頑張っている君は好きだけど、頑張りすぎちゃうのが心配


夜明け前から課題に齧りつき、気付けば昼下がりと呼べる時間すら過ぎてしまった頃。
短い四肢をうんと天に向けて長時間凝り固まった筋肉を伸ばしていると、ふと一羽の鳥がこつりと窓を突く音に彼は髭を揺らして思わず目を丸くした。

開けろと急かすように丸い瞳を向けられ、慌てて窓を開けてやるとその小さな身体を滑り込ませて彼の銀鼠色の鼻の先に留まる。
小枝のような細い足に結ばれたのは、品の良い香を焚きしめた文。こうして彼に文を宛てる人物は少なくとも数人いるのだが、こうして楽俊の良く利く鼻にも心地良い程度の香りを預ける者、そしてあまり距離の飛べない小さな小鳥を遣わすものとなると、一人しか心当たりはない。

不慣れな世界で国を背負って日々頑張っている友人でも、国を追われ彷徨っているところを助けた少女でもない。無論、この国で最も尊い色々と規律を無視した破天荒な二人でもなく。

一体何の用だろう。そんな疑問を浮かべつつも、彼はゆるりと尻尾を揺らして文を開く。
仄かに甘い香りに送り主の柔らかい笑顔が思い出され頬を緩めて目を落とすと、そこには流麗な文字が簡潔に一文記されているのみ。


『正門でお待ちしております』


これを見て、一瞬判断を取りかねて、そしてすぐに飛び上がって全身の毛を逆立てた。

休日のこの時間、正門は遊びから戻ってきた者あるいはこれから出る者が多く行き交う時で。そこに、この文の主が現れば。想像は容易で、そしてそれは出来るなら避けたい事態である。

文を机に放りだして、小鳥を外へ出してやるのも忘れて楽俊は部屋を飛び出す。どたばたと忙しない足音が響く中で、小鳥は素知らぬ顔で窓の隙間から部屋を後にした。


あぁ、間に合うといいんだが。




◆     ◆     ◆




此方に気付きひらりと手を振る、質素だが品の良い着物に身を包んだ女を認めて楽俊は乱れた呼吸を整えるよりも先に溜息がこぼれた。

周囲には学生含め多くの人間が行き交い、そしてその殆どが彼女にちらりと視線を寄せるかあるいは立ち止まって食い入るように見つめる者さえある。
そして彼女の目線の先である自分にも視線が突き刺さるように集まって、驚きの声がひそひそとあちこちから上がったのが聞こえた。

あんな女性に、半獣が?一番多いのはそんな怪訝そうな声だった。
そりゃそうだ、おいらだってそう思わい。これは皮肉でも何でもなく、心からの本心であったので楽俊は周囲の人間に深く同意の頷きを返したい気分である。

絡みつく数多の視線の中で件の人間の前まで辿り着き、少しだけ高い位置にある彼女の顔を見上げると嬉しそうに柔らかな笑みを浮かべていた。


「ごめんなさい、急に来てしまって」
「いんや、構わねぇよ。どうせおいら机に齧りつきっ放しで暇してたんだ」


謝罪する割にその顔に申し訳なさはなく、どちらかといえば隠し切れない喜色に染まったままだった。


― この見るだけで溜息の零れそうな玲瓏たる美女と、楽俊の出会いは数年前のことだ。
奇しくも拾った少女が次期景王であり、奇しくも街で出会った延王に宮へ招かれ、そして半獣姿のままだった自分の支度を手伝ってくれたのが奇しくも女御である彼女だったわけで。

要は宮仕えの身であり、延王唯一の寵姫とまで囁かれる彼女は楽俊とは相容れるはずのない存在だったのだが、唯一それを狂わせたのはこの女性が少々度を越した半獣好きであったことである。
鼠姿のまま宮中をうろついていた楽俊に眉を顰めるどころか、それが役目であるにも拘らず人間の形を取らせることに何度も謝罪し心底残念そうな顔を見せる女御の存在は、彼にとって青天の霹靂といっても良かった。

そしてそれを切欠に玄英宮に滞在中、驚くほど様々な分野に見識の深いらしい彼女と楽俊は様々な話に花を咲かせる。政から市井の様子、道徳のこと、学問のこと。嘗ての誰よりもお互いの言わんとすることを理解する二人の間に芽生えたのは妙な親愛だった。
一を話せば十を理解してくれる相手の存在というのは奇妙で、まるで自分の心を仔細に読み取られているかのようで。単なる友情や親しみではなく、ましてや恋慕などではなく、これは同士に出会えた悦びだ。

そうお互い認識を定めると、女御としての立場で折り目正しく客人の扱いをしていた朔良も、宮中の人間として只管敬服してみせていた楽俊も、すとんとそれらを止めた。
どちらがどうというわけでなく、ただ同士として友人として相応しい口調と態度へ自然と変わっていたのだ。

そしてそれは楽俊に朔良が唯一本来の口調で話す相手という肩書を下げることになり、若干台補や景王から恨み言を言われることとなったわけだが。 ―



ともあれ、宮中に籠りきりの彼女に会うのは数か月ぶりであり。
陽子とは違い文を交わして近況を伝えることもしていないので、再会を喜びあからさまに好意に溢れた彼女の様に周囲から突き刺さる視線は冷たさを帯びたものが多くなる。
内心で苦笑しつつ、彼は髭を揺らし小首を傾げて問いかけた。


「今日はどうしたんだ?夕方からってのは珍しいが」
「少しだけお暇を頂いたから小旅行でもと思ったんだけど、出発の前に楽俊君に会えればと思って」
「暇?」
「えぇ、家公様方が一昨日からお姿が見えなくて」
「…なるほどなぁ」


家公、とは要は彼女の主を指す。まさかこの場で主上と台補が、などと口にするわけにもいかないのでそういう表現になるのだ。
どうやらいつもの二人への仕置きの名目で朱衡辺りから姿を眩ますよう言われたのだろう。
彼女が一月も戻らなければ、そわそわと落ち着きをなくした主従がその行方を尋ねに楽俊の元を訪ねるのはお決まりの事だった。


「朔良がいないとなると、また騒がしくなるなぁ」
「ごめんね、いつも迷惑をかけてしまって」
「んなことねぇよ、ちょいと吃驚はするが賑やかなのは嫌いじゃねぇしな。今度は何処へ行くんだい?」
「慶へ」
「慶っ!?」
「しーっ」


ビッと思わず髭と毛を逆立てた楽俊に、朔良は悪戯っぽい笑みを浮かべて人差し指を艶やかな唇に当てる。
思わず悲鳴のような声を上げた彼に周囲からの視線はもはや刺さるというか圧迫感に似たものになり、彼は慌てて彼女の身体を反転させて人の少ない場所まで歩かせた。

人気のない裏庭の木陰の傍の岩に腰掛けて、漸く彼は溜め込んでいた動揺を再開させる。


「慶って、何しに。そりゃ陽子のお蔭で良くなってるが、まだ朔良が一人で旅するにゃ危険すぎる」
「ふふ、私も本当は国内を転々としようかと思ってたんだけど。前回六太君と鉢合わせそうになっちゃって、もう国内じゃ足がつくからって朱衡様が」
「にしたってよぉ…」
「大丈夫、単に市井を旅するわけじゃないから。畏れ多いお招きを頂いたから、其方に甘えさせていただくつもりなの」
「なんだ。それを早く言えってぇ、…陽子んとこなら安心だ」


くすくすと笑う彼女にあからさまに脱力して、彼は緊張を緩めてへたり込んだ。

そういえば、いつだったか鸞でそのようなことを言っていた。朔良さんが慶に来ればいいのにと、あの友人にしては珍しく駄々をこねるような口調で何度も零していたし朱衡と利害が一致したのだろう。
何にしてもそういうことならば慶から迎えが来るだろうから拐かしに遭う心配もない。

安堵して尾をゆるりと揺らしながら、彼はその大きな団栗眼を細める。


「そうかぁ慶に行くのか…あいつに宜しく伝えておいてくれよ」
「伝言があればお伝えするけど」
「…いんや。色々言いたいこととかあるけど、それは鸞でいいしな。無理すんなっつっても無理しなきゃなんねぇ時だろうし、無理を超えそうな時は朔良が止めてやってくれ」


頬の辺りを掻きながら言うと、彼女は知っていたように目を細めて笑った。
陽子と楽俊の間の絆は彼女も知っているし、過度に相手に凭れかかることも、領分を弁えず踏み入って手を差し伸べることもしないその関係が彼女には酷く好ましい。
長く目上の者に囲まれて時を過ごした朔良にはそのような間柄の者がいないだけに、楽俊と陽子が眩しくて微笑ましかった。

思わず鼠の耳の辺りを優しく撫でると、彼は照れたようによせやぃと身を捩った。


「慶にゃ色々と新しい顔も増えてるはずだし、楽しんで来いよ」
「和州の件?ふふ、そうだね。楽俊君の助けた美人さんにも会えるといいな」
「祥瓊か。あいつきっと朔良に懐くだろうなぁ、仲良くしてやってくれ」


懐くという表現はどうだろう、と僅かに苦笑を混ぜて曖昧な笑みを返す。
楽俊がそういう言葉を選ぶということは何かしら意味があるのだろう。事細かには聞いていないが辛い目に遭った子だと聞いていた、得てして朔良はそういう人間には特に親愛を抱かれやすいのだ。六太にしろ、陽子にしろ。
それは嘗て遥か昔に彼女も同じ、あるいはそれ以上の苦難を味わった人間である所為かもしれない。苦難を理解し自分を受け入れてくれる、直感的にそう安堵を与えるのだろう。

まだ見ぬ新たな出会いにそっと思いを馳せて目を伏せつつ、彼女はゆるりと立ち上がる。


「何だぃ、もう行くのか?」
「…ううん。今日は、楽俊君を連れまわすつもりで来たの」
「連れまわすってぇ?」
「朱衡様から出発の前に楽俊君に美味しい夕餉を御馳走なさいと言いつけを受けてるの。口止め料だから遠慮は無用とも」
「…そりゃぁ断れねぇな」


差し出された上質の皮の袋には、ずしりとした重みと金属同士の擦れる音があった。


要は延主従に朔良の行方を尋ねられても答えるなということだろう、確かに今までは畏れ多くも王と台補に問われて黙っていられるはずもなく答えてしまっていたので今回は釘を刺しに来たようだ。
朱衡の言いつけとあっては断るわけにもいかず、楽俊もゆるりと立ち上がる。財布は部屋へ置きっ放しだが、今回は取りに戻る必要もないのだろう。


「にしても連れまわすって、何軒歩く気だい。おいらそんな食えねぇぞ?」
「その前に、陽子様へのお土産を選ぶのを手伝ってもらえないかな。本来なら市井の物を贈るなんてとんでもないけど、楽俊君が選んだなら喜んで下さるでしょう?」
「おいらに女への贈り物を選ぶ甲斐性はねぇんだがなぁ」
「その後は歩き疲れるまでお店を見て回ろう。楽俊君の欲しいものを全部買ってお腹がはち切れるくらい食べても使い切れないから存分に浪費してきなさいって」
「とんでもねぇ、飯以外まで厄介になれるかぃ!」
「今度買ったものを仔細に報告をしないと有無を言わさず官に登用するとも仰っていらしたけど」
「………」


一応冗談めかした言葉だが、恐らく半分以上は本気なのだろう。思わず言葉を無くした楽俊に、朔良は優しく頬を緩めて彼の頭を撫でる。


「心配なの、楽俊君は頑張りすぎてしまうから。甘えてほしいんだと思う」
「…おいらを子ども扱いすんのは母ちゃんと朔良くらいのもんだ、おいらもうとっくに正丁だぞ」
「朱衡様は?」
「朔良がそうだから同調してらっしゃるだけだ」
「ふふ、ごめんね。だってこんな鼠の姿でも分かるくらい痩せてしまっていたら心配にもなるでしょう?」


そう僅かに眉を下げた彼女の言葉で、漸くここ最近の自分の不摂生が筒抜けであったらしいことを悟る。

允許を取るためには昼夜机に齧りついて勉強し、精根尽き果てて転寝をし、そして目覚めて、その繰り返し。
ここ最近まともな食事を摂っていない、今日もこうして彼女が訪ねてこなければそのまま机に齧りついて過ごしていただろう。

もしかしたら口止め料云々は自分に気遣わせないための方便かもしれない。
どこから漏れたのかはわからない、あるいはたまに窓からひょっこり現れる台補辺りが告げ口をしたのだろう。そうして畏れ多くも玄英宮の人々に心配され、こういう事態に至っているらしい。


全く、陽子を拾ったあの日から雲の上の人達が身近に思えてしまって困るな。
そんな楽俊の苦笑すら見透かしたように微笑んだ朔良に、彼は肩を竦めて隣に並ぶ。


誰かを心配するのは自分の役目だと思ったら、どうやらそうでもなかったようだ。やけに面映ゆい気分になり、鼠は緩んだ頬をぺしりと叩いた。




頑張ってる君は好きだけど、頑張り過ぎちゃうのが心配
(無理しないでなんて言えないけど、今日くらいは)




20151011