僕の世界を変えた人
あまり傾倒しすぎるなよ、戻れなくなるぞ。
そう笑った顔は酷く小さな子供に言い聞かせるような表情で、それが妙に気に食わなかった覚えがある。
隠す気すらない不満に染まった顰め面を、敬愛する男を否定されたことへの怒りだと勘違いしたらしい。苦く笑って傲慢で世間知らずな子供だった自分の頭を彼女はくしゃりと優しく撫でた。
あいつに付き合って人生棒に振ろうだなんて物好きだな、お互い。
そう呆れた様に笑った彼女には知る由もない。
あの時、まだクソ生意気なガキでしかなかった自分が抱いたのはそんなものではなく。
『お互い』。そう事もなげに言い切った彼女自身への理不尽な苛立ちと、そう言わせる彼への子供染みた嫉妬だった。
「お疲れさん」
「………ベル」
― 徹夜三日目、日の出からそう間を置かない時刻、朝露で陽の光が反射する庭を背に絹糸を揺らす女。
つい先ほど予定にない転寝(というよりは気絶に近い、彼女が激昂するので決して口にはしないが)をしてしまったほどには機能の低下した頭では、その光景を現実として処理するまでに幾分かの時間を必要とした。
まるで絵画のようにも映る彼女がゆるりと歩き出して此方へ踏み出す頃に漸く思考が追いついて、緩慢に返事をすれば彼女は呆れた様に苦く笑う。
その様が先ほどの夢で見た苦笑とぴたりと重なって思わず額に手をやると、それをまた勘違いしたのか彼女は僅かに眉を顰めた。
「お前なぁ…そんなになるまで働くなって言ってるだろう。一国の宰相が過労死なんて外聞が悪いにもほどがあるぞ」
「………」
「聞こえてるか―ジャーファルー」
「……たが」
「ん?」
幼子を嗜めるように間延びした口調で笑うその顔に、何処かで箍が外れたような感覚がした。何を言うつもりだ。普段なら働く理性の制止も今日は追いつかない、追いつかせようという気が起きない。
思考に靄をかけている睡魔と疲労、呆れたような彼女の表情、頬に触れる細い指。それらが些か投げやりな気分にさせて、開き直りのように続きを口から滑り落とす。
「…貴女が止めに来ないからでしょう」
「………」
思考せず感情からそのまま零した言葉は彼女を酷く驚かせたようだった。瞳を丸くして目を瞬かせた彼女もまた零すように呟く。
「…相当キテるな、こりゃ。早く休め」
睡眠不足故の思考能力の欠如は自覚している。けれどそれを理由にしてしまえば許されると理解する程度の思考能力は残っているのも事実だ。
何と言っても彼女はこうなってしまった自分には輪をかけて甘くなる。
悪いのはそれに漬け込む自分ではない、大の男を前に幼子にするように慎みなく接してくるこいつの責任だ、自分はそれに乗じる権利がある。…など、支離滅裂。
「…おーい、突っ立ったまま寝るなよ、ほら部屋連れてってやるから」
「…寝てない離せアホ女」
「お、なんだなんだ?懐かしいな、眠さのあまり暴君再来か」
握られた手は柔らかく小さかった。それが自分の手に触れると妙に心臓が痛むのは昔と変わらない。
誤魔化すように絞り出した言葉はそっくり昔のクソ生意気なガキのそれで、彼女は怒るでもなくからからと楽しげに笑う。
短くない付き合いだ、礼儀を知らない強がりの虚勢で生きていた頃の自分を彼女は良く知っている。
生意気な強がりと憎まれ口しかきかない癖に、彼女の後をついて回って離れなかった頃。今となっては自分のことながらよくあんな面倒な生き物を可愛がってくれたものだと、他人事のように感心するほどには扱い辛い子供だった自覚はある。
けれど、彼女は一度として当時の自分に嫌悪をみせることはなかった。そして今でも自分がその頃の片鱗を見せると楽しそうに笑う。
何処か懐かしむように目を細めて手を伸ばし、くしゃりとクーフィーヤ越しに頭を撫でられた。
結局どれほど時が経とうと、この女の中の自分は小さく生意気な子供のままなのだ。
「…止めてください」
「はは、何だかんだお前撫でられるの好きだろう。昔から口だけで抵抗せず撫でさせてくれるもんな」
「……」
この馬鹿女。胸中で罵りを零しながら大人しくその手を甘受する自分は滑稽だろうか。
事実だけを述べるならば、撫でられるのは、というより触れられるのは好きじゃない。
他人に触れられることが死に直結する世界で過ごした幼少期に植え付けられた感覚は簡単には消えるはずもなく、今でも不意に触れられると反射的に身体が反応しかけることがあるくらいなのだから。
…けれど彼女の言葉もまた真実だ。
一度として差し出された彼女の手を不快だと感じたことはない、寧ろ心地良さに溺れそうになるのをぎりぎりのところで耐えている。
つまり、― 要はそういうことなのに。
この女はその点における自覚はすっぽりと抜け落ちてしまっているらしく、察するどころかその矛盾に疑問すら抱いていないようで。
それが昔から、十年以上時を隔てた今でも、酷く気に食わない。
この女は自分がどれだけあのクソ生意気なガキの中で大きな存在を占めていたのかを知りもしない、今でも尚こんなにも無遠慮に居座り続けているというのに気付く片鱗すら見せない。
呑気にも信じて疑おうともしないのだ、目の前の男はどれほどの時が経っても可愛らしい弟分であり、主への忠誠が全てでそれ以外に興味を示さない“男”足り得ない存在だと。
自身は“同じ志を持つ仲間”という以上の価値を与えられていないと、本気で信じ込んでいる。
あまりのめでたさに殺意すら抱きそうなほどだった。…殺意というよりは、正確にはもっと汚い欲なのだけれど。
改めて苛立ちの種を再確認すると自然舌打ちが漏れて、楽しげに撫で続けていた彼女の腕を思い切り引っ張って強制的に身体を抱え込む。
驚いたように丸く開かれた瞳に映る自分の顔はまるで餓えた獣のような酷い顔だった。
…自分は今思考能力が欠けている、要は寝惚けているようなものだ。
ならばその間の発言は単なる戯言でしかなく、その後言及されるようなことがあっても躱すことが出来るだろう。
今なら許されるはずだ、十年来の不満を晒して彼女を困らせても、きっと。
腕を抑え込むようにして抱えた彼女との間に、僅かに残っていた距離を詰めれば鼻先が触れる。
あの日見上げていた筈の顔が今は頭一つ分下にある、それが妙に気分が良かった。
目を瞬かせて言葉を失う彼女を睨むように見つめて、言い含める様に低い声を出す。
「…あんたのそれは態とですか」
「な、にが?」
「馬鹿女」
「あ、やっぱり暴君再来?」
「触れられるのが好きな訳ないだろ。他人との接触は死に等しい暗殺しか知らなかったガキが」
「…なるほど」
「違う馬鹿聞け」
案の定間違った解釈をしたらしく離れようとした身体をまた抑え込む。さほど鍛えてもいない女の身体はいくら睡魔に襲われていようと片手での拘束で十分だった。
また不可思議そうに瞬いた瞳に苛立ちから深い溜息が滑り落ちるが、何とか萎えそうな気概を支え直して睨みつける。此処で折れては今までと何も変わらない。
「…確かに、俺に生きる世界をくれたのも、生きる意味をくれたのもシンだ」
「…知ってるぞ?」
「シンが進む道なら例え世界中から憎悪と軽侮を受けることになったとしても共に行く、でもそれは」
「分かってるよ、どうしたんだ急に」
あぁもう、大人しく聞け馬鹿女。
思わず腕に力がこもって拘束がきつくなる。恐らく痛みもあるだろうに、彼女は顔色を変えることもなくあやすように背を撫でていた。
「…ジャーファル、とりあえず部屋に行かないか。話はそこでゆっくり聞くから」
「……男の部屋にのこのこ入ろうとするなって何度言えば分かるんだあんた」
「誤解される相手もいないだろ、お互い」
「そうじゃない」
誤解ではない事態になるという発想に至らないこの女の暢気な思考回路が、本当に腹立たしい。
駄目だ、苛立ちと睡魔のせいでどんどん箍が緩んでいく。
そのまま隠さずに舌打ちを零したにもかかわらず、女は怯んだ様子もなければ怪訝そうにすることもなくただ馬鹿みたいに背を撫で続けている。
……今の状態でこんなポンコツと部屋に閉じ込められたら、まず間違いなく犯行に及ぶだろう。この状態でもそれを判断するだけの思考能力が残っていることが幸か不幸かは分からない。
ただ、絶対に今こいつを部屋に招き入れる事態は避けたかった。一応今後も当たり障りなく円満な関係を続ける予定でいる、まだ時じゃない。
色々と面倒になって一通りがしがしと頭を掻きむしった後、まだ鼻先にあるそいつの顎をひっつかんで勢いのまま額に口を付けた。
…口を避けたのは情けない限りだが、今回はこれで及第点としよう。
完全に不意を衝かれたのかぽかりと間抜け面を晒す女に、もう一度舌打ちをして耳元で囁いた。
「…私とシンの進む道に、共に貴女がいなければ意味がない。シンが生きる意味をくれたように、私の世界を変えたのは貴女だ。シンだけじゃ足りない、貴女がいないと私の世界は成り立たない。…そこだけは勘違いしないでちゃんと知っておいてくださいよ、ベル」
「………」
「…お返事は?」
未だに晒された間抜け面が嬉しくて、意地の悪さが隠しきれていないだろう笑みを浮かべてやると彼女は大きなため息を零した。
そしてがしがしと絹糸を掻き乱しながら、困ったように笑う。
「…とんだ口説き文句だな?主の影響か、ジャーファル」
「御冗談を」
「分かった分かった、認識を改めるよ。想像以上にお前に愛されてるってことでいいんだろ?」
「分かれば宜しい」
「ったく、性質の悪い寝惚け方を。…ほら、行くぞ。口説いてくれた代わりに寝所までお連れするよ」
「……」
どう見ても言いたいことの1分も伝わっていないのは明白だったが、今はそれでいい。
例えごく僅かだろうが、彼女が私の世界のどれほどを占めているのかを思い知ってくれればそれで良かった。
これからの駆け引きの布石になってくれれば、それで良い。どうせ直に嫌でも思い知ることになるのだから。
20160716