ハジメマシテ


「やぁお姉さん、ちょっと聞きたいんだけど」

胡散臭い、面倒臭い、帰りたい。目の前でにこりと笑う彼は大層綺麗な笑顔に隠しきれない何かを孕んでいた。
夜中の歓楽街で、女に声を掛ける男。それだけで彼が少なくとも善良な一般市民である可能性は否定される。まぁ斯く言う彼女も同類であるが。

返事をするのも億劫であったが、寧ろ此処で無視したところで余計な手間が増えるだけだ。
彼女は至極面倒そうにその柔らかな髪を掻き上げてその男に向き合い、そしてまじまじとその人を見つめる。

一言で言うならば、闇だ。真っ黒なコート、真っ黒な髪、ただその中で唯一光る血のような赤の瞳が煌々した輝きを持って彼女を真っ直ぐに捉えている。
その瞳の中には言い知れぬ狂気が滲んでいて、厄介な人間に捕まったと後悔と少しの恐怖に身体を固くした。

こんな人間が、一体自分に何の用だというのか。

「…見覚えがない」
「うん、初対面だからね。ちょっと君にお願いがあるんだ」
「脈絡もない。…けど、これ以上帰る時間が遅くなるのは避けたいから手短に済ますなら聞く」
「それは有難いね。じゃあ遠慮なく」

にこり、酷く整った容姿で笑顔を浮かべるその男は普通ならば見惚れても可笑しくない美しさであったが、生憎彼女はそれに感銘を受けることは無かった。
ただ淡々と、さっさと話せという意志を込めて男を見つめる彼女に彼は楽しそうに笑う。

「それにしてもお姉さん、さっきまでと随分キャラが違うようだけどそっちが地かな?」
「…『さっき』?」
「そう、お店での君さ。…『凛ちゃん』、だっけ?」
「っ…!」

ぴくり、楽しげに放たれた言葉と同時に彼女の細い肩が揺れる。

「男に媚売って愛想振りまいて金を巻き上げる、水商売ってそういうものだろ?事実君もそうだ、今日は随分と羽振りのいい男を相手にしてたみたいだけどお得意様かな」
「…見てたの」
「あぁ誤解しないでよ、別に責めてるわけでも軽蔑しているわけでもない。俺はそういう浅ましい人間が大好きだし金なんてどう使おうがどう稼ごうが自由だ、俺も裏金に世話になる類の人間だしね」
「そう、でもそんな話は至極どうでもいい。…早く用件を済ませてくれる」

じとりと睨むように男を見つめる彼女に彼は巫戯けるように肩を竦めて、「やれやれつれない女の子だ」と演劇めいた口調で呟く。
妙な人間だ、彼女は小さく溜息を吐いた。

「用件は至極単純さ、今日の男が話していた組織の情報を教えてほしくてね」
「…守秘義務を知っている?」
「あぁ勿論タダとは言わないよ?これでも情報屋を始めて長いんだ、その点は心得てるさ」
「………」

嫌な男だ。密かに先程の認識をそう改めて、彼女は更に深い溜息を吐く。

彼女の職業柄、普通では知りえない裏の世界での情報を耳にする機会は少なくない。と同時に今回のように情報を求められることも無かったわけではなかった。
尤もその場合は大抵が筋骨隆々の柄の悪い人間であったり、はたまたその逆の警察関係者がほとんどであり、今回のような痩身の美男子一人というケースは初めてであったが。

「…で、どう?教えてくれるの?」
「…お金はいらない、困ってないから。但し条件が二つ」
「何?」
「私が『凛』であることは口外しないこと、今後仕事帰りに声を掛けないこと」
「OK、交渉成立だ」

にっこりと笑う彼に再度溜息を溢しつつ、ポケットに手を突っ込んで彼女は掌に収まるほどの大きさの物体を彼に投げつけた。
結構なスピードで投げられたそれを危なげなく受け取って、彼は感心したように小さく口笛を吹く。

「へぇ、用意周到なことだ。慣れてるね」
「…貴方みたいな人に時間を取られるのが嫌いだから、きな臭い話が始まったら毎回そうしてる」

彼の掌の上には、小さなレコーダー。それを再生して確かに件の内容が録音されていることを確認すると、彼は至極嬉しそうに笑みを浮かべて彼女に微笑みかけた。

「録音も完璧、優秀だね。君とは良いビジネスが出来そうだ」
「出来ればこれで最後にして欲しいものだけど」
「でも二つ目の条件はそういう意味だろう?今後は、ということは今後があるということだ」
「…正式に客として来るなら歓迎する、報酬は店にお金を落としてくれればいい」
「…ふーん。ま、用も済んだし今日はこれで退散することにするよ。これ以上拘束してご機嫌を損ねても困るからね」

既に手遅れだけど。そう心の中で返して、彼女は彼の言葉が終わらぬうちに再び脚を進めだした。
時計の長針は既に四分の一程進んでしまっている、帰って入浴して寝るという予定のリズムを狂わされたことに溜息を溢しつつ脚を速めようとすると、背後から再び声が掛かった。
仕方なしに振り返ると、彼はにこにこと笑う。

「折角知り合ったんだ、名前教えてよ」
「…どうせ知ってるんでしょう、情報屋を名乗るくらいなんだから」
「まぁね。でも本人から聞くのとではまた違うだろ?」

あぁ、面倒だ。この男と出会ってからの短い時間で何度この単語を浮かべたか分からない。

「……橘千鶴」
「うん、千鶴ちゃんね。俺は折原臨也、これからも末永く宜しく頼むよ」
「っ…!」

瞬間、彼女は勢いよく振り向いて男を見つめようとした。が、既に振り返った先に彼は居らずただ夜の街の灯りだけが彼の居たその場所を虚しく照らしている。

『折原臨也』、その名を知らずに暮らせる幸せな人間がこの街にどれほどいるだろうか。
一度は息を潜めた鼓動が再び早さを増していくのを感じながら、彼女は誰もいない空間を見つめた。

「…どうしよう、と後悔しても遅いんだろうけど」

厄介な人間と関わりを持ってしまった。彼女の本日何度目かの溜息は夜の歓楽街に散る。



20120225