瑠璃に酔う獣


民の大歓声の中で行われた即位式と、その後の諸々の格式ばった儀礼の連続を終えた泰麒が漸く自室へ戻ることを許されたのはもう月が高く昇った頃だった。
夜更かしに慣れていない幼い身体と、その身体には過ぎた疲労にうとうとと夢現で廊下を歩いていたが、ふと後ろから苦笑が聞こえてゆるゆると振り返る。

「お疲れだなーちび」
「延台輔…」

今にも蓋を閉じそうな瞼をこじ開けて一礼すると、泰麒より僅かに背の高い少年は笑ってぐしゃりと鋼色の鬣を掻き回した。
泰麒とさほど変わりのない大きさの手だったが、その少々乱暴な撫で方に労わりが溢れているのを感じて自然頬が緩んだ。
まるでお兄ちゃんが出来たみたい。それが麒麟にはあり得ないことだと知っていたが、そう思うと一層撫でられることが嬉しい。

襲い来る睡魔にとろりと溶けそうな黒曜の眼に、六太はからりと屈託のない笑みを浮かべた。

「堅苦しい口上ばっかで疲れたろ。明日も朝早いだろうし早く休めよ」
「…延台輔は、いつお帰りになられるんですか?」
「明日の昼前だな。もう少し遊んでいきたいとこだけど、王と麒麟が揃って長く国を空けると良くないらしい」
「そう、ですか」

寂しい。まるでその感情を目視できる形に具現化したような表情を浮かべた黒麒に、六太はまたがしがしと鋼色を掻き回す。

「んな落ち込まなくても近所だろーが、いつでも会えるよ」
「本当ですか…?」
「心配だしな、お前ちびだし」
「ふふ、そうですね。……あ」
「ん?どした?」

六太の言葉にふわりと柔らかく笑って、泰麒はふとずっと心に引っかかっていたことを思い出す。
尋ねようと思っていたものの目の回るような忙しさにそんな暇を与えられず、結局こんな時間になるまでそのままになってしまっていた。

首を捻る六太に、少々逸る気持ちで問う。

「あの、延台輔。朔良さんはどこにいらっしゃるんでしょう」
「朔良?」

少々目を丸くした六太に大きく頷く。

先日、泰麒の誤解を正すために訪れた延王と六太の供として戴を訪れた女御。
柔らかな笑みとどこまでも心地良い仄かな花の香りを漂わせる、母とも姉ともつかぬ言いようのない安堵をくれる人。

実を言えば、六太が即位式に現れた時泰麒は少しだけ期待したのだ。
その傍らにあの瑠璃色を纏った美しい人が佇んではいないかと。あるいは、貴賓席にいるという延の傍にいるのではないかと。

けれどどこにも彼女の姿はなく、やっぱり式典には出られないからどこかで控えているのかもしれないと宮を歩く度に姿を捜した。
でもやっぱりいないのだ。それが少し寂しくて、泰麒は疲労の上に落胆を被せることになった。

期待するような目で見上げてくる新米麒麟に、六太は困ったような唸りをあげた。
そして暫し考えるような仕草を見せた後、申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。

「あー…悪いちび、今回朔良は来てないんだ」
「え…どうしてですか?」
「もともとな、女御を公務に連れて回る王なんては稀なんだ。滞在先の者達に世話を任せるのが相手への信を示す礼儀なんだよ」

だから、今回は戴の女御が延王達の世話をする。そういうものなのだと六太はばつが悪そうに頬を掻いた。

「でも、前回いらしてくださったのは」
「ありゃ俺と尚隆の我儘。公式の訪問じゃなかったしな、俺だって世話されるなら朔良がいいから出来るならそうしたい」
「…じゃあ、特別なことだったんですね。ごめんなさい、僕、今回もお会いできるかなって勝手に期待しちゃって」

見る間に萎んでいく幼い麒麟の姿は、自分に非がないといえど流石にばつが悪かった。前回で泰麒が朔良を好いたのは知っていたが、まさか他国の一介の女御に会えないという理由でここまで落胆してしまうとは。


泰台輔に心よりお慶び申し上げ奉りますと、お伝えくださいませ。

柔和に笑って自分達を見送った愛しい彼女の姿を思い出す。
甘えたいときに甘えられて、会いたいときに会える。それはこの上なく幸せなことなのだと、しょぼくれた泰麒を見つめて今更ながら再確認することとなった六太である。

前回はあまりに朔良が泰麒に構うので少々拗ねて見せた彼であるが、目の前の小さな新米が自分と同じようにあの柔らかな笑みを恋しがっているのだと知って見過ごしてしまえるほど薄情ではないつもりだった。
がしがしと自身の金糸を乱して、六太は呆れた様に笑う。

「ちび、国が落ち着いたらさ、雁に遊びに来いよ」
「雁に?」
「そ。そしたらお前がいる間は延の女御が世話することになるだろ。…特別に少しくらいは貸してやる」
「それって…」

六太の言葉の含む意図を呑みこむまでに一瞬時間を要して、そして泰麒は弾かれたように顔を上げては花の咲いた様な笑みを零した。

「っ、はい、是非!」

単純な奴。そう呆れたような感情と同時に酷く愛しい生き物に思えて、六太は思わず小さく噴き出した。

少なくとも二国の麒麟に恋しがらせる稀有な女は、今頃何をしているだろう。
泰麒につられて一層恋しさが増したような気分になり、少しだけ自分の国へ戻りたい気分に駆られた。



20151102