見知らぬ地 2



肌を焦がすような熱さの中で、あの日から何度も何度も脳裏にこびり付いて離れない記憶が再び思考を支配した。


嘗て、逃げなさいと叫んだ母は瞬間矢で首を射抜かれ崩れ落ちた。
手首を落とされ、脚の腱を切られ、苦悶に転がる叔父は海に沈んだ。
一緒に逃げてくれた姉のように慕った隣人は、私を樹の上に隠すのと引き換えに村上の男達の慰み者にされて辱められ人間の尊厳すら奪われた挙句に殺された。

私は知っている、地獄なんてありはしない。だってこの世がそうなのだから。
強きは弱きを虐げる。弱い者は人間として死ぬことすら許されない。皆を見捨てて落ち延びた私だって、孰れ強い者に捕まって惨めに死ぬのだろう。

眠る間に見る地獄の繰り返し、目を覚まして襲うどうしようもない虚無感。
そうして全てを止めたくなる。呼吸も、思考も、全て止めてただ目を閉じて休めたらどんなにか楽だろうか。


けれどその時に限って、普段はちらりとも思い浮かんでくれない嘗ての優しい記憶がそれを否と拒絶するのだ。
懐かしい瀬戸内の村、小さな小さな国の穏やかな日々。
大好きな母、剽軽だけど優しい叔父、遊んで回った入江、切なくなる潮の匂い。

そして、…一度だけ頭を撫でてくれたあの御方の、涙が出る程勇ましく大きな広い背。

幸せだった、あの日地獄に変わるまで。あの人が、私たちの手から永遠に失われてしまうまでは。

『何だ、泣くな。女の涙はそう安いものではない、男を絡め取る時まで大事にとっておけ』

どこからかそんな声が聞こえた気がして、喉に押し当てた錆びた包丁を持つ腕がずるりと落ちた。
敬愛していた、どこまでも優しく頼もしい若君。幼い私に仄かな灯を燈した人。

もう会えない、二度と。
けれど、貴方が残した言葉は今でも私を縛り付ける。

『どんなに無様でも良い、生き延びろ。祀り上げてくれる民が無くては俺も踏ん反り返る位を失う、それは困るのでな』

最後に、貴方が皆の前で笑った言葉。
それは私だけに向けられた言葉ではないけれど、確かに私にも向けられたあの御方の願いだ。

あの御方のお言葉にだけは反することが出来ない。
例え暗澹とした、光など一筋も無い生であっても、紡ぎ続けろと仰った言葉が辛うじて私を甘い死の誘惑ではなく苦痛の生へと繋ぎ止める。


「…っか、様…」


込み上げる嗚咽を必死に殺して、胸に襤褸のようになってしまった布を必死に掻き抱いた。

嘗て幼い私にくださった、あの御方が夢や幻ではなかったのだと証明してくれる唯一のもの。
例えこの先一生光を感じることは無くとも、確かに幸せな日々は在ったのだと思い出させてくれるもの。

周囲を包む身を焦がす大火の中で、ただ譫言のようにあの御方の名前を繰り返した。
このまま焼け死んでもいい、その先が地獄での永遠の責め苦であっても構わない。だからせめてもう一度死への旅路の夢の中であの御方にお会い出来たら。


そうして、私は充満する人の焼ける異臭とまるで意志を持つかのように取り巻く巨大な炎の中で意識を失ったのだ。



◆     ◆     ◆



「璃桜、こっちだよ。おいで」


手招きをする春玉に、ぼんやりと空を眺めていた朔良は腰を上げる。
歩く度に下ろされたままの長い瑠璃色が揺れ、視界を掠めては改めて自分の今の姿を思い出し嘲笑が漏れた。

幸か不幸か助けられ、歩けるまでに回復してしまった自分の姿を鏡で見た時彼女は正しく言葉を失った。
何の取り柄もない黒髪に凡庸な顔つき、骨の浮いた痩せっぽちの身体。
その良く見知った筈の自分の姿は何処にもなく、鏡の中では絹織物のように滑らかな瑠璃色を肩に流し瞳には琥珀を填め込んだ息を呑むような美女が酷く驚いたような顔で此方を見つめていたのだ。

そうして暫く呆然とした後、彼女は悟る。

あぁ、やっぱり私は死んだのだ。そうして誰か別人の身体に入り込んでしまった。きっと日ノ本の国ではない、どこか不思議な世界の住人の夢を見ているのだろう。

リオウと、彼女のものではない名で彼女は呼ばれる。それがこの身体の持ち主の元々の名なのかもしれない。
違和感は大きい、自分とはあまりにかけ離れたその眩い姿は見るだけで自嘲が漏れる。けれど、それ以上は何も思わなかった。

早くこの身体を返して地獄へ行くべきなのだとは理解している、けれどその方法を必死になって探す気にもなれなかった。


「璃桜」


焦れたように春玉が再び呼ぶ。
隣で同じくこちらを見つめている痩身の男はどこか手のかかる娘を見る父親のような眼をしている。二人が夫婦であることは言葉が理解できずとも知っていた。

この二人はリオウの両親だろうか。
やけに慈しみに満ちた目で自分を見るものだから、それだけは僅かに胸の奥が痛んだ。

だが自分が娘ではないことなど伝える術もなく、彼女はただ黙って招かれるままに従って近づく。
辿り着くと、江達がくしゃりと彼女の頭を撫でて笑った。


「疲れたか?直に宿に着くさ、隆洽はもうちょい先だがな」


この夫婦に命を助けられ、早くも一月が過ぎようとしていた。

生への興味などすっかり失せている、けれど娘を慈しむ
二人の姿を見て尚この身体を粗末に扱う程には投げ遣りになれなかった。
夫婦に差し出されるままに食事を摂り、養生に専念した彼女の身体は今では普通の娘と何ら遜色ないほどにまで回復した。

そうして一週間ほど前、それまでの宿を引き払った夫婦は朔良を連れて何処かへと旅を始めた。
リュウコウ、そう頻りに地図を示しながら何度も言い聞かせるように言っていたのでそこが目的地なのだろうということは理解している。
江達の言葉にまたその地名が現れたのを聞き、彼女は小さくうなずいて見せた。


「今日は此処で宿を取るが、明日の夕方にゃ隆洽に着く。だからもちっとだけ辛抱してくれ、ちと鬱陶しいが害はなかろう」


口の端を引き上げて狐のように笑った江達は周囲にちらりと視線を向ける。
路をすれ違う者、軒先で客引きしている者、老若男女問わず彼らがこの娘を窺うようにこそこそと視線を向けていることは明白だった。

拾ったときは青白く血の気の失せた、骨ばった痩せっぽちであった身体。
それが今は程よく肉が付き、華奢ながら丸みを帯びたその姿は生来の恵まれ過ぎた容姿を一層眩いものにしている。
天女のように可憐で美しい風貌は、良くも悪くも酷く目立った。


まぁ王の膝元で拐かしってことはあるまい。
そう気楽に構えて、江達は居心地が悪そうに身を小さくしている娘を励ますようにぐしゃぐしゃと撫でまわす。


言葉が理解らず旌券もないこの娘を、彼と妻は璃桜と名付けて呼ぶことに決めた。
瑠璃色の髪、桜色の肌。安直ではあるが名は体を表すともいうので悩むことなくすんなりと決まったそれが、どうやら自分を指す名前らしいということを娘が理解するのに一刻も要さなかった。娘は聡い性分らしい。


隆洽までそう遠くない、直にこの娘にも落ち着いた生活をさせてやれるだろう。そう思うと自然安堵の息が零れそうになる。

江達はもともと隆洽で宿を営んでいる。妻の春玉と二人では到底回らない大きな宿で、それは江達の父から継いだものであった。
父のお蔭で楽に金と職を手に入れることとなった彼は、あまり商売に興味がない。昔から商才がないと父に嘆かれて、それを馬耳東風と聞き流して育った所謂脛齧りの莫迦息子である。
加えて、まるで犬猫にするように他国からの難民や身寄りのない娘を拾ってきては宿で働かせる変わり者であった。
そしておそらく、明日から璃桜もその一人になる。

大人しく撫でられ続けている娘に、彼はふと春玉と顔を見合わせて笑う。


「…さ、此処が今日の宿だ。ちぃと狭いが勘弁しろよ、母ちゃんは妙にケチっぽくてな、金はあるのに使わせてくれん」
「金ってのは自分のために使うもんじゃないよ、床じゃないだけ有難いと思いな。それにうちの宿は無駄に広いから、この子だってそのうちきっとこういう部屋が恋しくなるよ。今日までさ」


いつものやりとりで春玉が軽く江達の背を叩くと、璃桜が僅かに頭を下げた。僅かだが徐々に警戒を緩めたような仕草を見せることが二人を安心させる。

これだけの見目で、慎ましく器量も良いのだ。
海客だって言葉が通じなくたって、どうにかなるさ。

二人はそんな大層楽観的で根拠のない意見を無言で共有し、からからと笑った。



20151010