花湖



とても、とてもとても、気が狂いそうになるほどに、疎ましかった。
だから殺したの、二度と私の世界に現れないように。
間違っても再び視線を交わすことがないように、指先が触れることがないように。

けれど ―




「あぁ、どれ程この瞬間が待ち遠しかったか!久しぶり、私の愛しい乙女。ざっと1500年ぶりくらいかな」
「………」

がっしりと腰を拘束する手の強さと、ふわりと香る花の匂いに眩暈がする。
悪夢だ、正しくそれに違いなかった。
遠慮なしに身体に巻き付いた手を引き剥がす気力もなく、彼女は酷い頭痛と眩暈に悩まされていた。

今朝から嫌な予感はしていた、…いや、予感というよりは確信だろうか。
金にも似た色を宿す目を輝かせて、七色に輝く石を詰めた箱を抱えた少女に笑顔を返しながら。

あぁきっと喚んでしまうのだろうと。それだけの素質も、資格も、その少女にはあったから。
― 冠位魔術師を使役するに相応しい主の器。

…仕方ないことだ、こればかりは。そう覚悟をしたつもりでいたのだけれど。

いざ直面すると度し難い感情の波が渦巻いて、彼女はたっぷり数秒の間をおいて、漸く辛うじて言葉を絞り出せるまでに精神を持ち直した。

「…………魔術師、」
「何かな、愛しい乙女」

へらり、柔和と呼ぶには些か緩み過ぎた笑みで男は答える。
あぁ駄目。限界だわ。

続きを告げることはせず、彼女はついと右手を動かし、そして

「失せろ」

― 男の姿がぐらりと歪んだ




「……はぁ」

ふわりと鼻腔を擽る紅茶の匂いに思考を預けながら、彼女は治まる気配のない眩暈に溜息を零す。
気を落ち着かせようと淹れたそれだったがあまり効果は望めそうにない。

分かっている、冷静になるべきだ。
例え自身にとっては世界の崩壊などより余程悲劇的な事態であっても、他の人間にとってはきっと喜ばしいことなのだから。

少なくとも人類を救うという大義名分で祀り上げられ、人理修復を成した今ですら何かと無理難題を強いられている少女にとっては、冠位を有する魔術師の召喚は悲願だったに違いない。
…分かっている、あの子のためだ。

胸中で暗示のように繰り返しながら、滑らかに揺れるシルバーブロンドの絹糸を無造作にかき上げて深く椅子に凭れ掛かる。
そんな彼女の努力を嘲笑うかのように、視界の端で不快なそれがころころと笑った。

「やぁ流石は私の愛しい乙女。人間の姿になっても目の覚める美しさだ。いやまぁ、本音を言えば私は本来の君の方が好みだけどね」

あぁ、耳障りだ。舌打ちを零しそうになったが表面上は無反応を貫いた。
どんな反応もあれを喜ばせるだけだと知っていて、わざわざ言葉を返してやる必要もない。

しかし彼女が紅茶を嚥下することで何とか押し込んだ衝動を消化しきるより早く、男は浮ついた様子で口を動かし続ける。

「それで、今の君はなんと呼べばいいのかな。ヴィヴィアン?エレイン?それともニムエかな?勿論君が君である以上呼び名というのは重要な意味は持たないが、やはり愛しい乙女を呼ぶ名がないというのは味気ないからね」
「………」
「本来なら君が憐れにもそんな様になってしまった経緯も、今の君の名も知っている筈なんだけれど。
困ったことに私の目は君にだけは届かない、あの時に君が掛けた強力な呪いのお蔭で。まぁ、私としてはそれはそれで楽しいから問題ないけどね」

くるくると饒舌に回り続ける男の言葉を聞き続けるのが堪え難く、ついに彼女は舌打ちで応じてしまった。
忌々しげなそれの矛先である男は、奇怪なことに見る見るうちに表情を輝かせて満面の笑みを作る。
嫌悪でも侮蔑でも、果てには殺意であったとしても。彼女から発せられるものであれば一切の例外なく、男を喜ばせる術にしかなりえなかった。

昔から酷く、それが癇に障るのだ。

「あぁ、いいねぇその表情!あの時、私を閉じ込めた時を思い出すよ。そう、私は君に何でもいいから感情を向けてほしかったんだ。
勿論それが好意であればこの上なく望ましいが、例え負の感情であっても無よりはよほど素晴らしいものだからね」
「…… ―っ」

限界だ。

恍惚とした様にすら映る男の表情にざわりと全身の肌が粟立つ感覚に襲われて、彼女はそのまま右手を振り下ろした。
例え紛い物の分体でしかないとしても、これは冠位を与えられた程の魔術師だ。彼女がどうこうできる相手ではない。
分かっている、だからこそ躊躇わずに彼女は断行した。

彼女の手に呼応するように再び男の姿がぐにゃりと歪んで、男を中心とした巨大な水球が淡い虹色の光を放つ。

「…わ、わっ。ちょっと待った!それは困るよ愛しい乙女!」

徐々に歪みが大きくなり、水球が徐々に小さくなっていくのに気付くと男は焦ったように声を上げた。
その懇願を意に介した様子もなく紅茶に口をつける彼女の傍ら、遂に男が人の形を留めなくなったところで、突如水球が弾ける。


― 球体が崩れ飛散した水滴は、床に着地する前にふわりと桃色の花弁へと姿を変える。
桃色の雪が降る空間に男が重力を感じさせない軽やかさで現れ、幻想的とすら呼べるその光景に彼女は盛大な舌打ちを零した。

予想通りの結果、故に腹立たしい。
花弁を舞わせた男はころころと笑いながら、冷えた表情で睨みつける彼女の頬にするりと手を寄せた。

「刺すような軽蔑と嫌悪、嬉しいよ愛しい乙女。けれど時空の果てに捨てようとするのは困るな、せっかく君に会う為に来たのに」
「造作もなく抜け出した癖に、鬱陶しい」
「酷いなぁ。君の魔力が著しく下がっているから良かったものの、召喚に応じるために急拵えしただけの器では結界から抜け出るのは中々の大仕事だよ」
「…夢魔風情が英霊の真似事か。笑わせる」
「無論、その通り。けれどどんなに滑稽だとも私は吝かではないよ。君と言葉を交わす為なら、紛い物の霊基越しでも構わないのさ」

会いたかった、私の愛しい乙女。
そう甘く蕩けきった表情で囁いた男の手を押し退けながら、彼女は辟易しきったようにまた溜息を零す。

気持ち悪い、昔と何一つ変わっていない。
この男は夢魔という非人間である癖に、さも人間のように振舞って執着を己に向ける。それがひどく違和感で空々しくて不愉快だった。
滑稽だ、愚かしくて憐れで見ていられない。
あまつさえ恋愛なんて最も理解しがたいだろう感情を、よりにもよってこの私に向けようとするなんて。

可哀想な夢魔。
見るに堪えなくて、二度と見なくていいように私の世界から殺したのに。まさかこんな形で再び遇うことになるなんて。

「…憐れな男。千年以上離れても、倒錯から覚める事が出来なかったのね」
「寧ろ逆効果だったようだよ愛しい乙女。永い孤独の間、思うのは君のことばかりだったからね」
「どんなに姿を似せても、感情を演じても、決して人間にはなれない。お前も、私も」
「そう、お互い所詮紛い物だ。だからこそ、私は君に恋い焦がれる」
「………」


莫迦な男。
たった半分でも人間の血が流れているのだから、せめて焦がれる相手くらい選べばもう少しましだったろうに。
何を間違って、よりにもよって化け物に過ぎない私なんかを選んでしまったの。


「………本当に、憐れだわ。マーリン」
「…あぁ、愛しい乙女。また君の声で名を呼んでもらえるなんて、夢のようだよ」


文字通り蕩けるように破顔して、壊れ物を扱うかのような手付きで抱きしめる男の手をついに彼女は受け入れた。



(人間の姿になってカルデアに滞在する湖の乙女と、千年以上経って余計拗らせたストーカーの話)