変わらないモノ


あぁ、懐かしい匂いがする。

常人には察知できないほど微かなそれであったが、常人とはかけ離れた鋭さを持つ彼の鼻腔はそれを確りと察知していた。

真新しい紙やインクの匂いの陰に仄かな甘さを含んだそれを、最後に感じたのは何時だっただろうか。
確かまだ無力に等しい子供の頃で、この匂いが漂ってきた時は決まって視界の右端にある茂みから…


そこまで思考を巡らせて、彼は緩慢に首だけを動かして其方に視線を向けた。
近付いてくる足音、濃くなる匂い。その正体など例え彼がファナリスとしての五感を持たずとも容易に察しがついたであろう。

ぱちり、掻き分けられた茂みから現れた琥珀の瞳が僅かに驚きを滲ませて瞬く。

「…あれ?」
「どーも」

現れたのは長い髪を揺らした女だ。歳の頃は彼より少し上と言ったところ。
陽を受けると金にも似た色に揺れる瞳を二、三度瞬かせると、彼女はかくりと首を傾げて彼と見つめ合う。

「…やぁマスルール、どう思う?」
「何がッスか」
「やっと仕事が片付いたから気晴らしに軽い散歩に出かけた筈だったんだが」
「あぁ、夢中になった挙句軽く二、三日森の奥に姿を消す例の“軽い散歩”ッスよね」
「…マスルールが此処で寛いでいるということは、国王と政務官殿も外訪からお帰りなんだよな」
「ジャーファルさんめっちゃキレてましたね」
「………やらかした」

大袈裟でなく天を仰ぎ、額を両手で覆って嘆く彼女をマスルールは無表情のまま見つめていた。

王に付き添う形で数週間国外へと出ていた彼であるが、予定より早く進んだ交渉のお蔭で数日早い帰国と暫しの休息を賜っている。
なのでその脚で森へと入り、パパゴラスの群れを適当にあしらいつつ昼寝を貪っていた訳である。
要約すれば、彼女の消息不明を聞かされた政務官殿が酷くご立腹であったので早々に王宮から避難してきたのだが。

あーだのうーだの呻いている彼女に無表情な視線を向けたまま、彼は淡々と会話を続ける。

「タイミング悪いッスね」
「ほんっとだよ何で予定早まったんだ…」
「シンドバッドさんが向こうの奥方口説き落として交渉有利にしたんで」
「あいつホント人として最低だな」
「王としては優秀なんでいいんじゃないッスか」

苦悩するのに飽きたのか諦めたように肩を竦めた後、彼女はマスルールから少し空けた隣に腰を下ろす。
巨漢と呼んで差支えない自分と並ぶと子供のように小さい彼女を見下ろすと、彼女は楽しそうに声を洩らして笑った。

「お前の目は本当に雄弁だよなぁ、そんな怪訝そうな目をするなよ」
「戻らなくていいんスか」
「そんな冷たい事言わないで匿ってくれって、少しで良いから」
「逃げるだけ悪化すると思いますけど」
「同じ怒られるなら大声で怒鳴れない夜に帰るのが賢い」
「あぁ…」

抑揚のないマスルールの相槌であったが、そこには明らかな呆れが見て取れた。
そうだ、この人はシンドバッドさんより自制している分、それが外れた時は盛大な悪ガキぶりを見せる。

その一言で過不足なくマスルールの心境を読み取ったらしい彼女は、今度はからからと声を上げて笑う。

「共犯な、内緒だぞ」
「俺ジャーファルさんに怒られたくないんスけど」
「っつっても連れ帰る気も知らせに行く気もないだろ?」
「休暇中なんで」
「お前は昔っからマイペースだなぁ、変わってなくて安心するよマスルール」

にこにこと機嫌良く彼の腕を軽く叩くと、彼女はそのまま地面に身体を預ける。
完全に居座ることを決めたらしい彼女にほんの一瞬思考を巡らせかける彼であるが、その一秒後には放棄して同じく寝る体制に戻った。

どうせ自分にこの人を動かす力はない。物理的な問題ではなく、もっと根本的なところで彼には不可能なのだ。
よほど喫緊の王の勅命でもない限り、彼女の意に反する行動を取る気にはなれなかった。その程度には、彼の中の彼女の地位は高いところにある。

それを知ってか知らずか、隣に寝転がる彼女はごろりと身体を此方に向けてまた笑う。

「よく考えれば二人で話すの久々だな」
「…そうッスね」
「元気?」
「まぁ見たまんまッス」

世間話と呼ぶにも稚拙な会話を交わしながら、横目で彼女を見つめる。

けらけらと笑う彼女の姿は、遠い記憶の中で幼い自分の隣に横たわった姿と殆ど変わらない。もう数年も前の話で、朧気な記憶ではあったが彼の脳裏に薄らとではあるが存在していた。


そして何より、彼が最も鮮明に記憶しているモノも変わることなく彼女の周囲に存在し続けているのだ。
ゆるりと目を伏せて、彼はその空気に意識を寄せる。


「…おや、昼寝再開?」
「いえ別に眠くないんで。喋っててくれてもいいッスよ」
「いいさ、別に無理に話すもんでもない。でも便乗していい?」
「…腹冷やさないで下さいよ」
「りょーかい。戻る時は一応声掛けてくれ」

その言葉を最後に本当に目を伏せて、堂々と昼寝を興じはじめたベルを薄く開いた片目だけで見つめ。


…昔から、彼女の纏うこの匂いが酷く安堵と郷愁に似た感情を呼び起こすのだと、伝えることはきっとないだろうけれど。

久しく感じていなかった心地良さに身を委ねて、彼も眠りの世界に身を任せた。



20140706