忠実な狼
こう見えて、諸々の事情から外見から想像されるよりも僅かばかりは生きてきた時間は長い。
曲者揃いの付喪神達にも引けを取らない程度には色々なことを心得ている自負があった。
自身を過剰に卑下する霊刀の写しも、綺麗でなくては捨てられると怯える刀も、無くした過去を求める脇差も、贋作を忌み嫌う真作も全て可愛いものだ。
彼らが可笑しく愛しくはあれ、困惑することはなかった。
ただ、最近思い知らされる。
最もそつがなく面倒事から縁遠そうな優等生こそ、実は最も油断ならない御仁であるらしいと。
にこりと柔和な笑みを描いたその口から零れる、どこまでも溶かすような穏やかで甘い声は、油断をすれば気が付かぬままに主導権を浚われる。
蕩けた蜂蜜のような瞳を細めて見つめられると、普段ならばどうということもない戯れの言葉もどうにも上手く躱すことが出来なくなる。
別にそれで酷く動悸がするわけでも、妙に胸の奥が甘く疼くわけでもないのだが、どうにも調子が狂わせられることは認めざるを得ない。
負けるわけではない、だが、決して勝てない。
出会って暫くの頃ならいざ知らず、今現在において他の刀のように愛しく可愛らしいなどという単純な表現をあの刀にも当てはめるのはどうにも違和感があった。
あの豪快な薙刀でさえそう表現することに躊躇いなどないにも関わらずだ。
強いて言うならば平安生まれの諸氏に関しても若干躊躇いはあるのだが、まぁそれでも老成したものなりに可愛らしい面もあるもので。
件の彼とは少々違和感の質が異なるし、此方はあくまで好々爺然とした振り回し方であるのでいっそ諦めもついた。
別に持て余しているわけではない、彼も他の刀と同様に信の置ける愛しい刀には違いない。
「けれど、」…という表現になる。その先は上手く言葉が続かない。何と表現したものか分からないのだ。
困る、は不正解ではないが的確ではない。彼のその態度を止めてほしいと願っているわけではないし、接し方を変えてほしいとも思っていない。
ではどう言えばいいのだろう。どうしてほしいわけでもない、もしかすると問題は彼というよりは自分自身なのだろうか。
あの程度を、いつもの調子で躱すことのできない自分。単なる戯れか、あるいは忠義のそれだと受け取ることに違和感を抱いてしまう自分。
少しばかり長く生きても尚、こんなくだらないことで動揺する。何とも情けない話だ。
庭に咲く芙蓉を愛でる振りでぼんやりと巡らせたその思考に、不意に割って入る声。
「主」
― 相も変わらず耳触りの良い声だ。
呑気にもそんなことが過ぎる頭に我ながら肩を竦めつつ首を捻ると、想像通り煮詰めたような蜂蜜とも澄んだ琥珀とも表現できる色を湛えた瞳が柔らかに此方を見下ろしていた。
「何を思案なさっていらっしゃるのですか」
「…んー?そうだね、一期さんのことかな」
普段通りの調子でそう返す。これに照れるか、鼻で笑うか、笑い飛ばすか、調子を合わせるか、あるいは無視か。他の刀ならばそういったところだろう。
だが彼に関してはそう簡単な返しは期待できない。
細めた瞳を一転してぱちりと瞬かせると少しだけその端整な顔に朱を交え、そして微笑う。
「…貴女の心に僅かでも自分の居所があるというのは、何とも幸福なことですな」
あぁ、違う違う。
そこはね一期さん、例えば薬研みたいに「光栄だな、といっても俺はいつも大将のこと考えてるけどな?」とか、あるいは長谷部みたいに「有難き幸せ…!!」とかって涙ぐむとか、そういうのが正しいの。
そんな、まるで恋に焦がれる年若い青年のような顔をしちゃあ、私どうしたらいいか分からない。
どうにも言葉の続けようがなくて、とりあえず隣を勧めると彼は拳一つ分の距離を置いて座った。
それが近いのか、はたまた遠いのか。それも良く分からない。とりあえず、最近の彼はこの距離がお気に入りらしいことは知っていた。
何とも表現し難い感情に戸惑って空を仰ぐと、彼はまた私を見つめて笑った。
「主」
「んー?」
「私のことを思案くださったと仰いましたが、何か結論が出ましたか?」
「………んー」
生返事を返しながら、妙に嬉しそうに溶けた笑顔が気に掛かった。
嫌な予感、とは少し違うのだけれど、なんだか唐突に今まで均衡を保っていた勝敗の天秤がぐらりと傾くような予感がして答えるのを躊躇ってしまう。
けれど濁したままで逃がしてくれる様子もなく、仕方なく肩を竦めて口を開いた。
「色々考えたんだけどね、何も有意義な結論は出なかった」
「そうですか」
「…私も聞いていい?」
「はい?」
「何でそんなに嬉しそうなの?一期さん」
尋ねると、彼は意外そうに眼を見開いて、そして悪戯っぽい笑みを浮かべる。
その笑みは弟達が悪戯をする時の表情に似ていて、何だかんだ兄弟というのは伊達じゃないなとまた取り留めもない考えが過ぎった。
そんな道草を食いに走る私の思考を引き戻すように、彼は含みのある微笑みでこう答える。
「結論が出ないと良いと思ったのです」
「…どうして?」
首を傾げると、彼は勿体ぶる様にしなやかな人差し指を口元にあて囁くように私に耳打ちした。
― 「恋は思案の外、と申しますから」
あぁ、そうか。
彼が、刀でありながら男であることを望むから。だから、他の刀とは違うのだ。
そう呑気に納得して、さてこれからどうしたものかと頭を捻らせた。
忠実な狼