人形と道標 1



ふわりと甘い茶葉の香りが漂う室内で男はゆるりと微笑む。

本来家族、主に兄と妹の機嫌取りの足しになればと懐に忍ばせていた隣国の土産だったのだが、まぁいいかと特に深い思慮もなく封を開けてしまった。

香るのはこの季節になると隣国に咲き誇る白い花の香。
なるほど売り子の言に偽りは無かったようだ、上品なそれは茶の風味を殺すことなく仄かな存在を漂わせて舌の肥えた彼を十分に満足させるものだ。

一口口に含んで機嫌を良くした彼がふと視線を上げると、相変わらず目の前の人形のような女はそのはめ込まれた琥珀を真っ直ぐに自分へと向けている。
その熱烈とも呼べる視線が妙に擽ったく感じられて、彼はくすりと小さく声を漏らした。

女に現を抜かすほど若くは無い、見目の美しい女に囲まれる機会は少なくなかった。
故に目の前の女の美しさは目を奪われることはあっても、心まで掠め盗られるほどではない、のだが。

先程室内から漏れ聞こえた二胡は確かにこの女が奏でたものであり、澄んだ美しさを持ちながらあまりに底が深く、決して奥を見せる事のない湖面のようなその音が自然彼を室内へ導いた。
何年ぶりかも分からない知人の店に偶然思い立った自分が訪ねたその日、部屋の前を通りがかったその瞬間、偶然休暇を与えられた女が二胡に興じ。
そうして生まれたこの邂逅をただ偶然と一言で片付けるには惜しい気がしていた。何か運命に似た何かが動いた末の出会いであるような、そんな直感。


何せ彼女の二胡が導いたのは他の誰でも無く、この自分であるのだから。

そんなことを胸中で零して薄く笑ったが目の前の女には知る由も無いことだ。
予想通り差し出した花茶に目もくれず自分の言葉をじっと待つ彼女が言葉を発さないのを良いことに勿体ぶっていたのだが、流石にそろそろ意地が悪いだろうか。

「さぁ飲むと良い、今年は特に出来が良いと言っていたから口に合うと思うよ」

その優しげな声は彼女の眉一つすら動かすことは叶わなかった。
なるほど、手強いな。苦笑を零して今度は些か不敵な色を滲ませるように声色を作る。

「…これではまるで私が苛めているみたいだろう?江達に見られたら心証が悪い、それなら私は早々に退散してしまおうか」
「……いただきます」

あからさまに動揺に揺らいだ琥珀が酷く愉快だった。人形と呼ばれた女が自身の言葉で表情を揺らがせるのは心地が良く、やはり自分は意地が悪いのだろう。
ゆるゆると手を伸ばして少し冷めた花茶を嚥下する様を見届けると、利広は僅かに目を細めて彼女へ向き直る。

「さて、では本題に入ろうか。しかし私では何から話せば良いのか判断しかねる、君から尋ねてくれると有難いのだが」
「…センとは、何なのですか。貴方が私の言葉を理解なさる訳を教えてください」
「あぁ失礼、御尤もだね」

全く気を許した様子の無い固い声色が妙に可笑しかった。
警戒心の強い生き物は嫌いではない、美しく賢い生き物ほどその傾向は顕著であるのが常だ。

「仙とは仙籍に入った者のこと。少しは此方のことは学んでいるのかな?」
「…国主や政のことは少し」
「王が不老であることも?」
「……話だけは」

信じてはいないが。そうありありと見える彼女の言葉の端々が一層彼の笑いを刺激する。

「王だけでなく、仕える官も不老となる。皆王が朽ちるその時まで仕える為に仙籍に入るんだ」
「…籍、」
「仙籍に入れば人ではない。そう簡単には死なないし、どういう仕組みかは知らないが言葉の不自由もない身体になるらしい」
「…官吏でいらっしゃるのですか」
「……いいや、残念ながら。数は少ないが、官でなくとも仙籍に入る術はある」

冷たさの増した瞳を見て、利広は一瞬でこの娘が官吏と言う存在に嫌悪を抱いていることを悟った。
表情は相変わらずだがなんとも分かりやすい娘だ、江達も面白い拾い物をする。

「官に嫌な思い出が?」
「……」
「…なるほど。残念ながら蓬莱は伝説通りの夢の園というわけではないようだ」

黙した返答が呈すのは肯定だろう。
争いのなく飢える事も無い、美しい山野の広がる理想郷。そんな言い伝えを鵜呑みにしていたわけではないが、苛烈なまでに冷えた色で自身を映す琥珀がその絵空事の愚かさを示しているようだった。
特にそれ以上の反応もなく、娘はふと視線を落としてゆるりと口を動かす。

「…日ノ本に」
「……」
「蓬莱へ戻る術を、どうか教えてくださいませ。私は戻らねばならないのです」
「…彼方に家族が?」
「……いいえ、」
「では何故」

それほどまでに絶望に染められて尚、待つ家族も無いにもかかわらず。
戻りたい、とは言わなかった。まるでそれが定められた義務でもあるかのように、戻らねばならぬと明確に口にしたことが彼には理解できない。

ただそんな怪訝を露わにした利広の視線をあざ笑うかのように、彼女は美しい顔を苦痛に満ちた歪な笑みで歪めて吐き捨てるように零す。

「…何故?決まってる。私が命を許されるのは、あの海だけだもの」
「…この世の誰も、生きることに許しなどいらない」
「……」

琥珀の瞳が激しく揺れて、逡巡したように彷徨った後ゆるりと伏せられる。
それは利広の言葉に対する拒絶であり、利広はその美しい娘が人形とならざるを得なかった過去を朧気ながら感じ取ることとなった。
意図せず語調を強めることとなった利広に、朔良は縋るように深く頭を下げる。

「…利広様、どうかお願い申し上げます。私をあの海に、小松の海に帰らせてくださいませ。私は、あの地を離れて生きることは許されないのですっ…」
「………」

歪んだ瞳は滴を湛えて酷く美しかったが、利広にはその姿がまるで縋るものを必死に求める幼子に映った。
美しい人形のような女、それがその実は酷く危うい均衡の上で保たれていた仮面であったことを理解する。

…この娘はもう、既に壊れてしまっている。二度と自身の意思で生を望むことは無いのだろう。
ただひとつ、故郷への強い執着だけが今こうして彼女の身体を動かしている。その執着の意味を利広が知る術はないが。

各国を彷徨ってある程度見識の広さを自負している利広でも海客を目にするのは初めての事で、それほどに海客という存在は稀なのだ。その上更に蓬莱へ戻った海客の話となると聞いたこともない。
蓬莱の言い伝えを信じて虚海の果てを目指した者達の話は少なからず耳にしたが、それらの結末は皆一様に夢物語を信じて命を捨てた愚か者を笑うそれで締めくくられる。

それほどに蓬莱は遠い。彼方へ渡る者など存在し得ない、…それこそ神の眷属でも無い限りは。
喩えば今此処で、目の前の娘が唯一縋るその望みをうち砕いてしまったら。

僅かに目を伏せて、利広はにこりとその秀麗な顔に笑みを象った。

「蓬莱に行った話はほとんど聞かない、少なくとも人間では無理だろう」
「……人間、では」
「そうだね、或いは仙籍に入った者なら。とは聞いたことがあるけれど」

嘘ではない。それは海客はおろか人間として生まれた者には決して及ぶことのない神々の世界の話ではあったが、彼らもまた仙という括りには違いないのだから。

彼はこの手の駆け引きを得意としていたので目の前の娘の瞳が絶望に塗れる事は無かった。
代わりに更に灯の宿った琥珀が彼の貼り付けた笑顔を鏡のように映し出す。

「仙と、なる術をお教えいただけませんか」
「滑稽だね。言葉すら儘ならず旌券すら持たない君達が仙になるなんて、雲を掴むような話だと思わないか?」
「たとえ永劫叶うことのない道でも、それが唯一の術ならば…私はそこから逃げることは許されません」
「…ふふ、頑迷だね。けれど」

けれど、嫌いではない。
僅かな迷いすら浮かばない琥珀の瞳に、思わず小さく吹き出して笑った。
無知故の無謀と言えばそれまでだ。けれどその美しく儚い容姿にそぐわぬ愚かしさが、長き時に飽いている彼には酷く尊く眩いものにすら映る。

…どうせ暫くは家族が遠出を許してくれないだろう。ならば暫しこの愚かで美しい女の行く末を見守ってみるのも一興かもしれない。
胸中で苦笑して、利広はその白い陶磁器の様な手を引いて含みのある笑みを浮かべて見せた。

「朔良、取引をしないか」
「…取引?」
「旌券を手配してあげよう。これで君はこの世界で生きるに足りる最低限を手に出来る」
「……私は、何を」

僅かにその柳眉が動く。得体のしれない小娘に戸籍を用意するということが如何に困難な事かを察するのは容易い、そしてそれはそれに足る対価を求められるに等しい。

じわりと焦燥に似た色に揺れる琥珀に、利広はあっけらかんと笑顔で言い放った。

「何も」
「…なに、も?」
「私は私で勝手に愉しませてもらうよ。君は思うままに生きればいい、興が乗った時は手助けしてあげるし興が削がれれば勝手に消える。…あぁでも、たまにあの二胡を聴かせてくれると有難い」
「……貴方、一体何者なのですか」

僅かに呆れたような、初めて警戒と絶望以外の感情を滲ませた鈴の音に利広は酷く機嫌が上向きになるのを感じながら微笑みを返す。

「言っただろう、とある宿屋のただの道楽息子さ。少し人脈が広いだけのね」
「……感謝申し上げます、利広様」
「…聡い子だ、朔良」

話す必要も、聞かせる価値もない。ただ大人しく私を楽しませてくれ。

そんな己の意図を正確に読み取って戯言を追求することも無く、深々と頭を垂れた女は一体どんな結末を見せてくれるだろう。
帰る術など無い。その真実に辿り着くまでの偽りの希望の中で別の生きる意味を見出すのか、あるいは、このまま故郷への執着に溺れたまま命を絶つのか。

…やはり私は意地が悪いのだろう。
冷めた花茶を一気に飲み干して、彼は目の前の女の艶やかな瑠璃を見つめて目を細めた。



20160131