空虚な平穏 4
弓を弾くと深く甘い音色は幾重にも重なって、単なる音色の連なりではなく明確に旋律を持つ楽として静かな室内に響き渡る。
弾き終わると余韻のように残る音の残滓に思考を預けながら、朔良は腰掛けた窓枠から外をぼんやりと見下ろした。
下では庭師の老人と朱嘉が忙しなく両手を叩いて称賛の意を示していたが、特に感銘を受けるでもなく再び視線を室内に戻して窓を閉める。
春玉の心配をよそに、あれ以来朔良は自室でも自発的に二胡を遊ばせるようになっていた。
春玉の部屋だけで行われていた密かな楽は、窓枠に腰掛けて弾く朔良の気まぐれによって漸く公となり、その妙に引き込まれる音色で更に熱を帯びた話題として人々の間で広まっている。
あの日以来、朔良の二胡の腕は異常に上達していった。教えていた本人である春玉すら目を丸くするほど、もう二胡で生計を立てられるのではないかと思えるほど。
それは偏に朔良の中で楽に傾倒する正当な理由が腑に落ちたことに起因するのだが、この世界の誰もそんなことを知る由もない。
小松を忘れてなどいない、主を裏切ったりしていない。
その事実だけが朔良に二胡を取ることを赦し、ただ暇さえあれば弓を弾くことを赦した。
仕事以外のほとんどを二胡に明け暮れ、そして春玉も認めた少しばかりの才があれば上達は必然の事だ。
今日も午下がり、昼食をとることもせずぼんやりと部屋へ戻っては二胡を遊ばせる。
午後は休暇が与えられている、市でも覗いておいでと言い付けられていたが外へ出る気は更々なかった。
ここ最近は弓を弾いて思い浮かぶことは蓬莱のことばかりになった。
あの惨憺たる光景も脳裏に浮かぶが、それ以上に穏やかな瀬戸内の村や優しい人々の幻想が思考を満たす。二胡との戯れは朔良にとって喪われた懐かしく甘美な世界への追想だ。
そのまま再び弓を弾き、また嘗ての故郷の記憶に身を沈めようと目を伏せた時、
― 「良い音色だ、少し傍で聞かせてもらっても良いかな」
「っ…」
ふいにその空間に異質な声が割って入る。
遠い故郷の光景を掻き消した無遠慮な声に身を固くして、思わずその方向を振り向くと占めていた筈の扉の前に男が佇んでいた。
黒髪を肩に流し緩く纏め、涼やかな目元を柔らかく細めた美丈夫だ。
旅装束といった態の簡素な服装だったが少しも草臥れた様子はない。まるで貴人か豪家の跡取りとでもいう風体の男に、彼女は怪訝と驚きを織り混ぜた視線を向ける。
「あぁ、驚かせてしまったかな。気にせず続けてくれ」
莫迦な。その声は音を得ることはなかったが、朔良の凍りついたように冷たい無表情が如実に表していた。
気にした様子もなく簡素な椅子に勝手に腰を掛けて、にこりと微笑む男に朔良は声にならず口を何度か動かす動作を繰り返す。
「…そんなに驚かせたかな。一応客で、怪しい者ではないんだが」
やはり、間違いではない。朔良は自然小さく息を呑んだ。
困惑したようなその言葉の内容が問題なのではない、男が発する言葉自体が異常だった。
彼の言葉は朔良の脳内にするりと溶け込み、造作もなくその意味を理解することが出来る。
…海客である朔良がだ。
ある程度単語の羅列から文章らしいものを組み立てられるようになった朔良だが、未だに逐一脳内の単語を引きずり出して訳さなくてはならなかったし早口や難解な単語は理解できない。
なのに、この涼しげに微笑みを浮かべている男の言葉はその全てを不要としてそのまま朔良の思考に受け取られた。不可解で、不審ですらあった。
警戒を滲ませながら、まさかと思いつつ言葉を思考する。
いつ以来だろうか、もう半年は経つ。時折独り言のように零す以外は無用のものとなってしまった。忘れていないと良いのだが。
そうして、暫しの思考の後漸く口を開いて言葉を紡ぐ。
此方では誰にも分かるはずのない、日ノ本での言葉を。
「…貴方、海客なのですか」
震える言葉に返ってきたのは一瞬驚いた様な表情と、その後の穏やかな微笑みだった。
頭を振って応えた男に、朔良はますます身を固くする。
「そうか、貴女は海客か。…海客にしては珍しい色のようだが、蓬莱にはそんな美しい髪を持つ女人がいるのかな」
「……私は今日ノ本、蓬莱の言葉で話しています。何故、貴方は」
何故言葉を理解する。海客に教わったという朱嘉ですら、朔良の言葉を十に一つも理解できないというのに。
あまりの未知に警戒を顕わにして冷ややかな視線を浴びせたが、男はあぁと思い出したように声を上げて目を細めた。
「そうか、何も知らないのだね。奏では海客は珍しいし、機会がなかったのか」
「…何を」
「私は一応仙の端くれなんだ。だから言葉が分かる、蓬莱の言葉を知らなくても分かる言葉として聞こえる身体なんだ」
「……セン?」
知らない単語に思わず眉を顰めると彼は苦笑する。
まるで無知な子供を相手にして困惑しているかのような素振りで、朔良はどうやら男の言うことが出任せなのではなく自身が無知であるのだと認めざるを得なかった。
じわりと、久しく感じなかった熱が胸の奥でくすぶるのを感じていた。
言葉が分かる者がいる、海客ではないにも関わらず。それは、あるいは再び自分はあの海に戻れるかもしれない僅かな希望だった。
例えもう何も残されていない、絶望だけの郷里であってもあの場所に存在することが朔良の全てだ。
あの場所で、小松の民として死ぬことが朔良に残された唯一の誇りなのだ。
帰りたい、あの海に。嘗ての主が愛した小松の民として。
僅かに光を戻した蜜蝋の瞳に、男は小さく感嘆の息を洩らした。
隆洽のそこかしこで奇跡の人形と讃えられた娘は、感情をちらつかせるとなお一層美しく心を惹きつけるものがある。
懇願するような瞳でじっと自分の言葉を待ち続ける娘に、男は小さく肩を揺らして苦笑した。
…二胡の音色に少しばかり興を惹かれて、ちょっかいをかけてすぐに退散するつもりだったのだが。どうやら少々深入りすることになりそうだ。
男はゆるりと机越しのもう一つの椅子を示して、涼やかに笑う。
「長くなりそうだ、腰を据えて話をしよう。とりあえず掛けなさい。私は利広。とある宿屋の道楽息子で、江達の旧友だ」
「……璃桜、…いえ、朔良と申します」
「そうか、朔良が真の名か。良い名だね」
「………」
此方で与えられた名ではなく、本来の名を答えたのは予感があったからだ。
きっと、この男がこの微温湯から私を引き摺りだす。そんな確信に似た直感だった。
じわり。胸の奥が焦げた様にちりつく。
20151116