すっかり日が昇ってしまった東京の街をBMWカブリオレが走る。都心に戻った頃には通勤ラッシュの波がちょうど終わった頃なのか、チラホラとサラリーマンを見かけた。朝方から何も食べていないお腹は空腹を訴え小さく鳴る。どこかの喫茶店でモーニングでも取ろうとBMWをパーキングに停めた名前は、財布を持って朝の東都の街に躍り出た。
歩き始めてすぐ目に入った喫茶店でモーニングを取った。想像以上に美味しく、また来ようと上機嫌で扉を開く。アルバイトのお姉さんのありがとうございました、という言葉を背中で受けながら昼前の東都の街へと踏み出した。
ここ数日仕事詰めだった為、彼女の家の冷蔵庫は物が少なくなっていた。ついでに何か買って帰ろうと考えた彼女がスーパーマーケットに向かって歩いていると、向こうから見慣れた姿がこちらに歩いて来るのが見える。相変わらずセンスの良い私服に彼女の心臓は早鐘を打った。どうか気付かれないようにと目を伏せて歩いてみるが、それは無駄足に終わる。
「雪さん、偶然ですね」
「…安室さん」
「丁度良かった。実は僕、この間車を駄目にしてしまいまして。今足が無いんです。送って頂けませんか?」
雪さん、車ですよね?と笑う彼に顰(しか)め面を返す。上機嫌だった気分は見事に萎んでしまった。
「ごめんなさい、送らせて頂きたいのは山々なんですが、生憎今日は電車でして」
「嘘ですね」
間髪入れずに彼女の嘘を見抜いた彼は、得意げに笑った。彼女はというと、こうも簡単に自分がついた嘘が見破られてしまい居心地が悪い。どうして分かったのかと思ったが、考えてみれば自分はすっぴんだった。これでは嘘だとバレるはずだと自嘲気味に笑う。
「雪さん、今日はすっぴんですし靴もヒールが無いものだ。簡単な推理ですよ」
「失礼しました。…送っても良いですが、あまり遠くはちょっと…」
「近場で大丈夫です。ありがとうございます」
そう言ってにっこり笑った安室透を一瞥し、息を吐いた。予想外の展開に食材の補充は諦めることにした彼女は愛車を停めてあるパーキングに足を向ける。気付くといつの間にか彼が横に並んで歩いていて、丸で数年前にタイムスリップしたかのように感じた。
パーキングに着くと送ってもらう代わりにこれくらい払わせてくれと安室は精算機に向かった。運転席に乗り込んだ名前は今更ながらに愛車の内部が煙草臭いことに気付く。考えてみれば自分が留守の間はベルモットがこの車に乗っていたし、今や彼女自身も喫煙者である為臭いが残らないはずはなかった。気を使うべきだったと嘆いたが、もう遅い。
そこまで考えて、何を取り繕う必要があるのだろうとはたと気付いた。彼の目にどう写ったって関係ないはずなのに。
「馬鹿みたい…」
自嘲気味に笑った名前は愛車のサイドポケットに手を伸ばした。そこから新品の煙草の箱を掴み出し、開封する。嗅ぎ慣れた桃の臭いが鼻をかすめた。愛車からシガーソケットを引き抜き、先端に火をつける。どうせなら。ーー堕ちるところまで、堕ちてやれ。
「お待たせしました、行きましょう」
「…ええ。何処まで送れば?」
「そうですね…組織の本部までお願いします。野暮用がありまして」
「分かりました」
ギアをドライブにいれてアクセルを踏む。ゆっくりと動き出したBMWは昼の東都の街を進み始めた。助手席に乗り込んだ彼は車が動き出してからずっと窓の外を見て黙っていて、その表情を伺い知ることが出来なかった。シンとした車内に彼女が煙を吐き出す音だけが響き渡る。そのうち短くなった煙草を彼女が備え付けの灰皿に押し付ければ、それを待っていたかのように安室が口を開いた。
「雪さん、煙草吸うんですね」
「ええ、まあ」
「前にご一緒させて頂いた時にほんのりと香りがしたので、もしやとは思っていたのですが…」
「失礼しました、お恥ずかしいです。苦手でしたか?」
「いえ、お気になさらず」
そう言った彼は柔らかく笑ったと思えば、次の瞬間には真剣な顔つきになる。再開してからというもの、名前がいくつ見たか覚えきれない程彼の表情はクルクルと変化していた。バーボン、安室、そして降谷零。自分が学生時代やっていたダブルフェイスでさえ辛かったのだ、トリプルフェイスの彼には計り知れない程の重圧がのしかかっているだろう。ボンヤリとそんなことを考えながら彼女はハンドルを握っていた為、彼の呼びかけに反応が遅れてしまう。
「雪さん?大丈夫ですか?良ければ運転、代わりましょうか?」
「大丈夫です、すみません。お気遣いありがとうございます。もう一度言ってもらえますか?」
「辛かったら直ぐに言ってくださいね。それと先程の質問ですが、雪さんのご両親は組織の人間だったとお聞きしまして。どんな方だったのかなと」
「…それを、何処で」
安室の口から想像もしていなかった単語が飛び出し、動揺する。動揺を悟られないようにゆっくり息を吐き、前を見据えた。信号が丁度青に変わり、アクセルを踏み込む。ウインカーを出して車線を変更した名前は、前方の赤信号を確認してゆっくりとブレーキを踏み込んだ。BMWは完全に停止し、彼女はゆっくりと横にいる安室を見据える。
「…大方クリスにでも聞いたんでしょう。隠すほどの事でもないので言いますが、その通りです。私の両親は組織の人間でした」
「……」
「母は組織にとても従順な人でした。そのお陰でバーバラというコードネームを貰える程に、組織の命令には何でも従う人間だった様です。父は…優しい人でした。狙撃の名手だった様ですが、私にはそんな姿を欠片すら見せたことがありません」
「ご両親は、何で亡くなったのですか?」
「あら、それはクリスに聞いていないのですね」
信号が青に変わった為、アクセルを踏み込む。
ハンドルを右に回し右折をしたBMWは、再びゆっくりと直進を始めた。
「…殺されたんです。いや、正確には、消されたと言った方が良いかもしれません」
耳に入った自分の声は、思いの外震えていた。ギュッとハンドルを握り、キッと睨む様に前方を見据える。全てが変わってしまった、あの日。
「何故です?貴女の母親は、組織に従順だったのでしょう?」
「裏切り者には死を。この世界の掟です。命を奪えない者の命は奪われてしまう。私の両親は、母は、父のせいで命を奪えなくなってしまった。結果、2人とも殺された…」
「父のせいで、ですか?」
「…もういいでしょう。これ以上は話したくありません」
「すみません、立ち入った事を聞いてしまって」
軽く謝罪した安室は、難しい顔をして再び窓の外を見つめていた。その表情をチラリと一瞥した彼女は、もう2度と横を向くことはなかった。やがてBMWは組織の本部に到着する。安室を下ろすだけなので駐車場には行かず、名前は路肩に車を寄せた。カチャリとシートベルトを外した安室が感謝の意を述べる。
「ああ、それと健康に悪いので、煙草は程々にお願いします。これは頂いていきますね」
そう言った安室は彼女がシガーソケット付近に置いたままにしていた、開封してからまだ1本しか吸っていない煙草を持ち去ってしまう。いきなりの事に目をパチクリとさせていた名前だったが、我に返り急いで運転席側の窓を下ろした。
「ちょっと、安室さん!」
「何です?」
「それ、返して下さい!」
「どれですか?」
それです、と言って安室の方に伸ばした手を彼に取られ、強い力で引かれる。上半身が車内から引き出され彼の方に引き寄せられた。驚いて反応出来ずにいる名前の唇にそっと安室の唇が触れる。
「なっ…!」
「送って頂きありがとうございました」
ヒラヒラと片手を振りながら去っていった彼を見つめる彼女の顔はその瞳の様に赤かった。
お題配布元:確かに恋だった
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