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旧鼠編
なまえは夕暮れの空を飛んでいた。街では街灯が灯り始め、夜の姿に変わろうとしている。ぼんやりとそれを見つめる彼女の瞳は、真っ赤だった。
あれから幼子のように泣き出してしまった彼女を、黒羽丸は何も言わずに抱き締めてくれた。あれから7年たったが、なまえの中であの時の傷が癒えることは無かった。傷は彼女の心に根付き、時折こうして彼女を蝕む。黒羽丸の胸に顔を押し付けるようにして泣いていたため泣き止んだ頃には着物がぐっしょりと濡れてしまっていたのだが、彼は何も言わなかった。そんな兄の優しさに感謝しながら目尻に残った涙を袖で乱暴に拭ったのだ。彼女のそんな姿を見た黒羽丸が慌てて濡れタオルを探しに行ったのはなまえしか知らない。自分が幼い時から変わらない、兄の行動。一瞬、ふっと笑みを溢したなまえは顔を引き締めた。自分のせいで夕方のパトロールが随分と遅れてしまった。もう、月が顔を覗かせている時間帯だ。なまえは夜空に羽根を舞い散らせながら華麗に飛んでいく。
「あれは…!!」
浮世絵町の繁華街に入ると、妖怪が人間を運んでいる姿が目に入った。そして運ばれている人間は、彼女が良く知る人物。花開院ゆらと、家長カナだったのだ。
「止まれ!!」
「何だぁ!?」
急降下したなまえは妖怪、旧鼠の軍団の行く手を阻むように降り立つ。ちらりと二人に目を向けると、大方気絶させられたのか二人は意識が無かった。一気に目を鋭くしたなまえは旧鼠に向かって畏を放つ。
「あんたら、この子達をど−するつもりだったの?」
「どうするもなにも…」
なまえの畏に当てられたしたっぱ達は、一歩一歩近付いてくる彼女を避けるようにじりじりと後退していく。しかし、そんな中でも不敵に笑う妖が一匹いた。旧鼠である。
「子猫ちゃん…そんなに怒らないでくれよ」
「はぁ?猫?私が?」
「いや、確か、孔雀ちゃん、でいいのかな…?」
「ふ−ん、私のこと知ってんだ」
だったら、そう言って彼女は羽根を大きく広げた。熱風が吹き荒れ、何処からか炎が燃える音が聞こえる。そして周囲は一気に気温が高くなった。孔雀の畏――紅蓮の炎。
「早くその子達を離しな。私に敵うと思ってんの?」
「くっくっくっ…」
「何がおかしい」
「孔雀ちゃんはまだこの状況を理解していないようだね」
楽しそうに笑う旧鼠とは対照的に、なまえの眉間には皺が増えていく。ひとしきり笑った旧鼠はパチン、と指を鳴らして部下に合図をした。旧鼠の命令を受けた部下達は抱える彼女達の首筋に顔を近付けていく。無防備にさらけ出されている首筋に。その血を、肉を、貪るために。
「さあ、どうする?」
「やめろ!」
「その炎を消してくれたら今すぐ」
「消すから!やめて!」
なまえがそう叫んだ刹那、炎が掻き消えた。辺りは涼しさが戻り街灯の灯りだけが妖怪達を照らし出す。炎が全て消えたのを確認した旧鼠は、再びパチンと指を鳴らした。ボスの合図を確認したしたっぱ達は仕方なさそうに彼らの獲物から顔を離していく。
「目的は、」
「?」
「あんたらの目的は何?餌が欲しかったわけ?」
「いや、違うな…」
顎に指を当てた旧鼠はニヤリと笑った。どうやら今夜の自分はついているらしい。人間だけでは彼が、彼等が動くか少々不安と言うもの。でも、彼女なら。
「奴良リクオの、側近…」
三代目の側近であるという彼女なら。兄弟のような存在である彼女なら。きっと彼らは動くはずだ。
「そういえば孔雀ちゃん、鴉天狗の義娘なんだってね」
「……何であんたが知ってんの?」
「いや…暫くねんねしてもらうぜ!」
「はあ?………きゃぁぁあ!」
後ろから頭を思い切り殴られたなまえは意識を失い、身体はフラりと地面に向かって倒れていく。その身体を優しく抱き締めた旧鼠はその赤い髪にキスを落とした。
「良い餌になってくれそうだ…」
牛鬼からこの依頼を受けたと同時に聞いた彼女のこと。
“孔雀という妖怪がいる…赤い髪をしている小娘だ。彼女はリクオがおそらく一番大切にしている側近であり、あの鴉天狗の義娘…よい餌になるかもしれぬ。最も、あやつがそう簡単に捕まるとは思えぬがな…”
奴良リクオが特に大切にしている、側近。そして鴉天狗の大事な義娘。それがこうもノコノコと自分の前に現れてくれるとは。クスクスと笑みを溢した旧鼠は部下を引き連れ闇へと消えていった。その場に舞い散った大量の羽根を、残して――
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