見知らぬ地 3



夢でも見ているようだった。

潜り抜けた門の先は今まで通り過ぎたどの里よりも賑やかで、人々が行き交い、活気に満ちていた。
戦に疲弊した兵士や家を焼かれ家族を殺された民もない、ただ日々を生きることに希望が満ちている世界。

隆洽とはそんな、朔良にとって非現実にすら思えるほどの繁華な里であった。
春玉に手を引かれ彼方此方で賑やかな声が響く大通りを擦り抜ける。

右も左も朔良には分からぬものばかりが並んでいて自然視線が左右へ動く。こればかりは目を伏せて俯いていることはできなかった。
幸い周囲の視線は市の品物に釘付けで朔良に集まることはなく、彼女が顔を出して左右を見渡しても居心地の悪い思いはしない。

物珍しさに落ち着かない様子の朔良に、江達が揶揄うようにからからと笑う。


「珍しいか、後でゆっくり連れてきてやるさ。とりあえず今は宿へ急ぐぞ、こう荷物が多いと買い物も出来やしねぇ」


そうして賑やかな市を通り抜け、少し喧騒から離れた場所で朔良は立ち止まった。

鮮やかな装飾の施された大きな門、花垂門と呼ばれる高級宿特有のものだが朔良は分からなかった、を潜り抜ける。
中には門に劣らぬ大きな建物と、その入り口までの間に庭と呼べるような空間が広がっていて、やけに豪華な出で立ちであった。

門の先にある屋敷の入り口の傍らで作業をしていた、庭師らしき老人が此方に気付く。
と、深々と頭を下げて江達に近付き、何事かを話しているのを朔良はぼんやり見守った。
屋敷からは次々に若い幾人かの娘が現れ、江達や春玉の旅の荷を屋敷へと運んでいた。

今夜は此処に泊まるのだろうか、今までと違い随分豪勢な宿だ。
話に聞いただけで実際に訪れたことはなかったが、恐らく日ノ本の都でもこのように華やかな宿はないだろう。門を含め建物もところどころ鮮やかな色彩が躍っていたが決して品を失わない見事な宿であった。

所在なさ気に首を捻って周囲を見渡している朔良に、春玉が見かねた様に手招きをしながらゆっくりと口を動かす。

旅、否定、此処、家、貴方、働く。

ここ一月ほどで何とか理解した単語のつなぎ合わせと、身振りから意図を解釈する。
どうやら旅の目的地は此処であり、ここが江達達の住まいであるらしい。そして恐らく今自分が借りている身体の主…リオウは本来ここで働いていたのだろう。そしてこれからは自分が。


正確ではなかったが大凡は正しく意図をくみ取った朔良は肯定の言葉を返して頷いた。
流石に一月も経てば可否の単語くらいは使えるようになる。
身振りだけでなく言葉を返した朔良に、春玉は嬉しそうに笑った。この人の好い女性は、どうやら朔良が言葉を話せるようになるのを待ってくれているらしい。

ごめんなさい、私は貴方の娘さんではないのに。
僅かな罪悪感が湧いて心の中でそっと謝罪する朔良を余所に、春玉は屋敷から出てきた娘一人に何事かを言い付けた。

癖のない栗毛を耳の下で一つに結った愛嬌のある娘で、年の頃は朔良より少し下に見える。
シュカと呼ばれた娘は承ったというように春玉に軽く礼を取ると、そのまま朔良の元に近付いた。

にこりと笑うその顔は幼かったが、子供にしてはやけに道理を弁えたような大人びた色もある。
軽く会釈を返す朔良の手を無言で掬い取り、そして宿の入り口を指さして、腕を引いたまま歩き出したのでそれに従う。



シュカに導かれるままに足を踏み入れた屋敷は、外観と違わずため息の出るような豪華な造りだった。
外観に比べ色彩は抑えられていたが、落ち着いた風合いで趣味の良い調度品がそこかしこを飾っている。
奢侈の過ぎぬ品の良さは生まれてこの方贅を知らぬ朔良にも分かるほどに好ましい。

半ば見惚れるようにシュカに腕を引かれてながら通り過ぎ、連れてこられたのは飾り気のない部屋だった。
だが通り過ぎてきた室内と比べてというもので、決して粗末でも狭くもない。
シュカに臥牀に座るよう促され、大人しく腰を下ろすと、彼女はにっこりと可愛らしく微笑んで口を開く。


「私、シュカ。リオウ、宜しく」
「っ…」


聞き取りやすく紡がれた鈴の音に、朔良は思わず目を丸くして振り仰いだ。

少女はにこりと此方を見て笑ったままだったが、その口から紡がれたのは驚くことに朔良が理解できる言葉。
― つまり、日ノ本の国の言葉だったのだ。

此方へ来てからめっきり少なくなった口数の所為で、久々に話す日ノ本の国の言葉に少し緊張しながら朔良も震える声を紡いで返す。


「…貴方、日ノ本の者なのですか?」
「ヒノモト?…ホウライ、違う。習う、カイキャク」
「ホウライ…カイキャク…?」


分からない。
言葉は理解できるものだったが、その内容は相変わらず朔良には未知のものであった。

ホウライ、あっち。カイキャク、貴女、あっちの人。
片言ではあったが必死に説明しようと言葉を繰り返してくれるシュカに、漸く彼女はホウライが日ノ本の国でありカイキャクとは自分のような日ノ本の国の人間なのだと理解する。

そして、そうなると一気に分からないことが増えた。

リオウと呼ばれる女性の身体を借りているのだと思っていた。けれど、彼女達は自身が日ノ本の者であることを知っている。
もともと此処へ存在していたものとしてでなく、何処からか流されてきたカイキャクであると。

混乱する脳内に、思わず言葉が零れる。


「…じゃあ、これは私なの?リオウという女性ではなくて、私のまま…?」


震える声は独り言となった。
あまり複雑な言葉や早口ではシュカには理解できないらしく、少女は困ったように首を傾げる。


「でも、でもこんなの別人だわ。私いつも水浴びで自分の姿を見ていたし、髪だって結っていたけれどこんなの全然似ていないもの…!」


自分は死んだのではないのか。リオウとはなんだ。何故身体が変わってしまった。此処は何処で、自分はどうやってここに来た。
どうでもいいと投げ捨てていたことが、ここにきて急速に疑問として脳裏を駆け巡る。
混乱して矢継ぎ早に話す朔良に、シュカは眉を下げて困り顔だ。

落ち着けというように両腕を顔の前で振りながら、シュカはまた片言で言う。


「ダメ。私、教える。慌てる、ダメ」
「………」


宥めるように肩を撫でる手に、朔良はなんとか混乱を殺して押し黙った。
自分より幼い、親切な少女を困らせてはいけない。それだけの理由であり、それだけで混乱が収まったわけではない。依然頭の中はぐるぐると思考で渦巻いていたが少なくとも表に出すことは抑えた。

と、シュカが少し安堵したようにほっと息をついて朔良の両手を掬って、意気込んだように声を弾ませた。


「ダイジョブ!あるじ、優しい。私、教える。ダイジョブ、リオウ」
「……あ、りがとう」


上気した頬でそう言う少女の言葉に、必死に混乱を覆い隠した。
混乱しきった頭で何とか小さな声で礼を返すと、シュカはその言葉の意味は理解できたのかやけに嬉しそうな笑顔を見せた。


「ここ、橘花楼。私、リオウ、働く。宜しく」
「…宜しく」


橘花楼。奏国が首都・隆洽に位置するこの名門宿に、朔良は暫く身を置くこととなる。



20151011