空虚な平穏 1



「おはよう璃桜姉さん!」
「…おはよう、朱嘉」


背後から突然飛びついた衝撃にも動揺を見せず、僅かに目を細めて自身の挨拶に答えた璃桜に少女はにっこりと微笑んだ。

璃桜の細い右腕に縋るように腕を絡ませ、機嫌良さそうに笑って彼女を見上げる。
それに二、三度軽く頭を撫でることで答えた璃桜に、シュカ、改め朱嘉は漸く絡みついた腕から離れて隣に並んだ。


「今日はね、新鮮なお魚を買っておいでって。あと油と卵と蜂蜜」
「分かった」
「璃桜姉さんがいたら安く買えるから、お金が余ったらおやつを買ってもいいって」
「そう」


些か硬い声色であったが、きちんと会話の成り立つことに朱嘉は満足そうに笑う。


この人形のような美人が主である蘇夫妻に連れられてやってきてからどれほど経っただろうか、短くはないがさほど長くもない。
相変わらず表情は乏しく受け答えもたどたどしいものであったが、それでも最初の全く言葉を知らぬ状態から自分の片言の指導のみでここまで習得してしまうとは驚きだ。

瑠璃色の艶やかな髪、蜜蝋のような瞳、桜色の陶磁器のような肌。
それら全てが美しく、表情や言葉に乏しい璃桜の態度が更に作り物のような美を惹き立てる。
そして故に時折見せる憂えたような複雑な表情がまた周囲を魅了した。

それらは市の人間も例外でなく、こぞって値を下げたりおまけをくれたりするものだから、いつしか買い出しは璃桜が担当することとなっていた。そして、その璃桜と最も意志疎通が図りやすい朱嘉も必然的に。

未だに明け透けに心を見せてくれない璃桜は、その見目も相俟って使用人の一部からお高く留まっているなどとやっかみを買うこともあったが、朱嘉はそうではない。
固く閉ざされていた心の奥に触れられぬ事情があるのを察していたし、徐々に言葉を返してくれる璃桜が嬉しかった。
璃桜と言葉を交わす度、それほどまでに固く閉ざさなくてはならなかった彼女の過去を思うと痛ましい気分に襲われる。


「璃桜姉さんは何が食べたい?御饅頭?揚げ餅?」
「…何でもいい」


ある程度会話が出来るようになった頃、尋ねたことがあった。

璃桜とは、まだ彼女と意志疎通が困難であった頃に蘇夫妻が名付けた仮の名前である。彼女の本来の名ではなく、いわば字のようなものであった。
ならば本当の名があるはずだと、朱嘉は尋ねた。璃桜という名は美しく彼女にとても相応しかったが、親から授けられた名があるならば其方が望ましいだろうと。

けれど璃桜は複雑な表情を浮かべた後、黙って首を振ることで答えた。それ以上は何も反応はなく、名を忘れたのか言いたくないのかも分からない。
それ以降何となく掘り下げることも憚られて、朱嘉や周りの者達は主が授けた璃桜という名で彼女を呼び続けている。
過去を無為に暴くのは折角落ち着いている璃桜の心を再び乱してしまいそうで、誰もが璃桜に直接過去の事や蓬莱の事を尋ねようとはしなかった。

朱嘉などはすっかり彼女を好いて、姉さんなどと呼んでいたが璃桜本人から否定はないので許容されているのだろう。宿の者も大半は不慣れな璃桜に好意的で親切である。
そんな風に過去をやんわりと避けながら、それでもゆっくりと璃桜はこの宿に馴染みつつあった。


二人は衛士に挨拶を交わしながら花垂門を潜り抜ける。
通り過ぎる際に会釈をした璃桜に、衛士の一人がうっかり手にしていた槍を落としかけた。まだ年若い男で、彼が璃桜に恋慕を寄せていることは既に使用人に知れ渡っている。

挙動不審の青年に朱嘉は笑いを堪えながらちらりと璃桜を見上げたが、その顔は相も変わらず無表情であった。
些か残念な気持ちを覚えて、朱嘉は市への道を歩きながら璃桜を見上げる。


「ねぇ、璃桜姉さんはお慕いしてる殿方はいないの?」
「…何」
「何となく。だって姉さんったら色んな殿方に声を掛けられるのに、ちっとも顔色を変えないんだもの」
「…………」


しまった。
拗ねたように言って璃桜の顔を見た後、朱嘉は即座に己の発言を後悔した。

他愛もない世間話のつもりで振った会話だったが、見上げた璃桜の顔はいつの間にか悲痛な表情に染まっている。
何かを堪えるように黙り込んで、朱嘉の方を見ようとはしなかった。

自身の迂闊な発言が、触れまいとしていた璃桜の過去を揺さぶってしまったことに気付き、朱嘉は何とか話題を変えようとしたが上手く言葉が浮かばない。
口を開いては閉じ、間抜けのその動作を四回ほど繰り返した辺りで、璃桜が小さく言葉を零す。


「……とても」
「っえ」
「…とても、大切な人。忘れてはいけない人が、いる」


朱嘉は泣きそうになった。
たどたどしく絞り出すように紡がれた言葉の一言一言と、今にも泣き出しそうに歪んだ璃桜の表情に胸の奥が締め付けられるほど痛かった。

反射的に朱嘉は璃桜の腕を思い切り引いてその美しい顔を両腕に抱き寄せた。
朱嘉の方が小柄である分、璃桜の体勢は崩れ膝をつくこととなったが、構わず朱嘉はがむしゃらにその髪に顔を埋めて必死に歯を食いしばって涙を堪える。


「…ごめんね、璃桜姉さん。私、考えなしで」
「…ううん」
「ごめんなさい、…本当にごめんなさい」
「いい、朱嘉。気にしないで」



― 繰り返される少女の懺悔を聞きながら、朔良はぼんやりと遠い過去に思いを馳せていた。

違う世界、違う景色。戦のない平和な世、優しい人々。違う名前、違う姿。
全て失って、もう嘗ての世界など泡沫の夢のようにすら思えて。忘れようと思えばきっと忘れられる、あの酷い戦も目の前で繰り返された惨劇も、徐々に薄くなっていくのを朔良は感じていた。
時間はかかっても、きっといつかこの傷は癒えるのだろう。そう思えた。

けれど、


けれど、どうしてもあの御方を失った痛みだけは。
薄れるどころか日に日に疼きを増して、微温湯のような今の日々との対比のように苦痛が増してゆく。

平和で、良い人々に囲まれて、幸せで。あの御方はもういないのに、どうして私はこんなにも恵まれた場所でぬくぬくと生きているのだろう。
小松の民は皆死んでしまったのに、どうして自分だけがこんな。ごめんなさい、ごめんなさい。


たった一人の幸福が酷く虚しくて、罪悪感に押し潰されそうで、苦しかった。



20151013