ただ笑っていてくれるならそれが一番良い


遠い過去。
自分の背負った役目から逃げるように蓬莱を彷徨った頃、それがどうやら初めて存在を交えた日らしい。

その時は血の穢れで病んでいて力も弱っていたし、初めて感じた王気に戸惑いと不安もあり周囲の人間にまで気を留めていられなかったので良く覚えていない。
けれど彼女は確かに六太とその日逢ったのだという。


― 奇妙な違和感が御座いました、まるで貴人の御子が無理に襤褸を纏っているかのようで。


言って彼女は六太の髪をそっと櫛で梳かす。
鬣である金のそれに触れられるのは好きではなかったが、彼女に櫛を通して貰うことだけはとても心地良かった。


― あちらでは濡羽色で御座いましたね。恐らくその所為でしょう、例えどれほど美しい漆黒でも台輔にはこの黄金色が唯一無二でございますから。


本来彼の持つ色はこの眩い金糸である。
そこに無理に漆黒を落とした不釣り合いさがあの妙な違和感の正体だったのだと彼女は笑う。

六太にはあちらでの自分の姿など理解らなかったしどうでもよいことであったが、朔良が酷く楽しそうだったのでそれが嬉しくて大人しく相槌を打っていた。
座ると立ったままの彼女の腹の下あたりに彼の頭があったので、そのまま甘えるように凭れ掛かると更に朔良が笑う。



あの頃はきっと六太の方が身体も背も大きかったのだろう。純粋に生きた年月だけ考えれば朔良より彼の方が僅かだが長い。
だが早くに時を失った彼の身体は今では彼女の肩ほどしか身長がなく、まるで幼い弟が歳の離れた姉に甘えるような仕草であった。


そして懐かしむように微笑んだ彼女の肩から滑り落ちるのは、艶やかな瑠璃色。
彼女は胎果である、蓬莱ではやはり黒髪だったのだろう。彼女が言うにはあちらでは容姿も取り立てて挙げることもない凡庸なそれであったという。

けれど、目の前で物語でも語って聞かせるかのように心地良い口調で話す女は、麒麟の彼にすら明確に他の女と一線を画して映るような玲瓏な美貌を携えていた。
今でも鏡を見ると別人が映るようで気味が悪いのだと彼女は笑う。

あちらの自分のことは覚えていない方が良いと笑う。きっと落胆する、本当にとるに足らぬ娘だったと彼女は語ったが、六太には忘れてしまったことが酷く惜しく感じられてならなかった。


麒麟は人ではない、他者をその眼に映す時、勿論容姿も含まれるがそれ以上にその者の心根が大きく視える。六太が知る限り、この娘以上に好ましいと思える人間はほとんど存在しなかった。
それは見目がどうというのではなく、隠しようも無いほどに溢れる慈愛やそれでも尚清濁併せ呑むことを知る聡明さ。
挙げ連ねれば枚挙に暇がないが、その心根の清らかさを好ましく思うのだ。


例えば、例えばこの女と蓬莱で出会えていたのなら。
自分がまだ何者かも知らぬ頃に、父に捨てられた無力な子供であった頃にこの優しい腕に抱かれることがあったのなら。

その頃には当然彼女も赤ん坊であっただろうが、そんな尤もな道理の指摘など無粋だ。
何故ならこれは酷く下らなく支離滅裂な、彼の儚い望みに過ぎない。


櫛を通し終え最後に角の辺りを慎重に調えた朔良を見上げて、込み上げる馬鹿げた感傷で胸をあふれさせた。

優しい朔良。
お前が母であれば、あるいは姉であれば。俺はあれほどまでに蓬莱での生を…王を憎まずに済んだのだろうか。


だがそれは同時に鳴蝕を引き起こして尚隆に出会うことも、その先で朔良に遭うこともない道である。
所詮は支離滅裂で道理の立たぬ絵空事だ。

それら全てを飲み込んだうえで、六太は折角調えられた金糸をぐいぐいと彼女の腹に押し付けて先程までの行為を水泡に帰すと満足げに笑う。
朔良によって綺麗に撫でつけられていた筈の後ろ髪は見る影もなく、ぐしゃりと妙な跡を付けていた。


「あーあ、これじゃ朱衡に怒られる。やりなおしだな、朔良」


― まぁ。困った御方ですね、台補。

暫し驚いたように瞬かせた瞳はすぐに優しく細められて。
朝議に遅れる、朱衡に叱られる。
そんな小言のような言葉とは裏腹にどこまでも愛おしそうな表情で櫛を持ち直した彼女に悪戯っ子のように笑った。


「いいんだよ、俺は麒麟だから。朔良に世話される権利があるんだ」
「ふふ、…本当に困った方ね、六太君」


二人きりの、本当に気を緩めた時にしか呼ばれない名に大層機嫌を良くして、延の麒麟は再び陶酔したような表情で目を伏せてその柔らかい手を受け入れる。



いいんだ、俺は。

甘えて我儘を言って、そうやってお前を笑わすのも仕事の一つなんだから。



ただ笑っていてくれるならそれが一番良い
(だってそれが必要なことの全てなんだ)




20151007