天邪鬼は嗤う


― 【新着メール1件】


視界の端に散らついた青い光に呼ばれ手を伸ばせば、液晶に表示されるその文字に彼女はゆるゆると息を溢した。
この携帯を光らせる事が出来る者はそう多く無いし、こんな深夜にメールを送ってくる人間なんてその中でも更に限られる。そしてその内容は大抵呼び出しである事が多かった。

仕方無しにボタンを押すと湯船に張られた水面がちゃぷりと踊る。
条件に該当する人間は彼女がこの時間の入浴を習慣としている事を知っているし、そして千鶴という人間が自分の生活を乱されることを何より嫌う事を知っている。
それでもなお送ってくるという事はよほど火急の用事か、はたまたそれを無視して自分勝手に呼び出す人物か。
まぁ、後者に該当する人物などたった一人しかいないのだが。

どちらにしても風呂から上がってから行けばいいだろう。
そう考えながら取り敢えず文面に目を通した彼女だったが、画面を見つめて数瞬後には僅かに目を見開いて硬直することとなる。
…そして、そのまた数瞬後には勢い良く湯船から立ちあがり、最低限の衣服を付けて彼女は部屋を後にした。



◆    ◆     ◆



かちゃり、静寂に響く微かな音を立てて、高級そうな扉は抵抗することなく彼女を迎え入れた。
不用心に施錠されていない扉、というよりは、住人が態と施錠をしなかったというべきだろうか。何故ならこのマンションはオートロックなのだから。

一声かけるでもなく遠慮なしに他人の家に上がり込んだ彼女は、ぐるりと部屋を見渡して漸く暗がりの中ソファに腰掛けている人物を視界に捉える。
闇に溶けそうな、全身を黒に包まれた男。彼は彼女の姿を見るなり少しだけ目を見開いて、そしてすぐににやりと口角の端を釣り上げるような嫌味っぽい笑みを形作る。

「…馬鹿だね、何で来たの?」
「誘われたから、お言葉に甘えた」

くすくすと笑う彼に淡々とそう返して、彼女は電気も点いていない部屋を進み彼の前で立ち止まる。
そんな彼女の態度が可笑しかったのか、彼は更に笑みを深めて目を伏せた。

「全く理解不能だね君は。何時もどんなに急ぎの用だって言ってもあの時間のメールには応じない癖に、あんな文面で来るなんて」
「…そういう気分だっただけ」
「髪も乾かさずに飛び出す気分って何?というより、着替えすらまともに出来てないようだけど」

言った彼の腕がするりと彼女の鎖骨を撫でる。
確かに彼女の柔らかな髪は辛うじて水滴が垂れない程度というくらいでほとんど拭かれていなかったし、格好も短パンにタンクトップ、そして辛うじて上のカーディガンを羽織った状態と言うあられも無い姿であった。
自分のペースを乱されることを嫌う彼女にしては珍しい、というより異常な状態に、臨也は可笑しくて堪らないというようにその白い肌に手を這わせている。

「臨也、鬱陶しいからやめて」
「…相変わらずつまんない反応だねぇ、そんな格好で男に撫でまわされてるんだからもう少し面白い反応してよ。手をはねのけるとか、もしくは赤くなって悦ぶとかさ」
「そういう反応を求めてやってるって分かってるのに警戒する必要が何処にあるの」

呆れも皮肉も含まれていない、単純な真理として吐かれた千鶴の言葉に臨也は態とらしく溜息を溢す。
そして興醒めだと言わんばかりに彼女の肌から手を離すと、深く深くソファに沈んだ。

「君のそういう所嫌いだよ、普段は酷く人間臭いかと思えば肝心な所で途端に人間味が無くなるんだからね。俺はもっと人間の愚かしさとか、醜い部分を愛してるんだけど?」
「そう、残念。私は臨也好きだけど、でも臨也に好かれる為に変わる気は無い」
「…だからさぁ、そういう所」

もういいよ。そう言って腕で顔を隠すように覆って、先程よりももっと深い溜息を漏らした臨也に彼女は漸く隣に腰を下ろす。
そして口を開くでもなく、行動を起こすでもなく、ただ臨也の隣に座って彼を見つめた。

ほんの少しの沈黙の後、再び口を開いたのは彼の方だった。

「…ねー千鶴」
「何?」
「ホントさ、何で来たの?」
「………」

顔を隠したまま尋ねられた言葉に、彼女は数回目を瞬かせて。そして、考えるような一瞬の沈黙の後、少しだけ口元を緩ませて微笑う。

「…臨也、貴方が知っているか知らないけど」
「何が?」
「どうでもいい時に急かして、本当に来てほしい時には虚勢を張る。本当は口を開くのも億劫なのに無理してへらへらと笑って見せる人間を、世の中では天の邪鬼って呼ぶの。知ってた?」
「……… へぇ、初めて知ったよそりゃ」

笑みを滲ませた彼女の言葉に、彼は漸くゆるゆると腕を外し。
それはそれは愉快そうに口の端を上げては、隣に座る彼女の視線から逃れるように目を伏せた。









     暇なら、来ても良いよ】


そんな改行だらけの不可解なメールと、隣に座る男の裾から見え隠れする恐らくは致命傷に近い傷を覆っているのだろう白い包帯を見つめて彼女はくすりと笑みを溢す。
治療は終えているのだろうから心配はないのだろうが、それでも此処まで強情に普段通りを振舞われるといっそ笑えてしまう。


とりあえず、このメールは保護をかけておいて。
仕方が無いので、今日だけは虚勢張りの天の邪鬼の面倒を見てやることにしようか。

そう、薄く笑った。



20120222



二巻まで読んで我慢しきれなかった結果