"組織を抜けよう"

そう思ったあの日から、名前は準備を始めた。簡単に抜けさせてくれるような組織ではない事は、自らの過去の経験からよく分かっている。組織の弱み、重要なデータ、それらに筆頭するような情報を手に入れなければならない。

また、今後のためにも変装術は身につけておいた方が良いように思えた。組織を抜けた後でも、誰に命を狙われるか分からない。この日から彼女はベルモットに変装術を教わるようになる。


名前が未来のために忙しく動いている中、零の方も仕事が忙しいようで2人が会う時間は以前に比べて格段に減っていた。2人は暇を見つけてはメールをしたり、電話をしたり、晩御飯を共にした。食事をしている時も彼は笑顔では無く思い詰めたような表情をしていることが多くなり、自分の身の回りで起きた事や仕事のことなどを名前に語らなくなった。それでも、名前は幸せだった。彼も仕事を頑張っているのだから、自分も彼との未来を掴むために頑張ろう、彼女はそう思っていたのだ。


そしてその日はやってくる。その日はとても寒い夜だった。名前が会社から出ると、タイミング良く彼から晩御飯のお誘いのメールが入っていた。OKとだけ返し、指定された待ち合わせ場所に向かう。近場だったためコツコツとヒールを鳴らしてレストランまで歩く。暫く歩いた彼女がレストランの前に着くと丁度彼も着いたばかりの所だったようで、片手を上げて名前を迎えた。

「今日はお仕事早く終わったの?」

「あぁ…」

話しかけてもどこか上の空の彼の後を追ってレストランに入る。席に着いてお互いドリンクを頼むと、いよいよ本格的に彼は黙ってしまった。

「…………」

「…………」

彼とは長い間一緒にいるがこんな居心地の悪い沈黙は初めてで、名前も戸惑ってしまう。どうしようかと考えあぐねている時、2人の目の前に丁度飲み物が置かれた。これ幸いと名前はグラスに手を伸ばす。こくりと飲んだそれは大好きな飲み物のはずなのに、緊張の為か何だか味がよく分からない。

チラリ、と彼を一瞥すると、彼も飲み物を口に含んでいた。そのまま暫く彼を見ていると、彼女の視線に気がついたのか彼も彼女を見据える。そして、観念したかのように息を吐いた。

「今日は話があって呼び出した」

「う、うん…。それで、話って?」

ギュッと腿の上で両の掌を握りしめる。彼は相変わらず自分を真っ直ぐ見ていて、目線を逸らしたいのに逸らせなかった。どこか覚悟を決めたような彼の瞳をじっと見つめながら、名前は彼の言葉を待つ。

「別れよう」

涙は出なかった。彼の瞳から視線を逸らすことも出来なかった。彼がコートを着て、鞄を持って、目の前から消え去ったところで初めて我に返る。

「ま、待って…!」

慌てて自分もコートを着て鞄を持つ。会計は彼が済ましてくれていたようで、ボーイに開けられたドアを急いで潜り抜けながら彼を追いかける。真冬の街並みはチカチカとした装飾で溢れかえり、中々彼が見つけられない。それでも、両の目を見開いて彼を探した。少し先に、白いコートを着た彼の背中が見える。

「待って、零!」

沢山の人の間を縫うように走り抜ける。それでも、彼との距離は縮まらない。彼の背中はどんどん小さくなっていく。

「行かないで…!」

ボキン、と音がする。その瞬間グラッと身体が傾き、名前の身体は地面に倒れた。ヒールが根元から折れている。暫く折れたヒールをぼうっと見つめていると、知らない男性が彼女に手を差し伸べてくれていた。

「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。すみません…」

その手を取り身体を起こすと、もう一度親切な男性に礼を言い名前は立ち上がる。もう彼の姿は何処にも見えなくて、名前は初めて先程起きた事が現実なのだという事実を実感し始めていた。折れたヒールを引きずりながら当てもなく歩く。転んだ時、手を差し伸べてくれたのは知らない男性だった。彼ではない。


その時、彼女のポケットに入っていたスマートフォンが震えた。零だと思った彼女が急いで取り出すと、それは組織からのメールだった。

「そ、そうだ…」

電話をしてみよう。あまりの突然の出来事に理解が追いつかない彼女は震える手で彼の名を探す。やっとの事で降谷零の文字を探し当てると、電話番号をタップした。

おかけになった電話番号は、現在使われておりませんーーー

カツン、と音がした。スマートフォンは彼女の手から滑り出し地面に叩きつけられる。

「どうしてっ…」

悪い夢なんかではない、これは全て現実なのだ。そう分かった瞬間、今まで出なかった涙が溢れた。涙は彼女の頬を濡らし、重力に従って地面に落ちていく。地面には相変わらず彼女のスマートフォンが転がっている。画面にヒビが入ったスマートフォンが、まるで彼女の心を表しているようだった。

お題配布元:秋桜

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