なんでこんなに好きなのかなぁ


涼やかな風がふわりと夏草の匂いを運んで、流れるせせらぎの音に思考を委ねる。

何時来ても趣味の良い空間だ、と景女王が頬を緩めて出された茶器に手を伸ばせば、爽やかで仄かに甘い花の香りが鼻腔に広がった。
それに思わず零すような溜息を吐くと、傍らで控える女がくすくすと優しい笑みを浮かべる。


「お気に召していただけたのなら良いのですが」
「勿論。とても美味しいです、朔良さんが淹れて下さるから尚更」
「まぁ…勿体のう御座います」


間髪入れずにそう返すと、彼女は嬉しそうに柔らかく目元を細めた。

どこまでも嫋やかな仕草に陽子は同性ながら見惚れそうな感覚に陥りつつ、出された茶請の水羊羹を一口頬張る。
何とも言えず上品な甘みが広がり、作った人間の性質がそのまま出ているようでまた頬が緩んだ。




雁州国関弓に位置する玄英宮、その内宮の庭園に面した花殿の小さな部屋の一つ。
そこは朔良の私室として尚隆より下賜されている場所である。

一介の臣には前代未聞の待遇だけに色々と官吏と揉めたのだそうだが、登極から百年ほど経った頃に延王が断行してしまったとか。
百年待った、とだけ答えて後はなしのつぶてだったとは帷湍の嘆きだったろうか。さしもの彼らもあまりに強硬な延王の様に口を挟む気も失せたのだろう。

そして意外にも最後まで反対しつづけたのは延麒だったらしい。
その理由は官吏のものとは全く異なり、花殿では朔良の心労が大きいので仁獣殿にしろと主張する台輔の姿に官吏は呆れ果てたものであった。
この主従で雁は大丈夫なのか、治世百年を誇っていたにも拘らずそんな嘆きがかしこから漏れたという。


ともかくも、そのような経緯で与えられた部屋で朔良はもう四百年以上の時を過ごしている。
調度品は決して多くなく、そう高価でもないのだろうが趣味の良い最低限のものでまとめられていた。

この小さいが穏やかで現世を忘れさせそうな空気に包まれた部屋は、陽子のお気に入りの避難所として密かに度々世話になっている。
今日も例に漏れず公務に託けて唐突に現れた陽子を、部屋の主は快く迎え入れてくれた。

公務などとっくに済ませて本来ならこのまま慶へとんぼ返りなのだが、せっかくなら仏頂面の半身や冷やかな視線を寄越す冢宰よりは柔らかな花の笑みを浮かべる女性と時を過ごしたいではないか。
因みについ先日衣装合わせですったもんだの末逃走して以来、陽子を見る目が笑っていない祥瓊や鈴も今回ばかりは前者である。
そして二人に睨まれて苦笑いしか返さない虎嘯や桓たいも。

自分が国主の筈なのに皆揃いも揃って冷たくては嘆きたくもなる。
綺麗に磨かれた年代物の樫の机に身体を預けて、陽子は盛大に溜息を零した。


「はぁ…朔良さんが慶にいてくれればいいのに」
「まぁ」


切実な声でそう零した陽子に、朔良は僅かに目を丸くして困ったように微笑む。

隣へ座るように促すと控えめに傍らの椅子に腰を下ろして、彼女は労わるようにゆるりと扇で陽子を扇ぐ。
それが妙に郷愁めいた感覚を揺り起こして、胸の奥が小さく締め付けられた。

くすくすと可笑しそうに笑みを漏らす朔良が言う。


「景女王は酷くお疲れの御様子で」
「…そうかもしれないな。慶は慶で賑やかなんだけど、此処のような穏やかな時間を過ごすというのは難しいから」
「慶では多くの皆様が貴女様を支えていらっしゃいます、私などでは到底及ばないでしょうに」
「うーん…」


諭すように目を細めた朔良に生返事を零しつつ、陽子は今頃慶で呆れかえっているのであろう臣達を思いやる。

皆信のおけるかけがえのない仲間だ。
祥瓊や鈴は年頃も近く気が置けないし、これまでの苦難で培った経験を十分に生かして助けてくれている。浩瀚や遠甫などには頭も上がらないし、桓たいや虎嘯には若干私情を挟んだストレスの発散にまで付き合って貰っている。
以前の傀儡とされた朝廷に比べれば随分と居心地が良くなっているのは確かだ。

だが、それでもやはり。
そういった頼もしさとは違う、癒しと呼べる様な存在も必要なのではないだろうか。と、思うのは朝廷が整いつつある中での芽生えた欲である。

ちらりと視線をやると、朔良は小首をかしげて笑みを返す。
そう、これなんだよ。この姉のような母のような、かと思えば儚い妹にも思える、どこまでも優しさに満ちた空気が金坡宮に欲しい。



雁において五百年近くを王の傍で生きる朔良だが、彼女は政にあまり関わらない。
何か目立った業を持つわけでもなく、武に優れるわけでもない。精々朱衡に指示され書簡の管理や雑用を熟す程度である。

主な役目は王や麒麟の世話をすることだが、実情はしょっちゅう姿を眩ませるあの二人を引き寄せる釣餌のようなもので何から何まで朔良が引き受けているわけではない。
言ってしまえば、単純に表面だけ見れば朔良がいなくても朝廷はなんの障りもなく責を果たせるだろう。

けれど事実として、朔良はこの玄英宮において誰しもが一目置く重臣の扱いであったし、特に帷湍などは頭が上がらない様子だった。冢宰など彼女と出会う度に深々と頭を垂れる。
それは言を俟たず彼女が存在そのものがこの国の安寧を支えているという証拠で。

曰く、彼女がいなくなれば雁は莫迦主従に振り回されてものの十年で十二国一の奇国と後ろ指を指される未来となるだろうと。
誰の言かは明言する必要もないだろうが。


とにかく、この大国を支え続ける傑物達が口を揃えて讃える彼女のことが、陽子もまた例外でなく好ましかった。
彼女を慶に連れて行くようなことがあれば恐らく雁を動かす人間の大部分を敵に回すことになるのだろうが、それでもなお欲しいなと零してしまうほどには気に入っている。

せめて一月、いや一週間だけでも。



そうして結局はいつも同じ所へ行きつく思考が終着して、陽子は朔良手製の茉莉花茶を飲み干す。
その間も尚柔らかな風を送り続けていた朔良に、陽子は無謀を承知でかくりと首を傾げて見せた。


「…朔良さん、慶に視察か留学に来ません?」
「私が、で御座いましょうか…?」
「うん。朔良さんがいたら景麒の無感情な視線も浩瀚の抑揚のない呆れ声も祥瓊達の怒号も耐えれそうな気がする」
「景女王は真摯且つ勤勉な御性分でいらっしゃいますから。たまには肩のお力を抜いて、ゆるりと過ごされると宜しいかと」
「朔良さんとお茶をするのが一番良いみたいなんだけど」


あらあら。そう愉快そうに微笑んで、彼女は袖口でそっと口元を隠す。


「ふふ、それでは次回は是非堯天に遣わして下さいますよう、白沢様と朱衡様にお願い申し上げなくてはなりませんね」


主上も台輔も一番良い薬は朔良を取り上げることですので。

いつかの冷たいにこやかな笑みを浮かべた朱衡の言葉が陽子の脳裏で再生される。
あまりに主従の放蕩ぶりが過ぎた時には朱衡の命で朔良が玄英宮から姿を隠し何処かへ住まいを移すことは聞いていたので、陽子は渡りに船を得た様ににこりと笑う。


「それは是非。何なら二人がサボってらっしゃる間は慶にお招きするという約定を作ってもいいくらいで」
「まぁ…それでは私は雁より慶にお邪魔する時間の方が長くなってしまいます」
「いっそ慶の官になって毎日私とお茶を一緒してもらえたら嬉しいのだけど」
「ふふ、景女王は私のような端女の心まで絡め取ってしまわれる悪い御方で御座いますね」
「本心なんだけどなぁ」


冗談ともつかぬ笑みで躱す朔良に苦笑を返しつつ、胸中ではあとで朱衡さんに話に行こうと真剣に頷いて陽子は継ぎ足された茉莉花茶を啜った。

どうやら延主従には存分に執務から逃げ回っていただかなくてはならないらしい。
本当に慶へ掠め取れるとは露程も思っていないが、日々目の回る思いで執務に苦しみ喘いでいる新米女王だってたまにはこの優しい女性を借り出しても赦されるべきなのだ。



なんでこんなに好きなのかなぁ
(きっと、貴女の笑みがとても柔らかい所為)





20151002