戯れカケヒキ


窓越しの夜明け前の白んだ空に腕を伸ばして、彼女はゆるりと欠伸を溢しながら生理的にじわりと滲む涙を拭った。

夏の夜明けは早い。南国と呼んで差し支えないこの国でも曖昧ながら季節は存在する。
人々がこれから目覚める時間にこうして机に齧り付いているとはなんとも不健康な事だが、目の前に積み上げた処理済の成果を見ればそれも特に苦には思えなかった。

この小さな島国では大河が存在するでもなく、人為無しに常に淡水を得ることは難しい。雨に恵まれた気候とは言え、暮らしを考えればいつも空のご機嫌次第という訳にはいかない。
そしてその癖水害も起こりやすく、治水は常に気を回しておかなくてはならない案件の一つであった。

自身の腰ほども積み上げられた過去の統計やら資料やらの本の山を崩さないよう慎重に椅子から抜け出すと、彼女は空になったカップを持って立ち上がる。


「…これから寝るのは流石に世間様に申し訳が立たないかな」

無論仕事をしていた彼女がこれから睡眠を貪ろうと責める人間は誰一人いないのだろうが。
やはり陽の高い内は起きて活動するのが人間のあるべき姿で、何となくそれに逆らうのを好んでいない彼女としてはこれから寝所に潜り込むのは抵抗があった。

となれば、珈琲を淹れ直して読み止しの本片手に朝日を待つか。喫緊の仕事を片付けたということで多少気分は浮いているせいか、特段眠気も感じない。
日の出の中の読書というのも乙なものだろう、そう方針を決定して、彼女は静かに部屋を出る。読書の供に厨場から珈琲を拝借するくらいは許されるだろう。



当然のことながら静まり返った廊下は、僅かに冷えた早朝独特の空気で満たっていた。人の気配の消えた空間は昼とは様相を変え、どこか世界を異にしたような感覚に浸らせる。
民で賑わう繁華街も、様々な食客が行き来する宮殿内も嫌いではなかったが、此の空間を贅沢に感じるのは至って自然な感想だろう。

例に漏れず彼女も僅かに頬を緩ませて、殆ど音を得ないような微かな鼻唄を口遊みながら脚を進めた。
朝露で光る庭を見下ろすとふいに散歩するのも良いかもしれないという考えが過ったが、朝っぱらから姿を消したとなると色々と喧しい人間もいることを思い出してすぐに却下となる。

何せ彼女の“散歩”は気が済むまで森の深くへ入ることを指していたので、下手をすればそのまま夜まで帰らないという事態もあり得た。そして勿論、一度と言わず前科持ちであるが故にこっぴどく叱られたのであるが。

運悪く王の脱走劇と重なってしまった時は酷かった。帰って早々に鬼の形相の政務官殿に二人並んで正座させられたのは思い出したくない過去である。
もう二度と了解なしに散歩しないという誓約することで収まった彼の怒りを、何も好き好んで再び揺り起すことは無い。

さっさと珈琲を拝借して部屋に戻ろう。そう苦い笑いを滲ませながら、ふとある部屋の前を通り過ぎるところでぴたりと彼女の脚が止まる。


まだ薄暗い廊下に漏れる淡い灯り。その光源が酷く見覚えのある扉の中であることを認めて、彼女は僅かに思考を巡らせる。
徹夜により思考能力が相当低下していない限りは、この扉の中にいるのは丁度回想の中で母親の如き説教を披露した人物であろうと容易に推測できた。

彼女は音もなく苦笑いを零し、身体の向きを変えてノックすることなくゆっくりとその扉に手を掛けて覗く。
と、僅かに目を丸くして此方を見つめている予想通りの人物とかちあうこととなった。

完全に扉内に身体を滑り込ませ薄く微笑んでみせると、彼はカタリと小さく椅子を鳴らして彼女に向き直る。


「ベル?」
「やぁジャーファル、お前も徹夜組か」
「えぇ、今区切りがついたところですよ」
「そりゃ良かった。ってことは急ぎの案件は全部処理済みかな」

少し前の自分同様、堆く積み上げられた資料と書類の山に囲まれる青年に近付きながらからからと笑う。
隣の机を拝借して腰を下ろすと、彼は僅かに疲弊したような笑みで彼女を見上げた。

「漸く、ですね。流石に今回はシンも真面目に執務についたので」
「あーそう言えば夜中に見かけたな。珍しく隈作ってたよ」
「貴女の手を煩わせた甲斐もあって早く片が付きました、有り難う御座います」
「はは、私はお手伝いレベルだよ。お疲れさん、大変だったな」
「そうですね、お互いお疲れ様です」

冷え切った珈琲の残りを流し込んで笑う彼の目元にはそこそこの隈が刻まれていた。
政務を取り仕切る立場ということに加え、仕事が無いと落ち着かないという仕事中毒の性分もあり、彼は常人に比べて寝所と懇意になる時間が極端に少ない。
恐らく今日が特例という事はないだろうと判断して、彼女は小さく息を溢しながら彼の目元に手を伸ばす。

「っ…ベル?」
「三徹目の人間とたかだか一夜明かしただけの人間を同列に語るのは失礼だろ」
「…相変わらず良く分かりますね」
「仕事漬けは結構だけど、そろそろ休息を取って貰わないと困るよジャーファル。お前が倒れたら大袈裟でなく被害甚大だ」
「一段落しましたから流石に今日は休みますよ」
「分かってるだろうけど机に突っ伏して転寝することは休息とは認めませんよ政務官殿」
「………」

間髪置かずにすっぱりと切り捨てるベルに、さしものジャーファルも沈黙を守ることでしか返せなかった。
完全に見透かされて己の行動に釘を刺されると如何とも返し難く、かといってしっかり休むと確約するにも己を良く知っている彼には頷き難いことである。

そしてそんな彼の胸中までも見通しているのだろうベルは呆れ顔で溜息を溢しつつ、彼の肩を労いを込めて軽く叩く。

「…ま、どうせお前のことだから自発的に休むなんて出来ないんだろ。昼付き合える?」
「えぇ勿論。…なるほど、強制ですか」
「ご飯食べて昼寝する、たかだか数時間だ。それくらいなら仕事中毒のお前でも我慢できるだろ?」
「別に休息が苦痛なわけではないんですが…。まぁ、貴女の誘いとあらば断るわけにはいきませんね」

そう言いながらジャーファルは苦笑、と呼ぶには些か緩んだ笑みを返す。
あたかも致し方なしという口振りを取る彼の言葉にベルも悪戯っぽく微笑んで、空になったジャーファルのカップを手に取り二つのカップをぷらぷらと弄びながら少々態とらしい口調を作って返した。

「そうそう、大人しく私に付き合って美味しい昼食に中庭で昼寝と興じよう。勿論タダとは言わない」
「と言いますと?」
「珈琲のおかわりと始業までの助手を買って出るよ。どうせこれからまた働く気だろ?」
「貴女は休まなくていいんですかベル」
「元々そのつもり、相手が本になるかお前になるかってだけだよ」
「そうですか…」

交渉と呼ぶには酷く稚拙な内容であるが、所詮は戯れだ。答えの決まりきったやり取りに興じるのも悪くはない。
コツリと二つのカップが音を立てたのを皮切りに、ジャーファルは目を細めて柔らかく微笑う。

「…困りました、これは難しい交渉ですね」
「不満なら可能な範囲で追加条件も考慮しますよ政務官殿」
「では条件の一部変更を求めます」
「と言うと?」

そう、戯れだ。この全く意味のない駆け引きも彼女相手ならば心地良い。
三日も日の出を見送って、差し迫った執務は粗方片付けて。ならば、確かに少しくらい休息を取ってもいいのかもしれない。

そう結論付けて、彼は彼女の手を掬い取り薄く微笑む。

「始業まで、ではなく今日一日ということなら交渉に応じましょう」
「そりゃ構わないけど、そんなに手がいるほど残ってんの?」
「いいえ。昨日まで修羅場だったので、丁度他の者にも今日は休むよう言ってますから。私一人でこなせる程度の雑務しか今は手元にありません」
「…つまり?」
「貴女の助けがあれば午前中には仕事がなくなってしまうでしょうね」

けろりと言い放つジャーファルに彼女は一瞬怪訝そうに首を捻るが、次の瞬間にはその意図を察したのか肩を竦めて目を細めた。

「何だ、デートの誘いだったか。別に私じゃなくてもいいだろうに」
「…いいえ、貴女でなくては駄目です。貴女だからお誘いしたんですよ」
「ったく。分かったよ、交渉成立といこう」

大袈裟に天を仰いで呆れて見せて視線を交わし。

そしてきっちり三秒おいて、互いに小さく噴き出して肩を震わせる。


「…はー、我ながら酷い茶番だ。何がデートだか」
「貴女からふざけ始めたんでしょう」
「お前が視察に付き合えってはっきり言わないからだよ。まず港かな、貿易先も増えてきたしそろそろ増設も考えないといけないしなぁ」
「区画整理の案件もありますから街も回りたいですね」
「あとは商館の監査と…って言ってても仕方ないか。取りあえずやること片付けよう、珈琲淹れてくるから待っててくれ」
「………えぇ」

ぶつぶつと予定を組みながら踵を返した彼女を横目に捉えながら、彼はひっそりと苦い笑みを浮かべて口元を隠す。
そして戸が彼女の姿を隠したと同時に、小さく息を零して呟いた。


「…名目はどうあれ、下心のない誘い、と言った覚えはありませんけどね」


三日も朝日を迎えて執務に励んだのだ。
…視察という大義名分に甘えて、二人の時間を作るくらいは赦されるだろう。




20140622