花の香の逢瀬


関弓の街の賑わいから少し離れた、静かな路地に面した旅舎。然程大きくはないが厩があり、表の華やかな楼に比べて値段も安い。
旅の者にうってつけのひっそりと佇むその店は、彼女にとって馴染の深い場所でもあった。

階段を上って右手の突き当り、左に曲がって奥から二番目。先日届いた小さな文の通りに辿ると、彼女は丁寧に二回扉を叩く。
中から入室を促す声が返ったのを確認して、ゆっくりと扉を開くとふわりと甘い香りが広がった。

顔を覗かせた彼女に、中で寛いでいた男がふわりと微笑む。

「やぁ、久しいね。相変わらず一点の翳りもない目の覚めるような美しさだ、元気そうで安心したよ」
「久しくご無沙汰しておりました、お変わりなくご健勝のご様子何よりで御座います」

片や気安い友人に向けるように片手を上げて、片や恭しく最敬礼を取る。言葉の意は同じだが全く異なる形で交わされた挨拶はどことなく奇妙であったが、本人達はさして問題でもないようで触れることはなかった。

招かれるままに彼女が近寄れば、男は用意していた茶器を差し出す。先ほどから鼻腔を擽る柔らかな香りの正体であり、これもまた彼女には馴染の深いものであったので彼女は自然頬を緩めてそれを受け取った。

「有難う御座います、今年は一段と佳い香りが致しますね」
「以前君と飲んだものは蝕に襲われて香料の花が不作だったからね、今年は朔良の嬉しそうな顔が見れてほっとしているよ」
「ふふ、本当に利広様はお変わりなく」

おどけるような口調で話す利広に、朔良は可笑しそうに微笑んだ。
利広も穏やかな笑みでそれを受けて、ほんの少し悪戯な色を混ぜた言葉を投げる。

「勿論、麗しの人形殿の極上の笑顔の為なら労力は惜しまないさ」
「まぁ…あまり苛めないでくださいませ」
「知っているかい、今でも隆洽で語り継がれる御伽噺。その名も【隆洽の玉人形】、数百年前に実在した絶世の美女の話に基づいて語られているらしい、是非聞いてみたいものだね」
「…もう、御寛恕くださいませ利広様」

本当に気恥ずかしそうに顔を隠した朔良に、利広は満足したように小さく声を上げて笑う。

実話を基にしているとはいえもう数百年も語り継がれているうちに物語は随分と様相を変えている。
確か御伽噺の顛末では、数多の男に求婚されつつも結局人形は誰の申し出も受け入れず、正体は神仙であった彼女は天界へと帰ってしまうという筋書きだったはずだ。
そういえば何時か旅先で会った海客が、まるで蓬莱で聞いた物語のようだと笑っていた。きっと世界を異にしていてもありふれた結末なのだろう。


実際のところは物語の結末とは異なり、嘗て奇跡の人形と囁かれた女は天界へ帰ったわけでもなく今こうして彼の目の前でその麗しい紅顔を両手で包んで琥珀の瞳を伏せているわけなのだが。

あまりに目を惹きつけるその様に、利広は僅かに苦笑を混ぜてその手を掬い取る。

「玉人形も随分人らしくなったものだ、…少々妬けるな」
「その人形に最初に命を吹き込んだのは貴方様ではありませんか」
「だが笑顔を教えたのは私ではない。羨ましくて焦がれそうだよ、君の家公にね」
「まぁ…」

少し驚いたように瞳を丸くした朔良に、利広も不可思議そうに眉を顰めて返した。彼女の表情の意味を諮り損ねて、彼はゆるりと問う。

「何か可笑しなことを言ったかな」
「いえ、ただ、家公様と同じことを仰るものですから」
「君の家公が?…誰に妬くと?」
「僭越ながら、『言葉を教え知を与え、俺のところに辿り着くまでの全てを与えた男だけは何時までも妬けて仕方ない』、と」
「………」

おずおずと小さくそう返した朔良に、利広は暫し瞳を瞬かせて黙り込む。


彼女の家公とは、要はこの関弓の中心に聳える山の頂点に位置する玄英宮の主のことだ。つまりは、この雁州国が国主、延王。

数百年の治世を誇る賢君と名高いが、利広は延王と直接の面識は持っていない。…正確には、持っていない、ということになっている。
けれど代わりに、旅先で稀に遭遇する、風来坊気取りの女好き酒好きの扱いにくい妙な男との面識は持っていたので、彼は心底驚いたように幾度か瞬きを繰り返した。

そして、ふと可笑しそうに笑みを漏らして口元を抑える。

「…そうか、君の家公はそんなことを考えていたのか。それは何とも、」

それは何とも、小気味の良いことだ。

続きは口にしなかったが、利広の表情はありありとその心境を物語っていたので朔良も苦く笑って返す。


「相変わらず悪い御方ですこと」
「それは勿論、こんなに気分の良い話はないさ」

そう言って酷く自然に片目を瞑って見せる利広は大層機嫌が良かった。

彼女との付き合いは長い、それこそ普通の人間の生ならば四回は丸々収まってしまうほどの昔からの仲である。
彼女がこうして雁の民となってからは、利広がふらりと訪れる十年に一回ほどの逢瀬となってしまったが、それでも途切れることなく続くほどには互いに大きな存在なのだ。

「ふふ、そのようなこと。家公様のお耳に入れば私までお叱りを受けてしまいます」
「なら、お怒りが解けるまでという口実で君を奏へ連れ出すことも出来るかな」

さらりと述べて見せた利広に、朔良は少々呆気にとられたような表情を見せた後くすくすと笑い始める。

「ふふ、利広様は御戯れがお上手になられました」


それに肯定も否定も返さずに、利広もただ微笑む。


彼は永い永い時を生きてきた。それこそ人間の生を何度も見送るほどに永い時間で、多少のことでは感情を揺るがすことはなくなってしまうほどの時だ。
けれど、仙として永い時を生きた彼もやはりほんの少し意地の悪い感情は持つもので。

それは勿論朔良にではなく家公…延王に対して向けられるものだ。何せ数百年来の大切な弟子兼友人の、生の全てを握る男なのだから多少思うところはある。
そんな男から他でもない朔良のことで嫉妬を向けられるというのは何とも小気味の良い胸の空く思いだった。


くつくつと喉の奥で低く笑うと、彼は艶やかに流れる瑠璃を手に掬ってふわりと柔らかく目を細める。

「…さて、戯れはこの辺にして。お茶を楽しみながら落ち着いて話をしようか。君も私も話すべきことが山ほどたまっているだろう?」
「ふふ、はい」
「さぁ始めよう、時間は限られているからね。君の家公殿はけちだから、一時でも君を帰すのが遅くなればねちねちと嫌味を言いかねない」
「まぁ、酷い仰り様」
「事実だろう?」

肩を竦めてそう冗談ともつかぬ言葉を吐いた利広に朔良は笑みを浮かべることで返し、花の香の漂うそれを喉に落とす。

遥か遠い記憶にも、こんな風にこの青年とこの花の香を楽しんだものだ。

懐かしさに思わず目を細め、朔良はゆるゆると彼を見つめる。
蓬莱でもなく、雁でもなく。彼女の永い生からすればほんの一瞬の時間だが、彼と過ごした奏での時間は朔良にとって何物にも代えがたい。

彼女の全ては延王のものだが、彼女の過去のたった一瞬の間だけは、利広のものなのだ。だからこそ延王も許しがたいと苦々し気に吐き捨てたのだが。
夜には戻れと、そう不服そうに送り出した主の顔を思い出して苦笑しながら、朔良はふわりと微笑みながら利広に言う。

「…利広様のお話から聞かせてくださいませ、奏のお話しがお聞きしとうございます」
「さて…といっても私もほとんど奏には滞在しないものだからね。家族は相変わらず元気だし、街も変わりなく賑わっているが… あぁ、そうだ」
「はい?」
「君の故郷では慶事があったようだ。つい先日、十二国でも並ぶほどのない老舗宿である橘花楼の旦那夫婦に新しい跡取りが生まれたそうだよ」
「まぁ…!」


あぁ、懐かしい。まさかそんなふうに思う日が来るなど、あの時の自分には想像もできなかっただろう。…死を望み全てを諦めていたあの日の自分には。


大層拗ねた様子の主君を思うと心苦しいが、懐かしい地に思いを馳せながら花茶を楽しむこの時間だけは…なかなか手放せそうもない。
心のうちで主君への謝罪をこぼしながら、彼女は利広の話に耳を傾けた。



20160809