空虚な平穏 3


春玉が二胡に弓を引いた瞬間、まだそんな感覚が残っていたのかと自分のことながら嘲笑が漏れた。

今も変わらずふとした瞬間に死への誘惑は姿をちらつかせることもある。
けれどあまりに熱心な春玉の様と、彼女の手に握られた二胡が奏でる深く甘い音色を前に否と答えることが出来なかった。握らされた弓を離すことが憚られた。

死に損ないの癖に楽に興じるなど自分が愚かしくて滑稽で、何故拒まなかったのかは未だに良く分からない。
それでも朔良は春玉に呼ばれれば断りはしなかったし、言われるがままに二胡に弓を引き続ける。


それを数回も重ねれば、春玉は自分の事のように喜んだ。
単純な曲ならば既に春玉の手を借りずとも奏でることはできる。
楽に触れるのは初めての事であったがすぐに違和感は溶けて不思議なほどに二胡は朔良の手によく馴染んだ。

相変わらず表情は人形のように固かったが、それまでただ言われるがままの行動以外何一つ自分の意志を見せなかった娘が楽を嗜むようになったことは屋敷中に広まっている。
そしておしゃべりな使用人を経て門番へ、市へ、客へ。

次第に広まっては皆でその様を想像し雑談に花を咲かせるのだが、実際に彼女が楽を興じる姿を見た者はいない。
朔良が二胡を手にするのは決まって春玉の部屋で、そこへ無断で入ることが出来るのはその夫江達のみだからだ。

とある客が強請ったところで眉を吊り上げた春玉が花街にでも行けと有無を言わさず叩き出してしまって以来、誰も彼女の楽を聞きたいと頼むことが出来なくなってしまった。


そんな春玉の気遣いもあり、暫く朔良は誰に急かされるわけでもなくただ二胡とだけ向き合っておけば良い空間におかれた。
朔良のような素人がただ弓を弾くだけでも二胡は深く甘い音色を奏で、静かな室内がその音で満ちるとあるいは幻想の中に揺蕩うような不可思議な感覚に包まれる。

ある程度を教え込んでからは春玉は一切口を出さなくなった。ただ傍で目を細めて朔良が漫然と二胡と戯れるのを見守るだけだ。
会話は一切なく、故に朔良はただ二胡の音色に思考を浸す。


弓を弾く間に浮かぶことは様々だ。
自分の部屋、厨場、客間、中庭、花垂門、市への道、賑やかな市、街の中央に聳え立つような不可思議な岩肌、春玉、江達、朱嘉、使用人達。

そこまでいくと、もう朧げにしか浮かばない蓬莱の景色が蘇る。
身を焦がす大火、粗末な寺、荒れた山野、船の浮かぶ瀬戸内、母の最期、叔父の断末魔、村上の兵の顔、平和だった頃の穏やかな村、村の大人たち、

そして、


『あんたみたいなお子様にゃ貸せないよ、壊されたら大事だ』



…ふと嘗ての記憶が蘇る。

嘗て、海辺の小さな村で酔狂なことに楽を嗜む女がいた。村人には芸妓崩れだと囁かれ、村では少々爪弾きにされるような人間だったと記憶している。
けれど幼心に、朔良はその女が酷く羨ましくて堪らなかった。

特別美しいわけでもない、器量も良いとはいえず、働き者とも言えなかったがそれでも楽の腕だけは一人前だった女。
女は村人の誰も親しい人間などいなかったが、それでもたった一人だけ、彼女を救う存在がいたことを朔良は知っている。


『良い音色だな、もう少し傍で聞かせてくれるか』


遠巻きにする村人の中からひょこりと顔を出して、からりと闊達に笑った男の言葉に女は嬉しそうに頬を染めて笑う。
その光景は幼い朔良の脳裏に焼き付いて離れなかった。その女の表情をつくるものが何であるか、女はその男の為だけに楽を弾き続けているのだと知った。

羨ましくて堪らなかった。
美しくなくとも、器量が良くなくとも、あの御方に声を掛けていただける彼女が。
自分も楽を弾ければ、あるいは。そんな浅はかな子供の短慮で女に教えを乞うて、母親に叱られたことを思い出す。




…あぁ、そうか。

そう思い当って、朔良はぴたりと腕を止めた。
途中で曲を止めた朔良に春玉が首を傾げたが、構うことなくただ俯いて額を手で覆う。

そうか、そういうことだ。
こんな有様になって、それでもなお楽を拒否しきれなかったのは。意識にはなくとも、やはりあの御方の幻影にしがみ付いていることには変わりなかった。

今更楽など身に着けたところで、もう聞いて欲しいと願った人はいないのに。



ふいに、可笑しくて堪らなくなった。同時に酷く安心して、弓がずるりと右手から落ちる。
春玉が慌てた様に駆け寄って肩に手をかけたが、反応を返すことなくただ小さく笑い続けた。

本当は少しだけ、自分が恐ろしかったのだ。
呑気に楽などに興じることのできるようになってしまった自分が。
小松を、主を忘れて愚かにもこの不可思議な夢の幸福に浸ってしまったのかと。


けれどそうではなかった、自分の行動すべては嘗ての主に繋がっている。
忘れてなどいない、痛みは増していく。それは酷く辛いことだったが、朔良にとっては酷く安堵すべきことだった。


「璃桜、璃桜!大丈夫かい、確りおし」
「………」


唐突に笑い出した娘に、遂に精神を病んでしまったかと背筋にぞくりとした冷たさを感じながら春玉はその肩を強く揺さぶる。
すると娘は乾いた笑いを収めたが、未だに頭を落としたまま顔を上げようとはしなかった。

不安になってもう一度名を呼びかけた時、春玉の耳に微かな囁きが耳に入る。


「…っか、さま… …たか、様…っ!」


嗚咽交じりに零されるその声は恐らく海客の言葉であったので、春玉には理解できなかった。
けれど、恐らく人間の名であるのだろうと察している。出会った時からこの娘が魘されるときに決まって口から零れる音であったから。


― ナオタカ。
その人間がこの娘の何であったのかは春玉には知る由もないことであったが、此処までこの娘を苛み続けるその人物を少しだけ恨みに思うのは春玉の自由だ。

春玉は端整な眉に皺を寄せ奥歯の奥を噛みしめながら、壊れた様に同じ音と涙を零し続ける娘の背を優しく撫で続けた。



20151116