見知らぬ地 1


― 「まだ息がある」

眩しい。
そう感じること自体が可笑しいことを判断する思考は残っていなかった。

反射的に眉を顰めると、また遠くで小さく感嘆の声が響く。目を開くか否か、逡巡したのは無意識。
それは力を振り絞った身体の警告だったかもしれない、目を開くという其れだけの行為すら躊躇するほど彼女の身体は限界を迎えていた。

しかし遠くで響く声が煩わしくて、仕方なく彼女が瞼に力を込めて動かすと映った世界は一面の白だ。
彼女の目にはもうそれを写し取るだけの力しか残っていないというのが正確だった。
あまりに衰弱した身体はもうまともに視力も残っていない。


「気付いたか!」
「本当に…奇跡だよ」
「早く瘍医に」
「あぁ!」


煩い。
声など到底出ないので、胸中だけで呟いた。

思考は殆ど機能しない。
漫然と開いたままの白の世界の中で、何か影が揺れる。硬く温かい感触が額の辺りを覆って、遠かった声が耳元で囁いた。


「大丈夫だ、今瘍医に連れていく。もう少しだけふんばるんだ、死ぬんじゃないぞ」


筋一筋も動かす気力はないのでその声に応える仕草はなにも取らない。
そもそも彼女には男の言葉が理解らなかった。
身体は鉛のように重く男は励ますように何かを囁き続ける。
それはつまり、自分はまだ生き永らえていることを意味するのではなかろうか。

何故という理性も、喜びや安堵という感情も湧かなかった。
唯一浮かび上がるのは少しの落胆。

今度も、死に損なった。
その言葉だけを思考に残し、彼女は再び意識を手放した。



◆     ◆     ◆




「よう、具合はどうだい」


ひょこりと戸から顔を覗かせた男が何かを話しかけたのを、娘は曖昧に視線を揺らして返した。

彼女の細い身体には服から覗くだけでも痛ましいほどの手当ての後があり、身体は痩せて酷く危うくみえた。
しかしそれでも尚、その娘は美しかった。

問いかけたものの返事がないことは承知していたので、男はそのままずいと彼女の傍まで近付いて大きな掌を彼女の額に添える。


「ん、大分下がったな。だがあれだけ衰弱してたんだ、無理はするなよ」


そう言って笑うと娘は引き攣れたような喉で途切れ途切れに何某かを絞り出したが、生憎と男には理解できない言葉であった。
だが恐らく感謝の言葉なのだろうと察して、男は鋭い目を少し細めて乱暴に彼女の髪を掻き回す。


年の頃は四十過ぎ、あるいは五十を超えているかもしれない。
痩身でひょろりと背が高く、だが決してひ弱な印象は与えない。寧ろ皮の厚くなった硬い掌や、彼方此方に見え隠れする小さな傷や痣から滲み出る屈強さがあった。
そしてそれに似つかわしくない、決して派手さはないが一目見て上質だと分かる衣に身を纏うこの男は、名を蘇江達(そ こうたつ)という。


「しかし、まさかここまで回復するとはなぁ。お前さんを見つけた時は弔いの準備をした方が早そうなくらいだったが、よく頑張ったな」


からからと笑う江達は相手にもまた自分の言葉が通じないのを承知でそう軽口を叩いた。
と、ひょこりと江達の陰から女が現れて、笑う男の脇腹を嗜めるように軽く小突く。


「莫迦をお言いでないよ、縁起でもない!ほら、着替えるんだからさっさと出ておいき」
「おぉ、すまんすまん」


眉を顰めてはきはきとした口調で捲し立てるのは、江達と並ぶと胸ほどしかない小柄な女だった。
年の頃は江達とそう変りないように見えたが、黒々とした豊かな髪をきっちりと纏め上げ小奇麗な印象を与える。
同じく上質で品の良い衣を纏った彼女は、春玉(しゅんぎょく)。江達の妻である。


てきぱきと江達を外へ追い出して戸を閉めると、春玉は少し吊り気味の猫目を柔らかく細めて大人しく自分達の会話を見つめていた彼女の髪を梳く。

少しだけ恐縮したような色を見せた娘の顔には赤みが戻っており、仄かな桜色を湛えていた。
数日前海岸で見つけた時にはまるで死者のような青白いそれであったのを思い出し、春玉はにこりと微笑んだ。


「調子は大分良いみたいだね。汗をかいただろう、私のもので悪いが着替えると良い」


着替えを差し出すと、娘はまたか細く口を開いて何事かを溢し頭を下げる。
言葉自体は意味が分からなかったが、先ほどの夫と同様に意を察して春玉はからりと笑った。


「気にしなくていいさ、年寄りのお節介だよ。さ、先に汗を拭こう。背中を向けてご覧な」


まだ衰弱は激しく腕を持ち上げるのも億劫そうだったが、何とか汗の滲んだ重い服を脱がせると少し熱めの湯を絞った布で春玉は優しく身体を拭う。
僅かに目を伏せた彼女に、背後から春玉が語りかけた。


「本当に良かったよ。海岸で波に晒されながら倒れてるあんたを見たときはこっちが真っ青になったもんだが」
「……」


娘は黙っている。
言葉は通じないということが発覚したのは昨日の事だったが、それでも江達と春玉はこの娘に努めて話しかけることに決めていた。
言葉を失ったのか、あるいは初めから知らないのかは分からない。けれどこの先避けて通れない道ならば、早く慣れた方が良いに決まっている。

困ったような表情で黙り込んでいる娘に、春玉は夫とよく似たからりとした笑みを浮かべた。


「大丈夫、一度拾った縁だ。一人増えても困らない程度には稼いでいるから、元気になるまで世話を見てやるさ」



そのどこまでも人の好い春玉の笑みに、言葉は分からずともぼんやりと朔良はその意図を悟っていた。

海に沈んで死ぬのだと思っていた。
それが何故かどこかへ流れ着いて、挙句見つけられた相手がお人好しの物好きであったのは幸運なのだろう。
それが果たして彼女にとってもそうであるかは分からないが。

黙って目を閉じた彼女に、春玉は続ける。


「にしても、あんたどこから来たんだい。事情も分からないし、持ち物も素性が分かるものが一切なかったから私らの娘ってことにしてあるが。旌券もないし、みーんな海に流されちまったのかね」


瑠璃のように美しい色の緩く波打つ髪の隙間から、上質の蜜蝋のような瞳を瞬かせる若い娘。

その美しい容姿と、風変わりな格好から恐らく人攫いに遭ったのだろうと夫と話していた。
可哀相に、故郷に帰してやれると良いが。そんな話も。
…けれど、春玉の思考にはそれ以外のもう一つの可能性が過って仕方なかった。


― 奇妙な服装で言葉を知らない、旌券もない不可思議な娘。

その娘の様子に、いつか耳にした御伽噺の世界から極稀に流れ着いてくる異世界の民の話が脳裏を過る。

春玉も実際に目にしたことはないが、彼等は総じて言葉が通じず、物の道理が分からない様子だという。
そして虚海の果てから流れ着く彼らの多くは慶や巧、あるいは稀にこの奏に行き着くらしいと。

確証は無い、けれど、春玉は理解した。きっとこの娘はそうなのだ。
黙り込んだ自分を窺うように見つめてくる娘を慰めるように緩く撫でてて、春玉は努めて明るい笑みを作った。


「…大丈夫、大丈夫だよ」


あぁ、可哀相に。きっとこの娘は二度と故郷へ帰れない。

心優しい夫人は、目の前の年若い娘を心から憐れんだ。



20150917