黒麒とお茶を


愛おしい子供だ。
稚い顔は無邪気さに溢れて、吉兆の証とすら呼ばれる鋼色のそれを揺らして首を傾げる様にどうしようもなく胸の奥が苦しい。
それは湧き出でる愛おしさによる切なさにも似た痛みで、それだけこの子供が清らかで尊い生き物であるということを示しているかのようだった。

自然頬が緩んで微笑むと、子供は興味を惹かれたのか小さな歩幅を目いっぱい動かして近付いてくる。
その動きすらも可愛らしかったが、流石に笑い声を洩らしては無礼にあたるだろう。彼女は何とか穏やかな笑みを保ったままでそれを迎える。

「あの、貴女は」

僅かに興奮したように上気した頬が桜色に染まっていた。それが庭園に僅かに咲く小さな花のそれに見えて、彼女はますます頬を緩めた。

すぐ傍まで近寄った子供に、彼女は恭しく頭を垂れて伏礼の形を取ろうとするがそれは慌てたような声で遮られる。

「いいんです、そのままで。…あの、出来れば、ですけど」

麒麟を前にして、叩頭するなという。
それは此方の理の上では驚くべき言葉ではあったが、蓬莱の暮らしが長く変わった気質だとは聞いていたので彼女はそのまま微笑みを崩さず頭を上げた。

そして立礼に切り替えて頭を下げた後、ふわりと柔らかな声を返す。

「それでは、お言葉に甘えさせていただきます。お初に御目にかかります、泰台輔。御目通りいただきまして至極光栄に御座います」
「そんな、僕は… 貴女は戴の方ですか?」
「いいえ。私は延王並びに延台輔の女御に御座います、此度は主上の供にと此方への御同行を御許し頂きましたが、よもや泰台輔にお声掛けいただけるなど夢のようです」
「延王の…」

彼女の柔らかな鈴の音に、泰麒は見上げながらぼんやりと聞き惚れる。

夜明けの空のように見事な色の髪を編み込んで、桜色の玉飾りをあしらったその女性は泰麒が出会ったどの女性よりも柔和な美しさを湛えていた。
女仙達の華やかさとも違う、玄君の鮮烈な美貌とも違う、どこまでも柔らかでどこか胸の奥を締め付けるような優しい美しさ。ただ自然に、綺麗だなと口から零れてしまうような。

呆然と見上げる泰麒に、彼女はゆるりと首を傾げる。

「…泰台輔?」
「っあ、ごめんなさい。…その、綺麗だなって」

思わず零れた言葉に少しだけ後悔したが、彼女は少しだけ目を丸くしただけで特に気に留めた様子はなかった。

「まぁ。泰台輔はお優しくていらっしゃいます」
「本当、ですよ?」
「ふふ、どうかもうお止めくださいませ。泰台輔にそのようなお言葉を頂けば私ははしたなく舞い上がってしまいます故」

笑った彼女はゆるりと膝を折って懇願のような礼をした。
本当なのに。そう繰り返しながら、これ以上は彼女を困らせる気がしてその言葉を飲み込む。その代わりに、先ほどまで女が見つめていた先に首を捻って尋ねた。

「何を見ていらしたんですか?」
「庭園です。…戴は見事ですね、つい先日まで王がなかったというのに、もう花が芽吹いているのですから」
「そう、でしょうか」
「はい。泰王自ら仮朝を支えておられたとお聞きしております。これからは仮朝ではなく真の王朝、きっと戴は良い国となりましょう。主上も泰王は素晴らしい御仁だと感服されておりましたから」
「…っはい」

彼女の言葉に、泰麒は満面の笑みで頷いた。

先程少々手荒(とは延麒の言葉だ)な手段ではあったが、延王のお蔭でこれまで泰麒を苛んでいた憂慮が解消されたばかりである。
選んだ王が間違いでなかったという安堵を手に入れた今では、驍宗を褒められることは何よりも嬉しいことだった。それが他でもない名君と名高い延王の言葉ならば尚更だ。


素直に喜びに染まった表情を見せた子供に、彼女は思わず溢れ出る愛おしさに思考が染まる。
そしてそのまま何も思考することなく、悪戯っぽい笑みを浮かべ金の鬣を揺らす麒麟に普段するようにそっとその柔らかい頬を撫でた。

「っわ…?」
「っ、」

きょとりと驚いた様な表情を見せた泰麒に、漸く我に返って慌てて手を引っ込める。

「っ申し訳御座いません、御無礼を」
「いいえ!大丈夫です、嬉しいです。…僕は麒麟なんですけど、でも麒麟だからって皆に距離を取られるのは何だか変な感じで。本当は、もっと普通の子供みたいにしてくれたらなって思うんです。だから、嬉しいんです」
「…泰台輔」

慌てて伏そうとする彼女に勢いよく否定を返しながら、言った泰麒の言葉には諦めたような寂しさが滲んでいた。
まだ齢にして十と少し、遥か遠い記憶の自分ですら、親を失ったのは十と二つの頃だ。この幼く尊い子供の寂しさは推し量りきれないほど深いものであろうと思うと、彼女の胸は鈍い痛みを伴って疼く。

「でも驍…主上はお優しいですし、皆良くしてくれます。だからちっとも寂しくはないんですけど、その、」

彼女の声に心配が滲んだのを察してか、すぐに表情を繕って言って見せる健気さが却って痛々しい。
この聡すぎる気質がこの麒麟に子供であるように振る舞うことを阻んでいるのだ。
そう思うとどこか六太…彼女が愛してやまない雁の麒麟と重なる部分があって、ますます彼女の胸は痛んだ。


麒麟の背負った使命が重いことは知っている。
けれど、彼らにも気を置かずに甘えられる庇護が与えられればと望むのは罪ではないはずだ。王は彼らの半身だが、半身であるが故に庇護とは異なる。
蓬山にいたころには女仙から与えられていただろうが、それはあくまで彼らが麒麟であるが故の愛だ。
彼らがたとえ何者であっても変わることのない、普通ならば母親から子に当然与えられる見返りのない愛は、親を持たない麒麟には決して与えられることがない。

慶の麒麟のようにそれを当然のものとして受け入れているのならば良い。
けれど、蓬莱で仮初とはいえ親を持っていた六太やこの黒麒の少年にはその現実は少々酷なことだ。
ただ子供として見守られ、時には叱られ、自分が健やかであることだけを祈る存在があることの甘美さを知っているからこそ。それを失うと酷く不安で寂しいのだ、例えそれが此方の理だとしても。

気丈に振る舞う幼い子供が痛々しくて、彼女はゆるりと力のない笑みを向けた。
と、またその笑みで自身の空元気が筒抜けであることを察したのか、泰麒は見る見るうちに再び顔を曇らせて僅かに俯く。

「…本当なんですよ、驍宗様は本当の王だったし、李斎殿も官の皆さんも優しくて、僕本当に幸せなんだと思うんです」
「はい。…ですが泰台輔、幸せでも寂しいときは御座いましょう」
「…幸せなのに、寂しくて可笑しくない?」
「勿論で御座います」

笑う彼女に、泰麒はいつかの不器用な慶の麒麟の言葉を思い出していた。
女仙がいても、例え誰が大切にしてくれても、彼方の家族を懐かしく思うことは悪いことではないと。

そう言ってくれた彼の言葉と、今目の前の彼女が言っていることは同じなのかもしれない。

労わる様に再び頬に添えられた細い手に、泰麒はそっと小さな手を添えて擦り寄った。
その仕草はまるで人懐こい獣のようで、やはり麒麟なのだと彼女は小さく笑みを零す。

「今がとても幸せで、それでもお寂しいのは台輔が大切なものを多く持っていらっしゃるからです。此方の戴国と、蓬莱の故郷と、どちらも大切で懐かしい」
「…はい」
「蓬莱では与えられたものが此方では与えられない。仕方ないと知っておられても、寂しゅう御座いましょう」
「…僕は麒麟なのに、普通の子供みたいに甘えたいなんて言ったら可笑しくはないですか?」
「そんなことを仰られては、延台輔はきっと酷くお困りになってしまわれます」

くすくすと笑うと、泰麒はまたきょとりと大きな黒曜を丸くして驚いた様な表情をつくった。

「延台輔?延台輔も、そうなの?」
「恐れながら、我が国の台輔は泰台輔よりもうんと甘えたがりな御方と存じております」


遥か昔、彼女に初めて会ったとき六太は泣いた。子供のように縋り付いて、しゃくり上げるように涙と嗚咽を零し続けた。
― お前のような人間に会いたかったと。

それをずっと抱きしめながら背を撫でて聞いていた彼女に、以来彼はことあるごとに甘えるようになったのだ。
目覚めも、支度も、食事も休憩も湯浴みすら、いつも彼女を呼んでは自分でできるだろうことをやってくれと急かすのだ。
しばしば王や官の目に余るほどの我儘ぶりであったが、彼女はそれを拒んだことは一度もなかった。誰に甘やかされることもない麒麟だ、自分一人くらいが溶けるほどに甘やかし尽したところでどうということはない。

そうして、六太の甘え癖はかれこれ五百年に及んで継続中という次第である。


今回も本来なら行くはずでなかった彼女を、どうしても泰の麒麟に会わせてやりたいという六太の進言で供とすることになったのだ。そんなどこまでも我儘で優しい六太の気遣いは、この幼い麒麟には伝えられていないのだろうが。

諭すように微笑んだ彼女に、泰麒は漸く紅顔から憂いを消してふわりと笑う。

「延台輔は僕より大きくていらっしゃるのに、甘えん坊なんですね」
「はい、かれこれ五百年も」
「ふふ、何だか可笑しいな。っあ、僕が笑ってたって延台輔に言っちゃダメですよ…?」
「ふふ、承知いたしました。泰台輔と、私の秘密に致しましょう」
「はいっ」

ころころと笑う幼子が愛しい。それは自然の感情で、相手が麒麟であろうがなんだろうが変わることのないものだろう。
最後にもう一度泰麒の頬を優しく撫でると、彼女はゆるりと身体を動かして廊下の先を示す。

「直に延台輔がお茶をおねだりされる頃合いです。もし御都合宜しければ、恐れながら泰台輔もご一緒いただけませんか?」
「えっ、いいんですか?」
「勿論で御座います。景台補もいらっしゃるでしょうから、大層お喜びになられましょう」
「わぁ…麒麟のお茶会ですね!」
「ふふ、何と尊い茶会でしょう。私などがお淹れするのは畏れ多い程です」

ぴょこぴょこと跳ねるようについてくる子供に微笑むと、彼は途端に思い出したような声を上げた。

「…あっ!」
「如何なさいました?」
「…あの、僕すっかり忘れてて、ちょっとお聞きしにくいんですけど」
「はい?」

ばつが悪そうに見上げる彼は、心底申し訳なさそうにおずおずと口を開く。

「その、まだお名前をお聞きしてないなって…」
「…私のような端女などの名前をお聞き下さるのですか?」
「はしため?…だって、お茶を一緒にする方のお名前を知らないのも変でしょう?」
「まぁ…」

当然のように首を傾げた泰麒に、彼女は思わず暫し言葉を失った。

蓬莱育ちであれば、おかしなことではないのかもしれない。けれど三国の麒麟が揃う空間に居合わせるだけでも眩暈がしそうなほど畏れ多いのに、まさか自分も茶会の参加者として数えられているとは思いもよらないことだ。

あまりに無知で無邪気な言葉に、彼女は堪え切れずくすくすと笑い声を洩らす。六太とは異なる無知故の無邪気さはどうしようもなく可愛らしく愛おしい。
麒麟に尋ねられて否という選択肢は存在する筈もなく、彼女はゆるりと膝を折って小さな麒麟と目線を合わせると小さく頭を下げた。

「私は璃桜と申します」
「リオウ?…どんな字?」
「瑠璃の璃に、桜です」
「ルリ?」

まだ幼い彼には難しいのか、困ったように眉を下げた泰麒にまた笑みを零す。

「璃桜は此方で頂いた字で御座います。蓬莱での名は、朔良と」
「蓬莱…朔良さん、も日本の人なんですか?」

瞳を輝かせた彼は同じ郷里を持つ人間に会った歓びを滲ませた。

「確かに蓬莱に生まれ過ごしておりました、けれど…もう五百年も前の事ですので泰台輔のお役には」
「五百年…ってことは、まだお侍さんのころ?わぁ…!あの、朔良さんってお呼びしていいですか?僕、まだ此方の名前にまだ慣れてなくて」
「…ふふ、勿論で御座います。泰台輔のお好きなようにお呼び下さいませ」

五百年も隔たりがあるとがっかりさせてしまうかと心配したが、それは杞憂に終わったようだった。
どうやら蓬莱を知っているというだけで今の彼には十分らしく、踊る様に足を弾ませて彼は朔良の腕に小さな手を絡ませる。

「行きましょう、僕いっぱいお話聞きたいです!」
「延台輔も胎果でいらっしゃいますよ、私より多くの事を教えてくださいます」
「延台輔からも、朔良さんからもいっぱい聞きたいんです。今日は戴に泊まられるんでしょう?ゆっくりできますよね?」
「…まぁ、一日台輔を独占してしまっては泰王にお叱りを受けてしまいます」
「それじゃあ驍宗様もお誘いしましょう?…いいですか?」
「…ふふ、それでは我が主上もお誘いいただいて宜しいでしょうか?泰台輔のお誘いならば喜んでいらしてくださいます」
「っはい!」


世にも珍しい黒麒の手に掛かれば、二国の王と三国の麒麟の茶会という稀有な事態が容易に整ってしまうのだろう。
無邪気で無知な蓬莱生まれの麒麟が愛おしくて、朔良は何度目かの笑みを零しながら泰麒に腕を引かれて歩く。



― その後奇しくも実現した世界で指折りに高貴な者達の茶会で、泰麒に構い倒しの朔良を見て雁の麒麟が少々機嫌を損ねてしまったのは…また別の話。



20151030