人形の独り言


想像することすら愚かな、莫迦げた戯言に過ぎない。

知っている、世界は決して彼女に都合の良い夢物語を与えることはない。
例え道標たる彼が妙に確信めいた光を宿していても、到底その甘美が過ぎる妄言を信じる気にはなれなかった。

あの御方は確かに、あの忌まわしい日に故国の海に眠ったのだ。
今更の事実が揺いでしまわぬよう、もう一度深く自身に言い聞かせる。

既に地獄は見た。
何度夢でやり直しても、何度必死に手を伸ばしても、自分の腕は敬愛する主君どころか母や叔父すら救うことなど叶わない。
既に全て喪った、二度と戻りはしない。

幾千と繰り返し続け、身体に心に馴染んだ絶望は、今更示された都合の良すぎる希望を忌々し気に嘲笑する。
在り得ない、子供の空想にしても出来の悪い夢物語。
愚かしい、滑稽で吐き気すらする、馬鹿げた甘い幻惑だ。


けれど、だからこそ、 − 未だ死ねない。
やけに醒めた思考の末に、彼女は狂気を打ち捨てる。

生の希望などありはしない。ただ今は再び、甘美な死を先へ送ろう。
もう少しだけこの無意味な生を紡いで、確かに自身の生は無意味なのだと証明した上で死んでみせる。

万に一つも綻びのない真実として証明しなくてはならない。
あの御方は"唯一”小松の主であり、本来あちらに生まれる運命でない自分は"民"になり得ない存在なのだと。

そうでなければ、 −私は、





獣の嘶きが響いて、朔良は漸く思考に沈んだ意識を現実へと引き戻す。
気付けば視界は蒼から朱の混じった空に変わり、水平のすぐ傍に静かに燃える真円の陽が世界の眠りが近づいていることを告げていた。

橘花楼を発って半日以上。
思考に耽りまともな休息も取らずに来た所為か、背後に視線をやっても既に隆洽は影も形もない。
徒歩であれば十日、いやそれ以上の距離を苦も無く進めていることに、少しの安堵と言い様のない罪悪感が圧し掛かる。

朔良の身体は規則正しく揺れている。
決して不快でなく赤子を揺らすようなそれは、彼女を背に乗せた獣から生み出されるものだった。
優雅に空を駆ける、馬ともに似た獣。
― 餞別だと、ほんの少しの寂寥を瞳に混ぜた男が、朔良に貸し与えたものだ。

主に似て聡明な、主に似ず素直な、獣の大きな瞳が窺うように朔良を見上げている。
主が移って間もないにも関わらず、獣は朔良に酷く好意的だ。
駆ける速度はそのままに、首を捻って彼女を見上げては再び嘶く。言葉の通じぬ獣から与えられたそれが心配を呈するものであることを察して、朔良は軽く首元を撫で返した。

「…ありがとう」

こんな女に付き合わせてしまってごめんなさい。
呟いた言葉の先は喉の奥に飲み込んだ。謝罪を口にする資格は朔良にはない。

利広が最後に『師として、友としての餞別』という形で渡したのは、彼に良く馴れた騎獣。
妖獣に明るくない朔良には種類は分からなかったが、稀に客が連れているものとは似付かない。強く聡明な獣だと一目見て分かった。
本来であれば固辞するべきだ、そう知っていた。
結末がどちらにせよ、朔良の旅の果ては死である。返すことは叶わない、いずれ捨て置く未来を選ぶ朔良にはこの獣を借り受ける資格がない。

けれど、結果として朔良はそれを受けた。
一刻も早く雁へ、…延王が、かの若殿とは別人なのだと確かめるにはどうしても脚は必須だ。
そしてもう一つ、獣独特の澄んだ瞳に映る己の顔を見て、朔良の喉は否やを失った。

獣は清らかで強い。
自分の生に不必要な殺生はしない。
快楽の為だけに他者を貶めない。
上っ面の醜い言葉を吐くこともない。

人間から掛け離れた、清らかな生き物。

貴方がいれば、きっと私は忘れない。清らかで素直な瞳に映る度、私は自身の愚かさを思い出す。
私がたくさんの死体の上に醜く生き永らえる化け物だということを。
間違っても幻想に縋って生を望んだりしないための、精神の枷。そのために、朔良は清らかな獣を自身の死出の旅路に巻き込んだ。

ごめんなさい。
口にできない謝罪を喉の奥で呟いて首元を撫で続けると獣は心地良さそうに小さく鳴いた。


直に夜が来る。本音を言えば夜通しでも駆けていきたい心境だったが、騎獣を休ませなくてはならない。
これは死出の旅路、けれど終着地に辿り着くまでは死ねない旅だ。焦れば無様な結果になるのは目に見えている。
軽く頭を振って逸る気持ちを抑え付けながら、少し東へ進路を変える。
記憶に間違いがなければ里がある筈だ。未だ奏の国境を出ていないので治安も心配ないだろう。

「……野営が出来れば良いのにね」

優雅に駆ける獣の鼻先に視線を下ろして、胸に掛かる靄を誤魔化す。
今更『気立ての良い璃桜』の仮面に抵抗はない、けれど、つけずに済むならそれが一番良い。
無論剣の一つも扱えず身を護る術を持たない上、騎獣という頼もしいが手のかかる同行者もある状況では不可能なのだが、恨み言のように口からぽつりと零れた。
こんなことなら利広から野営の基礎も学んでおくべきだった、と、栓のない思考が過る。

程無く街の灯りと思しき光が視界に映ったのを見て、朔良は風に靡かせていた外套の端を引っ張り上げて頭から被った。
一目見て不審を煽る姿ではあるが、『玉人形』が一人通りを歩くよりは集める視線は減るだろう。

ほんの少しの憂鬱を残したまま、手綱を引いてゆっくりと下降を指示した。



20191009


久々な上に短い。大変申し訳御座いません。奏は出てないけど新章のつもり
まぁ動物界でもいじめとかあるけどね、そこはまぁね