空虚な平穏 2



目覚めて、働いて、また目を閉じる。日々はその繰り返し。
漫然と過ごし、鏡を見る度に相変わらず人形のように無表情で酷く美しい娘の空虚な瞳と目が合う。
その度に自分はもう自分ではないのだと思い知らされ顔は更に造り物のように強張った。

与えられる食事は質素ながら確りと腹を満たすに足りる量であったし、休息も十分なら僅かながら給金すら与えられる。
衣食住を保証され、どんなに恵まれた待遇であるかは重々理解している。蘇夫妻に拾われた者達は皆幸運だ。


けれど、その幸運に思考を預けて生きることはどうしても彼女には出来なかった。きっと誰も責めたりしない、けれど自分自身がそれを決して許さない。

もう二度と瀬戸内の海には戻れないのだろう、とぼんやりと直感のように感じていた。
自分はもう小松の民ではありはしないのだ。ならば生き延びよという嘗ての主の言葉も、もうきっと自分には当てはまらない。

それでも尚彼女が日々を送っているのは今はまだどうしようもなく死を焦がれる衝動が影を潜めているからに過ぎなかった。
いつ彼女の耳元に囁きかけるか分からない、そしてひとたび囁かれれば今度こそ彼女は躊躇いはしないだろう。
もう何も、彼女を生に繋ぎ止める理由は無くなってしまったのだから。
そんな危うい均衡の上で彼女は辛うじて生に傾いている。


言われるままに働いて、朱嘉に教えられるままこの不可思議な世界のことを頭の隅に刻んでいく。未だ言葉は不自由だが、意志疎通が図れない訳ではない。

此方が王と麒麟の治める十二国からなること、朔良がいる場所は奏とよばれる最南の国であること。
そして生きていくためには旌券、戸籍が必要なのだと朱嘉が言う。
戸籍があれば土地が与えられ、結婚し子を持つことも出来る。

けれど奏では海客には旌券は与えられない、だから橘花楼に拾われて職と住む場所を与えられる朔良は酷く幸運なのだ。


だが幸運だと知りつつ、それでも彼女は大した感銘は受けなかった。
与えられた幸運は朔良が望んだものではない、例えこの瞬間に江達が現れて出ていくように言われても構わなかったし、そうすれば自分は異国の地の何処かで飢えて死ぬのだろうと淡々と他人事のように理解している。

生きようが死のうが構わない。
この身体が自身のものとは到底信じ難かったが、他人のものでもないというのなら朔良が死ぬことを躊躇う理由にはなり得ない。


ぼんやりと手を動かして皿を洗いながら、まるで明日の天気を気にかける程度の気分でいつこの生が終わるのかに思いを馳せる。
死は苦しいだろうか、今までの自分の生よりも。
須らく死は疎まれる、けれど彼女にとってはこの世の何よりも甘美な響きだ。



ふと厨場の庖丁が目に入る。良く手入れされて鈍い輝きを放っていた。
あれを喉に押し当てて、ほんの少し勢いを付けて引くだけで。


それは影を潜めていた筈の誘惑だった。まさに今耳元で死が誘いの囁きを零す。
何も思考する必要もなく、朔良の細い腕はふらりとその柄に伸びた。

そして、柄を握ってまさに喉元へ引き上げようとしたその瞬間。



「璃桜、ちょいと」


ふと後ろから声を潜める様に呼ばれ、肩が揺れる。

緩慢に振り返れば眉を顰めた春玉が此方を見つめていた。
覇気のない瞳で見つめ返すと、春玉はその手に握られた庖丁と朔良の様子を見て一瞬目を丸くして固まり、大きく頭を振る。

近付いてきた春玉の手にやんわり庖丁を奪われ、朔良はそのまま視線を落として虚空を見つめ続けた。

「…璃桜、あんた」
「………」

おそらく春玉は気付いたのだろう、朔良が誘惑に身を預けたことを。

悲しげに眉を顰めた春玉は、それ以上何も言葉を発さなかった。
ただただ悲痛な色を宿した瞳で朔良を見つめ、そしてゆるく溜息を零すと朔良の手を引く。

「おいで」
「…?」
「私の部屋だ。何、叱りはしないよ。安心してついておいでな」

笑った春玉は優しいが有無を許さぬ強さで朔良を引くと、そのまま軽快な足取りで三階の自室へと朔良を導いた。




◆     ◆     ◆



「そこへお掛け、今お茶を淹れよう」
「…仕事中、なので」
「厨場を血塗れにしようって子にゃ仕事はさせられないね」
「……」


やはり筒抜けだ。特に罪悪感を抱くこともなく朔良はただぼんやりと思考した。
死に損ねたことを惜しいとは思わなかった、どうせ何れ春玉の目を盗んで同じことを繰り返す。
今回はただ、そういうことになっていただけのこと。

「お座り」

やはり空虚な視線を彷徨わせる朔良に、春玉は大きく息を吐いて少々語気を強めた。
と、思い出したように素直に傍の椅子に腰かけたことに満足して、春玉は二つ茶飲みを机に置いて自分も腰を下ろす。

「璃桜」
「………」

俯いたまま答えようとしない娘に、春玉はふと柔らかい笑みを向けた。
そして暫し考え込むように沈黙した後、ゆっくりと子供にきかせるような口調で語り始める。


「…昔話をしようか、つまらない話だが付き合っておくれ」
「………」

答えはなかったが、春玉はそのまま話し続ける。

「私はもともと巧の生まれでね、あの国には有名な花街がある。そして二十年ほど前にはちょいと名の知れた花娘もいてね。名は紫苑、二胡の上手な器量良しの人気の花娘さ」

歌うように語る春玉の言葉を、朔良はただ漫然と耳に通すだけだった。

ゆっくりとした話し口だったので内容は辛うじて理解できたが、さして興味は惹かれない。
何となくニコというものは楽の類であろうと推察できたが、生まれてこの方そのような雅な遊びに縁のない朔良にはどんな音色か想像もつかない。

反応を示さない朔良を気にした様子もなく、春玉は続ける。

「紫苑は親に売られた娘だった、花娘として生きる自分が吐き気がするほど忌まわしくて惨めだったが、花街以外に生きる場所はなくてね。ただ男に抱かれ馬鹿げた睦言を囁かれ続けた、時には手酷い客もいて殴られることもしょっちゅうさ。毎日目が覚めるのが苦痛だった」
「………」
「…それでも、どれほど自分が惨めで忌まわしくても、死ぬことだけはしなかった。死にたいとそれだけを考えながら、二胡を弾いてその衝動を誤魔化した。下卑た客相手の伽でも二胡の事ばかり考えてやりすごした」

春玉は途中から物語という態を繕うことを忘れたのか、どこか冷めた目で語り出す。

その姿に、朔良は悟った。
そして嘗て子供であった自分を木の上に隠して村上の兵に辱められた隣人を思い出す。
思い出すだけで吐き気の込みあがるような、嘲笑と呻きの入り混じった忌まわしい行為。
女は所詮男の慰み者で、人間として見做されることなどないのだと知った光景。


春玉の語る内容に少しだけ思考を奪われ、ふと見上げると春玉は部屋の隅に置かれていたものを手に取った。
愛おしげに撫でるそれは糸の張られた細長い小さな琴のようなもので、恐らくそれがニコなのだろうと察しがつく。


暫し楽器を手で遊ばせて、春玉がすっと表情を引き締める。
と、その瞬間から室内に優美な音の旋律が響き満ちた。流れるような手の動きと初めて聞く音の整列に、朔良は思わず春玉を見つめて固まるしかできない。


ほんの数十秒ほどかき鳴らすと、春玉はふと柔らかく表情を緩めて笑う。


「…とまぁ、昔死ぬことばかり考えていた哀れな花娘も、蓋を開ければちょいとだらしないがお人好しの夫に拾われ変哲もない幸せな暮らしをしてるわけさ。生きるってのは何があるか分からないね」
「…身請けを?」
「へんてこな客でね、花街一の花娘と豪華な臥牀が整ってるってのに二胡を弾けって聞かないんだよ。そんで二胡に満足すれば夜通しぺらぺらと話し続けて、翌日にゃ目の飛び出るような大金を耳を揃えて持ってきて紫苑を寄越せと言いやがる。…大層な酔狂漢さ」
「……そう、ですか」

からからと笑って金を叩きつける江達の姿は容易に想像できる。頬を緩めて嬉しそうに語る春玉の瞳は過去を見つめていて、まるで恋に酔う娘のようにはにかんでいた。

それ以上返す相槌が見当たらずぼんやりと二胡を見つめていた朔良に、春玉はふと我に返ったように苦笑して手にしていたそれを朔良へと差し出した。

意図が分からず眉を寄せる朔良に、春玉は笑う。


「つまらない話はここまでだ。要は死なずにいさえすりゃ何がある分からないもんだ、死ぬのは馬鹿だよ」
「……私は、もう」
「璃桜、あんたは自分に甘くなるべきだよ。忘れろとは言わない、死にたいと思うのならそれも良い。けれど、人間は少しだけでも全てを忘れる時間が必要なんだ」
「………」
「楽は思考を忘れるのに持ってこいだ。なぁに私も腕は落ちたが素人に教えるくらいは訳ないだろうさ」
「………」


春玉はこの娘が出会った瞬間から死にたがっていることを知っていた。

溶けた蜜蝋の瞳の奥は冷め切って、嘗て花街で男の道具として弄ばれ続けた娘と同じ瞳をしていたから。
死は容易い、全ての終わりだ。苦しみも絶望も消えて無に還る。
だが、この娘にはまだ早すぎる。


気休めでもいい、この娘をこの世に掬び止めるものを一つでも多くつくらなくてはならない。
…そしていつかこの子にも、嘗て自分を救った男のような存在が現れれば。


二胡を白く細い手に握らせながら、春玉は祈る様に目を細めた。



20151109



私が二胡習いたいだけの話