は皆家族のようで。
裕福ではないが幸福な揺り籠の中で、朔良は過ごしていた。

その穏やかな幸福を奪われた日の記憶を語ることに、今更心を乱すことはない。
あの日から、もう何千と繰り返してきた記憶だ。

母が撃たれ、叔父が海に沈み、姉と慕った女性は畜生以下のように辱められ。
命と引き換えに隠してくれた女性の無残な死体を見下ろしながら、恐怖と吐き気に堪え木の上でじっと息を潜めて夜を待った。
村上の兵が消えた頃転がり落ちる様に木から降りた時に目にした、嘗ては村一の器量良しと呼ばれていた女の変わり果てた姿が焼き付いて離れない。

ただ譫言のように何かに謝り続けながら必死に走って、走って。最終的に身を寄せたのは山奥の小さな寺だった。
幾人か同じような孤児が身を寄せていたそこで、朔良は辛うじて生き延びた。生き延びることを望んだわけではないが、そうせねばならないと知っていたから。


ここまで語り終えたところで、ふつりと言葉が途絶える。
既に語るべきことはないように思えたが、一言も発さずに黙って自分の語りに耳を傾けていたらしい利広が再び視線で先を促したので仕方なしに言葉を探す。

…あの日、唯一を喪ってしまってからのことなど。
そんな世界が記憶として留めるに値するはずもなく、自然朔良の語りは先程までの澱みないそれから転じてたどたどしいものになる。

「…寺では、働く以外は皆の弔いを。村上との戦から…六、…七度目の冬が終わる頃まで、身を寄せました」


年月すら曖昧だったが、春先に木蓮を見上げた記憶で辛うじてそう判断する。
…遥か遠くにも思える幼い記憶、木蓮の下で一度だけあの方に。そんな儚い思い出に縋りつくことでしか、過ぎる季節に興を抱くことすらできなかった。

それすらも、今の自分には許されないことだけれど。あの方の民でさえなかった私が、追想に縋ろうなどと烏滸がましい。


そうしてそっと目を伏せた朔良に、今まで口を閉ざしていた利広がぽつりと口を開いた。

「…此方へは?」
「………」

問われた言葉に応える術は、彼女は持ち合わせていない。
分からないのだ、朔良でさえ。なぜ自分が、こんな世界へ来てしまったのか。

「…ある晩、煙の臭いで目が覚めました。既に四方は炎に囲まれ、ここで焼け死ぬのだと身を伏せていたら…」
「……気づいたら此方へ、か。…そこで江達に?」
「……いいえ、程なく別の男たちに見つかり捕まりました。一晩納屋のようなところで縛られ、翌日に船へ」

今思えば、人売りだったのだろう。無感動に朔良はそう判断した。
あの時はまさか思いもしなかったが、既にこの人形の器であったのだとすれば買い手には困らなかったはずだ。
凡庸な容姿のままなら捨て置かれるか、不気味がって殺されるかしただろうに。

…あの時殺されていれば、あるいは海に投げ出されたときにそのまま沈んでしまっていれば。
自分は小松の民なのだと、例え勘違いであったとしてもその誇りだけは失うことなく死ねた筈だったのに。
そう思うと口惜しくて、今やその誇りすら失ってしまったことが滑稽で、美しい貌が歪な笑みを象る。

「…海に落ち、流れ着いたところを江達様に。ここから先はもうご存知でしょう」
「………あぁ」

嘲笑のように吐いた朔良の言葉に、ただ一言頷いた利広はどこか思案するような表情だった。
しかしそれに気を留めるような思慮を既に棄ててしまっていた朔良は、ただ焦れたような声色で利広に強請る。

「もう宜しいでしょう?滑稽な愚かしい女の昔話は終わりです。後は、貴方が約束を果たしてくださいませ」
「………」

今更、利広に導きを求めているわけではなかった。
けれど、これは契約だ。朔良が過去を語り、利広が道を標す。利広の言葉がなくては、取引は終わらない。

早く、こんな惨めで滑稽な生など終わらせて。
焦がれるようにじっと琥珀を向ける朔良に、利広はふとその涼し気な目元を細めて微笑った。
状況に似付かわしくない利広の表情に、思わず朔良は眉を顰める。


「…まさか、取引を反故になどいたしませんね?」
「あぁ、勿論。見縊らないでくれ、言っただろう?私は最後まで君の道標でありつづけると」
「では、」
「いいや朔良、まだ私の番ではないよ。君にはまだ語るべきことが残っているはずだ」
「……?」

くすりと見透かしたような笑みで、幼子を窘めるかのように利広は言った。
語るべきことなどとうに尽きたというのに、利広の確信めいた言葉の真意を計り損ねた朔良はますます怪訝を深くする。

暫くの間沈黙が流れ、それでもなお口にすべき言葉を見つけられずにいる朔良に、彼はまるで答え合わせをするような口調で優しく続ける。


「言った筈だ、君の過去の全てと。さぁ聞かせてくれ、君の一番大事なもののことを」
「……な、にを、おっしゃって…?」


信じ難い、想像もできない言葉を、彼はさも当然のように平然と口にした。


― 「"ナオタカ"。故郷も家族も喪った地獄の中でさえ、君を生へ繋ぎ止める者のことを」


さぁ、最後の役目を果たそうか。彼は悠然と笑う。



20170503