* * *
「おかえり。今日は遅かったね。」
仕事で大きな失敗をした日。取引先にも上司に怒られ、先輩や同僚に白い目を向けられた挙句に後輩たちも陰で笑われる。正直これ以上ない最悪な日だ。
そんな最悪な日に限って大好きな彼氏とのデートが重なるし、おまけに最後の最後まで残業してきたから結局はなかったことしたはずだ。
でもその彼氏本人が私の住むマンションの部屋で待ってくれていた。
「…千さん。どうして…。」
思わず口からどうして、と言葉が飛び出る。
デートの約束の時間は夜8時半で、待ち合わせ場所は二人でよく行くイタリアンレストランだが、どう考えても仕事が終わらないと気付いた私は夕方前には彼に今日は行けないということをメールで伝えたはずだ。たまたま仕事の休憩時間がその時だったのか、彼からすぐに『分かった。』と返事が届いたのを覚えている。
だから私も終電の2本前の電車に乗って帰ってきたというのに。
電車に乗り、最寄り駅で降りたのはいいものの、人が少ない駅に着いた途端にこみ上げてきた涙を他の人に見られたくなくて女子トイレへ駆け込んだ。個室に入り、溢れてくるそれを必死に手で拭う。会社では泣かなかったのに、今になって急に悔しいという感情があふれてきた。
暫くして落ち着いた私は洗面台の鏡を見て、真っ赤な目と鼻、そして化粧もぐちゃぐちゃになった自分の顔を見ては「何やっているんだろう」とつぶやいたのだ。
「ナマエ?」
ふと呼ばれた名前に私はいつの間にか俯いてしまっていた顔を上げた。
「家で待ってるとメールを送ったけど、見てないのか。」
「あ…ごめんなさい。ちょっと疲れてて。」
本当は携帯を見れるほどまだ気分が浮き上がっていない。それこそ電車に乗っても乗客全員が私の失敗を知っていて心の中で笑っているという被害妄想を抱いてしまうほどだった。馬鹿馬鹿しい、でもそんな気がする。自分の中でそんなやり取りを何度も繰り返しながら車両の一番隅の席に座って何かから守るようにカバンを抱きかかえていた。
「今日、残業でデートを台無しにしてごめんなさい。せっかく千さんとお休みが重なっていたというのに…。」
「気にしてないよ。それより、顔色が少し悪いようだけど…」
私より背の高い彼が少し頭を下げてこちらの顔色を伺う。
一応駅のトイレで軽く化粧直しはしたが、もしかして落ちて滲んだマスカラがまだ薄く残っていたのか。何であれ彼に情けない姿をこれ以上見られたくなくて私は逃げるようにキッチンへと向かった。
「何か作ります。千さんはご飯食べてきましたか?」
「…まだだけど。」
「じゃあ作りますね。何にしようかなあ。」
自分でも分かるぐらいに不自然だ。でも、大好きな彼に心配をかけさせたくない。
それだけは、私の中でわずかに残っているプライドが許さなかった。
*
「お待たせしました。」
出来上がった二人分のミートスパゲティやサラダをテーブルに並べる。本当はカルボナーラにしたかったが、時間が時間なのであまりこってりとしたものはやめておくことにした。千さんは美味しそう、なんて言って笑みを浮かべている。
「今日レストランにいけなかったので…。お詫びとまではいきませんが、うちにあるもので出来るイタリア料理がスパゲティだったので作ってみました。」
「お店に行けなかったのは残念だけど、ナマエの手料理が食べれるならこれはこれで良かったのかもしれないね。」
「あはは。でも、お店じゃなくても千さんとこうしてご飯が食べれるだけでも良かったです。」
そろそろ頂ましょうか、と言おうとしたとき。突然千さんは「ナマエ」とまた私の名前を呼んだ。
「こっちにおいで。」
「え?ど、どうしたんですか、いきなり。」
手招きをされて、それに少し困惑しながらも従って彼の隣に移動する。すると千さんは私の頭に手をのせてきた。
「…君が言いたくないのなら無理に聞かない。でも、無理をしてはいけないよ。」
まるで今日一日、私の身に起きたことを全て知ったかのような言い方に思わず「…そんな、無理なんて…」と呟く。だが無理なんてしてないと言ってしまう前に、私の目元にまた熱が集まってきた。
涙が溢れる前、千さんはそっと腕を回して私の体を抱きしめる。彼の手から伝わってくる、愛おしそうな感情にとうとう私はそのまま大粒の涙を零した。
「…仕事で、失敗したんです。」
初めて任された大仕事。責任を持って完璧にやり遂げたかったが、結果はやはりそう上手くいかなかった。失敗して、取引先に迷惑かけて、上司には「君に任せなければよかった」とまで言われ、本当に散々だ。でも誰のせいにもできない。例え取引先が苦手な相手だとしても、嫌いな上司だったとしても、与えられた仕事をこなせなかった私が悪い。
でも何より私は、なかなか立ち直れない自分が想像以上に弱いことに気づいて悔しかった。
思っていることをポツリポツリと呟いていく。
千さんは時々、うんうんと頷きながら私の背中を撫でる。
泣いているため、語尾が震えたり上手く声が出なかったりすると彼は「ゆっくりで大丈夫だよ、ちゃんと聴いてるから。」と声をかけてくれた。
ずっと胸の中で我慢していた思いを誰かに打ち明けることができたからか、私が泣き止んだ頃には大分気持ちもスッキリしていた。自分の足元を見ると、途中で彼が取ってくれたティッシュ箱の横に私が使ったティッシュが積み上がっている。
「千さん、ありがとうございました。もう大丈夫です。」
彼にそう伝えると、千さんは私の体を離してから小さく微笑む。何だか『本当に?』と聞いてきてるような気がして、それに答えるように私もまた少し笑みを浮かべた。千さんのように綺麗な笑みじゃないけど、本当にもう大丈夫だ。
「僕の励ましや慰めの言葉なしで立ち直れるナマエは弱くなんかない。むしろ強いぐらいだ。」
「…千さん…。」
「君は確かに自分で思ってる以上に傷つきやすいのかもしれない。でも、もう既に立ち直ろうとしている。君は自分で思ってる以上に前に進もうとする人でもあるんだよ。」
彼は本当に不思議な人だ。さっきまであんなに自分に対して失望していた私が、彼の言葉を聞いて実はそうなんじゃないかって少し考えるようになってきた。
私が調子者なだけなのかもしれない。
いや、これはきっと彼の言うとおりであってほしいと思っている私がいるからだろう。
「そうだといいな。でも、千さんが隣で聞いてくれてるおかげですよ。だから私ひとりの力ではないです。」
そう言うと、千さんは真剣な顔で私の目を見つめてきた。
「恋人だからね。君が傷ついたときに支えてあげるのは僕の役目だよ。」
彼の言葉に暫く私は固まってしまったが、直ぐに歯がゆい気持ちになって思わず「ふふ」と声を漏らす。千さんは「そんなにおかしなこと言ったかな…?」と少し戸惑っているようだが、今度は私が彼の体を抱きしめてみた。彼は私の両腕を受け入れながらそっと髪を撫でてくる。
「いえ、本当にその通りだなって。…私、千さんに迷惑かけたくないって思ってたんです。でも、恋人だから。もう少し頼るべきでしたね。」
千さんはそんな私の言葉に同じように小さく笑みを漏らすと「そうだよ。」と答えてくれた。
普段は恥ずかしい言葉なんて言えないし、彼だって口にする回数は少ないほうだ。けど、だからこそ彼が本当に私のことを恋人として見てくれているんだって今日改めて分かった。
それから私と彼は、既に冷めてしまったスパゲティを温め直しながら「こんな日もあるね」と笑いあったのだ。
君にとって優しい世界であるように