道標の祈りは海に溶ける


淡い輝きを放つ雲海を眼下に眺め、馬に似た生き物は空を駆ける。
温暖な南国といえど春先の未明の空気は冷えて、駆ける度に切る冷たい風が束ねた黒髪を躍らせた。

未だ陽の昇らない空は大半を濃藍が占めている。
東雲の際の空は僅かに陽光が混じって、彼にとっては見慣れた瑠璃によく似た色を呈していた。
それが妙に可笑しくて、…正確にはこんな些細な光景でそこに連想する自身の思考が奇妙で、彼は自嘲を混ぜた笑みを溢す。

そうして然程長くはない走駆の後、現れた凌雲山を認めて利広は手綱を引く。
跨った獣が少し抵抗するように鬣を揺らした、やはり急拵えではこんなものだろう。

苦く笑んで、彼は獣の機嫌を取りつつ下降を促す。
むずがる獣を器用に操り、危なげなく最端の隔壁へと着地すると、労うようにその鬣を撫でてやる。

「不慣れな割には上出来だ、お疲れ様」

何度か手を往復させると、獣は少し落ち着きを取り戻したように首を揺らした。
そうして鞍から身を降ろすと、振り返るより早く固い声が彼を出迎える。

「昏人の目を避けてこんな時間にこんな場所にご帰還か、まるで盗人だな愚弟」
「ただいま戻りました。こんなところでお会いするとは、奇遇ですね兄上?」

明確な険を含ませて睨み付けるのは、利広によく似た青年だった。
ただし飄々とした掴み所のない印象を思わせる利広とは異なり、如何にも真面目で簡明直截といった気質を思わせる。

その言葉通り、青年は利広の兄であり、かの宗王の太子である英清君であった。

不機嫌を通り越して敵意にも似た苛立ちを向ける兄に、利広はからりと態とらしい笑みを向ける。


「こんな端も端の隔壁まで散歩なんて、よほど頭の痛い問題がおありのようで」
「あぁ本当にな、放浪癖が鳴りを潜めたかと思えば海客の美姫に現を抜かす。身内でなければ、あるいはもう少し莫迦なら話は早いんだが」
「それはそれは。ご厚情感謝いたします、辣腕にして慈悲深い英清君」

恭しく頭を下げた弟に英清君、改め利達は盛大な舌打ちで返した。

ずかずかと荒い足取りで近寄ると、彼は愚弟の澄まし顔を抑え付けてその黒髪をがしがしとかき乱すことで何とか留飲を下げる努力をした。
文句なら何千と、それこそ枯れを知らぬ泉のように湧き上がるが、今は小言の時間ではない。

弟の傍らで嘶く騎獣に視線を映し、利達は呆れ果てたように溜息を溢す。

「……随分入れ込んだな。まさかお前が騎獣を贈るほどとは思わなかったぞ」

一見脈絡のない言葉だが、利広は兄の聡明さをよく知っていたので特に補うことをせず会話だけを返した。

「騎獣は初めてだろうから、よく馴れたものが良いでしょう?」
「だが放浪癖のお前の唯一の理解者だったろう。それすらも惜しくないほどの美姫だったわけか」
「惜しくないといえば嘘ですが…送り出した手前、餞くらいは盛大にと思いまして」
「それで自分は間に合わせの馴らされてもいない吉量を叩き値で買い取って何とか帰ってきたと。良い様だな卓朗君」

にやりと意地悪く笑う兄に、利広は僅かに頬を引きつらせる。

確かに、捕らえたばかりだからとても売り物には出来ないと渋る店の者をおして引き取ったのが傍らの吉量である。
自身の相方である慣れた騎獣は既に彼のもとを去ってしまった、恐らくもう戻ることはないだろう。


貸したのだ −つい先刻、夜明け前に橘花楼を発った朔良に。

荒廃した国への危険な旅路の背を押した責任として、せめてあの美しい娘が恐ろしいモノから逃げ出せる脚を与えてやりたかった。
本来であれば路銀と、彼の号を記した親書まで持たせてやりたかったが、力なく微笑んだ娘に固辞されてしまえば無理に押し付けることも出来ない。

『…貴方様が何者でいらっしゃるのか、鈍愚な私でも既に存じております。奏の民でない私に、これ以上その恩情を受ける資格は御座いません』

狂気を散らし本来の気質を見せた娘は、短くない付き合いである利広すら知らぬほど穏やかな顔でそう言った。
酷く疲れ切って、考えることも死を望むことすらも疲れ果てた様子であったが、それでも彼女は生きて雁へ向かうことを選んだ。

旅路の果てを、利広はもう見守ることはできない。
途中で妖魔に食われるかもしれない、拐かしに遭うかもしれない。生きて雁に辿り着いたところで、延王に会える可能性など限りなく低い。
そして会えたとしても、彼女が望む人物であるかも分からない。

限りなく絶望的な旅路を、朔良は選んだ。利広が示してしまった。
道標としての役割を終えてしまった彼には、もうその結末を知る術はないのだ。

…けれどせめて、どうかあの憐れで賢い弟子の行く末が幸福であるようにと無力な祈りを込めて。


揶揄を隠す様子もない兄の視線に、彼は思考を誤魔化すように小さく咳払いをして吉量を撫でる。

「…下手に馴らされていない方が都合が良いのです。自分に合うよう躾けられますから」
「あの娘にしたようにか」
「兄上…」

虐め過ぎだ。
そうじとり睨み付けて抗議すれば、兄は呆れたように肩を竦めた。

「厭味くらい受け止めろ。放蕩者だが莫迦ではないお前がただの美姫に酔う訳がない、ついに器量良しの嫁さんを見つけて落ち着くのかと期待したのに、盛大に肩透かしを食らった家族の落胆を慮れ」
「その件は散々否定したでしょう、私は道標であって彼女の物語の登場人物ではないのですから」
「文姫なんぞ相当期待していたらしいからな。後で顔を合わす時覚悟しておけよ」
「はぁ…」

勝手に抱いた期待が儚く散ったところで、利広が宥めてやる義理などないのだが。
何せ妹には頭の上がらない兄なのだ、何十年もそうなのだからこの先何百年経とうと形勢は変わらない。

恐らく開口一番に甲斐性なしの罵りを受けるだろうことを想像して、利広は苦く笑う。

「…暫くは大人しくしておきますよ。これ以上文姫の機嫌を損ねれば勘当されかねないので」
「当然だ、たまには太子としての義務を果たせ。特に今回は放浪と違って手土産がないんだからな」
「そうですね…有益な情報はありませんが。世にも珍しい御伽噺なら語ることが出来そうです、文姫や母上の好みそうなね」
「……結末の定まっていない御伽噺なぞ、精々寝物語か酒の肴が良い所だろう」
「えぇ、ですから酒の肴に。語り部として良い働きが出来ると思いますよ、何せ私は道標を務めた男ですから」

藍の薄れた朝焼けの光を反射した雲海が揺れる。
黎明の空に浮かぶ海は陽光を受けて琥珀色の輝きを放ち、かの数奇な運命を持つ娘の聡明な瞳を彼の脳裏に思い出させた。

親愛なる弟子、愛しい憐れな人形。
どうか幸せに。君が再び人間となれる事を、此処から祈っていよう。
それが君を遂に人間にできなかった、不甲斐ない師に赦された唯一だ。


静寂に満ちた清漢宮の最端で、道標を演じた男は静かに微笑む。



20190318

昏人は表示されなかったので漢字代えてます。
あと一話くらいで奏編終わり、の筈。完結する気がしない