人形は踊る 4


もう御名を口にすることすら叶わない。気が触れそうな心地で、けれど咄嗟に象った表情は歓喜だ。
生きる意味はとうの昔に故国の海に喪って、遠い思い出と誇りにしがみ付いて滑稽に生を紡ぎ続け。
それすらも虚しい幻想に過ぎないのだとすれば、躊躇う唯一すらも消え去った。
せめて最後は見苦しくないように。そう思っていた。


― 高く響いた鋭い音。
目の前の男の頬は僅かに腫れて、それを為した自身の手はじわりと鈍い痛みに疼いていた。

怒りも困惑も示すことなく、眉一つ動かさずに視線を向ける利広に反して、朔良はぼろぼろと零れて頬から滑り落ちる滴を止めることができない。
自責や罪悪感などではない、それは憎しみに似た怒りだった。

「っの、名を…」

久しく口にすることのなかった、ここでは利広以外に通じることのない故国の言葉が自然と溢れた。
上手く言葉が紡げない、忘れかけた故国の言葉。けれど。

「その御方を、何も知らぬ貴方が気安く口にするな!私で人形遊びに興じるのならいくらでも道化を演じて差し上げましょう。けれどあの御方を、下らない戯れのために侮辱するなど決して許さないっ…!」

息ができない。目の前の男がひどく憎かった。

私はもう口にすることも叶わないのに。
あの御方の意志も、生き様も、何も知らずにただ己が欲を満たす為に。玩具のように気安く触れるこの男が。

息を荒げ、激しく感情を揺らして見せた彼女に男はまた薄く微笑んだ。

「そう、やはり。その“御方”こそ君の全てか」
「……今となっては」
「いいや、今もそうだろう。君は紛れもなくその“御方”の民だ」
「…何を、馬鹿な」

利広の言葉は不可解だったが、少なくとも気休めであることに違いはない。それが煩わしかった。
これまで巧みに彼女を操って人形劇を演じてきた彼の言葉であっても、もはや彼女を再び動かすことはない。

拒絶を込めて目を伏せた朔良に、彼は困ったように苦笑する。

「そも、君が胎果であろうと蓬莱で過ごした日々は偽りではない。君は紛れもなく“小松の民”なのだが、…これでも君の道標を演じた身だ、君にとって無意味で価値のない高説を垂れる気はない」
「………」
「私は家族も、国すら呆れ果てる放蕩者だ。だからこそ、誰しもが眉を顰めるような馬鹿げた夢物語を敢えて君に語って見せよう」

あぁ、耳障りだ。
そう思うのに、耳を塞ぐことも聞き流すこともできないのは染みついた習慣だった。
利広の言葉は唯一道を標すもので、一言たりとも聞き逃すことは許されなかった。その名残。
今となってはその必死さすら自嘲の対象でしかない。
ぼんやりと耳だけを委ねて、朔良は思考を沈める。

「私はね、朔良。卵果として蓬莱へ渡り、海客として再び此方へ戻った君が、他でもない僕の興を惹いてこうして此処にいることは偶然ではないと考えている。天意が君を導き、君のもとへ私を遣わした」
「……」

愚かしい。と、彼女は胸中で嘲笑う。
天意がなんだ。あの御方を救うこともしない天意など、何の役に立つというのか。

僅かに口元をいびつに歪めた彼女を見つめながら、利広はそれでも言葉を続ける。

「…只人の胎果は珍しい、何の助けもなく二度も渡ることは奇跡に等しい。けれど必然に此方へ戻る胎果もいる、教えたから分かるだろう?」
「……」

知っているとも。
女妖に迎えられる麒麟、あるいは、麒麟に迎えられる王。此方で生きるための知識として、目の前の男が朔良に与えたものだ。

それが何だというのか。
目を伏せたまま動かない朔良に、彼は喉の奥で小さく笑う。

「十年ほど前、胎果の王が立った。雁州国、先王が酷く荒らし、荒廃を極めた哀れな国を任された気の毒な王。字は確か、ショウリュウ、と言ったかな」
「……存じております」
「そう、以前話した。…あの時話すだけで終えたことが私の愚かさだ」
「…?」

それもこの男が教えたもの。他国のことも知っていたほうがいいと、合間の雑談として口にした程度の知識。
そんな話を態々この場面で蒸し返すこの男は、今更何を示したいのか。
要領を得ない利広の話に目を伏せて貫いていた沈黙を破り、朔良は緩く頭を振って目を開く。

「っ −」

開いた目に映るのは、見慣れた利広の筆で書かれた文字。
差し出された利広の手で僅かに揺れる紙面上に、書かれた二文字。

― 『尚隆』

目を見開いたまま息を呑み、動かなくなった朔良に利広は穏やかな声で囁いた。

「蓬莱で読み書きを知らず、私が教えるまで文字を知らなかった君が、私が教えずとも知っていた文字が二つあった。…何故この二文字だったのか、今となっては明白なことだ」
「っ、…さか、そんなこと」
「幼い娘が、敬愛と憧憬を込めてただ秘かに繰り返した名。君の全てである御方の名こそ、“尚隆”。君はナオタカと呼んだが、此方での音は変わる。― ショウリュウ、と」
「っ嘘!!」

反射的に否定を叫ぶ。

嘘、嘘だ、有り得ない。そんな夢物語、そんなどこまでも都合の良い馬鹿げた話。

「嘘、嘘よ…違う、そんなこと有り得ない。あの御方は、尚隆様は、あの戦で瀬戸内の海に眠られた!喪われたたくさんの小松の民とともに!」

激しく頭を振って拒絶の言葉を続ける。
そうでもしなくては、こんな甘い虚言に容易く縋り付いてしまいそうな愚かな自分が疎ましい。

利広の意図など最早どうでもよい。
どこまで侮辱する気だと激高して、紙を破り捨てて、ここを出て自分で命を絶つべきなのだ。
そう、思うのに。

「っ…、なおたか、様っ…」

書かれた文字を目にすると、実際には胸にその紙を書き抱いて涙を流すだけしか出来ない。
出来よう筈もないのだ。
嘗てどうしてもと村一番の物識りであった翁に頼み込んで、地面に繰り返し描いて覚えた名。例え文字に過ぎなくても、彼女にとってそれは愛しい主の影なのだから。

偽りの甘言であったとしても。、万に一つの可能性を確かめずに死ぬことは出来ない。

「無論、確証があるわけではない。戯言と言われればそれまでだ。けれど私は君の道標として、こう言わなくてはならないのだろう。 ― 朔良、雁へ行くといい。天意が君を導くのであれば、恐らく遅かれ早かれ君はそうすることになる」
「………」

標された最後の道。
滴に濡れた琥珀には既に狂気はなく、聡明な輝きがゆっくりと瞬いて彼を射抜いた。


20180902


リアルに何年振りだし、一話から全部書き直したいレベル