結局、彼女は鍵を開けてしまった。開ける前にナイトテーブルに放置してあったあのペアリングの箱は、引き出しの中に押し込んだ。彼を寝室に入れる気など彼女にはないが、もしもの事がある。今でも女々しく指輪を持っている姿を彼に見られるのが怖かった。
彼女が扉を開けると、余程寒かったのか彼はコートを脱ぐことなく部屋に上がった。その姿を見た名前は罪悪感が湧き、珈琲を彼に入れてやる。彼が珈琲をブラックで飲むのは知っていたが、自分を戒めるためにもわざと聞いた。
「ミルクと砂糖はいりますか?」
「いえ、ブラックで結構です。すみません」
彼は冷えた指先を温めるように珈琲の入ったマグカップを持つ。こくりと一口飲むと、正面に座り同じように珈琲を一口飲み終えてマグカップをテーブルに置いた彼女の姿を真っ直ぐに見据えた。彼の目の端にはまだ開封されて間も無いスーツケースが写っている。
「旅行から帰ったばかりのようですね」
「……それが何か?」
「いえ、何でも。それより、部屋に上げてくださってありがとうございます。あのままでは凍死するところでした」
「……今回だけです」
バーボンの視線を感じながらも、名前はマグカップの中身を見つめていた。情に絆され扉を開けてしまったのは自分だが、どう行動するのが正解なのか分からなかった。
「何故ここが分かったんですか?ベルモットしか知らないはずなのに」
「ああ、簡単な事です。ショールに発信機を仕込ませて頂きました」
「なっ…!」
急いでゴミ袋からショールを取り出し広げてみると、成る程、確かに発信機がショールに絡み付いていた。彼によると、組織の本部に帰りエスコートした時に仕込んだそうだ。考えてみれば、あの時必要以上に肩に触れられた気がする。絡み付いていた発信機をショールから取り外した彼女は、静かにそれを机の上に置いた。
「これはお返しします」
「わざわざすみません」
「それで?これを回収するためだけに、遥々うちに来たわけじゃ無いでしょう?目的は何ですか?」
幾分か眼がつり上がった彼女は、再び珈琲を飲む。バーボンはにっこりと態とらしい笑みを浮かべた後、カチカチと彼自身のスマートフォンを操作し始めた。暫くすると彼は操作していた画面を名前に見えるように机の上に置く。
"この部屋に盗聴器はありませんか?"
彼の言いたい事が理解できた彼女は、静かに首を横に振った。
「一応確認済みです」
「なら安心ですね」
「あら?自分で確認しなくて良いので?私が嘘を言ってるかもしれませんし、見逃したものがあるかもしれませんよ」
彼女の言葉に彼は少し黙ったが、机の上に置きっぱなしだった彼のスマートフォンをポケットに戻した後静かに口を開いた。
「…貴女の事を、信用していますので」
「……へぇ」
不意に放たれたその言葉に、名前は少なからず動揺した。彼が何を思ってそう言ったかは分かりかねるが、ジッとこちらを見ている彼の瞳に嘘は感じられなかった。
「盗聴器も無いと分かったことだし本題に入ります。……何故、ここにいる?」
彼の顔がバーボンから降谷零に、喋り方に変わる。
「貴方こそ。何故私の家に?」
「…名前。俺は言葉遊びがしたいんじゃ無い」
「その名で呼ばないで。私はレッドアイよ、どうしても名前で呼ぶ必要がある時は雪と呼んで」
緊張からか、マグカップに手を伸ばした名前はそこに入っていた珈琲を半分程飲み干してしまう。それでも、口の中はカラカラだった。どうも、降谷零相手には得意の演技が通用しない。名前を呼ばれたら本音が引きずり出されそうで怖かった。
「ーー雪。何でお前がこんな所にいる」
「…貴方を追ってきたとかじゃないから安心して。貴方こそ、何でこんな所に?」
「…それはお前が1番分かっているんじゃないのか」
「……そう。やはり貴方はこれなのね」
コンコン、と机を叩く。それが示すのはノック。
「報告するか?」
「…別に。貴方がノックであろうと無かろうと、私には関係ない事よ」
マグカップに手を伸ばす。一気に飲まないように気をつけながら、一口だけ珈琲を飲んだ。テーブルに置いたマグカップの水面を意味もなく見つめながら彼の次の言葉を待つ。彼も彼で考える事があるのか、静かにマグカップに手を伸ばし珈琲を飲んでいた。
「…良いのか?」
「貴方こそ、言って欲しいの?別に私は組織がどうなろうと興味ないの。だから言うつもりはない」
でも、と彼女は言葉を続ける。マグカップに入った珈琲の水面はまだ揺れている。
「気を付けて。どんなに優秀な人でも、ノックである事がバレると地の果てまで追い掛けられて消されるわよ」
ーー私の両親のように。
口から出かけたこの言葉は仕舞っておく。彼は無表情でこちらを見ていて、昨日から見続けていた胡散臭い笑みより断然マシだと思った。
「…肝に銘じておくよ」
「…さぁ、言いたい事はそれだけ?なら帰って頂戴。帰って来てから立て続けに任務を入れられて疲れてるのよ」
名前は今度こそマグカップの中身を飲み干した。同時に彼のマグカップの中身が無いことを確認すると、2つのマグカップを持って立ち上がる。帰れという姿勢を全身で表した彼女の後ろ姿に、バーボンは苦笑する。そのままキッチンに引っ込んでしまった彼女を追い掛けて彼も立ち上がった。流しでマグカップを流す彼女に、声をかける。
「1つ言い忘れていた事があります」
「…何?」
マグカップを流し終わり、手を拭っている彼女の両手を掴み冷蔵庫に押し付ける。突然の事に力が入らなかったのか、大した抵抗も出来なかった名前の身体は彼の思い通りに動いた。
「何するの…離して!」
「……自分を大切にしろ」
ピクリと彼女の身体が震え、力が抜ける。右手の拘束を解いた彼はそのまま彼女の髪を掻き分け首筋についた跡をなぞった。
「ーーこんな事はもう、するな」
おやすみ。そう言った彼は最後にポンと名前の頭を撫でて帰っていった。遠くで玄関の扉が閉まる音が聞こえる。
「どうして…何であんなこと、言うのよっ…」
冷蔵庫に背を預け、しゃがみ込む。最後に見た彼の顔は、怒っているような、悲しそうな、辛そうな、そんな顔をしていた。バーボンの顔ではなく、降谷零の顔だった。我慢していた涙が、キッチンの床に落ちていく。結局私は、4年前から、いや、きっと両親が死んだ時から、一歩も進めていないのだ。
お題配布元:秋桜
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